1.壮途
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(弱いから打ちのめされただけだろうに…)
母が寝静まった、ある日の夜。
私は井戸の傍で、打たれた頬を濡らした手ぬぐいで冷やしながら、内心独り愚痴ていた。
弱いのならば、鍛え直せば良い。たかが一度打ちのめされたくらいで、何をそこまで気に病むのか理解し難い。
はあ、とため息を吐きながら、手ぬぐいを再度濡らし直そうと桶に浸した、その時だった。
突如、母の
その声にびくりと肩が反射して跳ねた。
これは只事ではない悲鳴だと思い、私はすぐさま家の玄関へと走った。
「何!?どう、し…」
問い掛ける言葉は、しりすぼみに途切れた。
私が目の当たりにしたのは、血溜まりの中に沈む母の横たわる姿と、その傍でしゃがみこみ母の腕に齧り付く父の姿だった。
一目見ただけで、母は事切れているのが分かった。恐怖の表情で目を見開いたまま、その眼差しは虚空を見つめていた。
母の肢体を貪っていた父は、こちらにゆっくりと顔を向ける。
血に塗れた口元から覗く歯は鋭い牙を有しており、瞳は赤く瞳孔が縦長になっていた。
額には角らしきものも見受けられ、凡そ人間とは言い難い姿だった。
「……お前のせいだ」
ぽつりと、父だったものがそう呟いた。
「お前のせいで、息子は死んだ!!武家の誇りの為に腹を斬った!!お前が死ねば良かったのに、何故、何故女のお前に剣士の気質も才も…!!」
腹の底から響いているかのような、咆哮に近い怨嗟めいた叫びだった。
その言葉に、ひしひしと殺意が感じ取れる。
─逃げろ。
私の本能がそう告げた。
刹那、私は咄嗟に玄関近くに隠し置いてあった三節棍を手にすると、脇目もふらずに走り出した。
我が家は山の麓にあった為、私はすぐさま山の木々の中へと身を隠すことが出来た。斜面をひた走り、一番高い木の上に登って息を整える。
(あれはきっと、もう父ではない…恐らく私を殺しに来る…)
三節棍を握り締め、どうするかひたすら考えを巡らす。この武器では、打撃のみで致命的な攻撃には繋がらない。
刃物されあれば戦況は変わったかもしれないが、もうあの家へは引き返すこともできない。
冷や汗が背筋を伝い、いつ迫ってくるか分からないという焦燥感に駆られる。
何か決め手となる一手は無いかと思考を逡巡させていた中、不意に山の木々がざわめく音が耳に届く。
いつもなら夜に活動する鳥の声や虫の鳴き声がするのに、今日に限っては全くそれらの音がせず、不気味なくらいに静まり返っていた。
今聞こえるのは、ざわざわと葉擦れの音の中に混じって、微かに聞こえた落下する水の音。
(……あそこに賭けるしかないか)
その音の正体が分かった私は、その地の利を生かすべく直ぐに木から降り、更に山の奥へと走った。
そして目的の場所に来た時、そのすぐ傍の木に登り息を潜めて、父の姿をした化け物が現れるのを待った。
…向こうが命を奪いに来るのなら、こちらも命を奪う権利はある。
腹積もりが決まった私の心に最早躊躇いは無く、今はただ静かな闘志が燻っていた。
夜の山の暗闇にじっと目を凝らす中、草木をかき分けてその化け物は現れた。
月明かりに照らされたその姿は、もはや父の面影から乖離し始めていた。
角や牙は先程よりやや肥大しており、口角からは涎が垂れ、赤い目がぎょろぎょろと忙しなく動いている。
その"鬼"が私のいる木の下を通過し、数歩離れた位置まで行った瞬間。
私は素早く地面に降り立ち、同時に三節棍を振るった。鬼はこちらの降り立つ音に振り返ったが、私の攻撃の方が早かった。
最初の打撃は側頭部に当たり、微かに相手の足元がふらついた。が、痛がる素振りは無く、攻撃が効いている様子は無かった。
(怯むな、このまま押し切れ!)
自身を鼓舞し心を奮い立たせて、私は次々と攻撃の手を休めず連撃を繰り出す。
隙なく浴びせる止まない攻撃に、相手の足が一歩また一歩と後退って行く。
そして、もうあと一歩下がればという所で向こうからの反撃を受けた。
「小ざかしいッ!!」
「っ…!」
咄嗟に躱すものの、相手の爪が頬を掠め、皮膚が裂けて鋭い痛みがちり、と走った。
それでも私は敵から目を離さず、怯むこと無く最後の一撃を繰り出す。
思い切り地面を蹴り出し、全力で体当たりを食らわせた。
「なッ…!?」
私がぶつかった衝撃で相手の身体は吹っ飛び、そのまま後方の崖下─滝壺へと落下していった。
体当たりをした拍子に地面に倒れ込んだ私は、ずるずると這いずって崖淵から下を見下ろす。
眼下に広がる景色は真っ暗な闇ばかりで、鬼の姿はどこにも無く、ただどうどうと落ちる滝の音だけが響いていた。
きっと、高さに加えてこの水量の滝に落ちてしまえば、あの化け物でも一溜りも無いだろう。
上体を起こしてその場に座り込み、肩で息をしながらしばしその闇を無心で眺めていた。
鬼と言えども、かつては私の血の繋がりのあった父。それを葬った。
しかし、哀しみや罪悪感は不思議と感じなかった。むしろ、妙な解放感すら覚えていた。
家族として機能不全だったこの親子関係は、私にとってはきっと、生きるのに不要なしがらみにしか過ぎなかったのだろう。
いやに冷静にそう自身の心理を分析した後は、漠然とこの後の始末をどうしようか、などと考えていた。
どれだけの時間を放心状態になっていたのかは分からないが、気が付けば空は白み始めており、間もなく夜明けが近付いていた。