短編
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その日、私は鍛錬も鳥舍の作業も終えて任務も無い為、自宅で久々にゆったりと過ごしていた。
洗濯等も済ませ、一息つこうとお茶を淹れていた時に悲劇は起きた。
台所にて、急須にお湯を注ぎ湯呑みと共に盆に乗せて居間へと運ぼうとした時。
壁に、黒光りする名前も出したくない例の虫がいるのが視界の端に映った。
途端に走る緊張感。動けば恐らく相手も動く。
私はそいつを刺激しないよう極めてゆっくりとした動作で、傍らにある捨てる予定だった汚れた竹編みの籠を右の手に持つと、瞬時に壁にそれを押し付けて例の奴を捕獲した。
しかしその衝撃が壁から伝わったのか、左上方に備え付けてあった吊り棚の緩んでいたであろう金具が外れた。
「あっ!?」
棚の皿などがこちらに滑り落ちてくる寸前、私は傾いた棚を支える。
しかしその上に載っていた瓶が転がり、目の前の盆に落下した。
「あぁっ!!」
跳ねる盆とその上にあった湯呑み、そしてお湯の入った急須。
このままではお湯を引っ被り火傷する。
瞬時に判断した私は、左脚膝を高く持ち上げその膝上付近に盆を乗せて急須の落下を防いだ。
かくして大惨事は免れたのだが─
(あ、詰んだ)
右手は黒光りの虫を捕らえた籠、左手は棚の落下を防ぎ、左足は盆と急須。
こうして私の身体を支えるのは右足一本となり、少しでも
現状を打破しようと目論むも、右手を離せば黒光りの虫は私目掛けて飛んで来るかもしれない。
それは嫌だ。
左手を離せば皿など様々な物が割れてしまう。
それも嫌だ。
左足を下ろせば、急須のお湯(今はもうお茶になっているかもしれない)が右足にかかり火傷する。
これも嫌だ。
世の中には"嫌よ嫌よも好きのうち"なんて言葉があるが、今は本気で全部嫌だ。
このまま体勢を保ち急須のお湯が冷めるのを待とうかと思ったが、こんな時に限って熱々のお湯を並々と注いでいたので冷めるのは大分時間がかかるだろう。少し前の自分を恨めしく思った。
いや、それよりも先に私の右足の方が限界が来るかもしれない。
既に少しぷるぷるとし始めている。
こうして私は珍妙な姿勢を保ったまま、嫌な究極の三択を迫られていた。
しかしここで、救世主の声が玄関の方からした。
「すまない、真尋はいるだろうか」
行冥!なんて素晴らしい機会に来てくれたんだろうか!今は彼が仏様か何かに思えた。
私は手足の均衡を崩さないよう、そして玄関まで声が届くように助けを求めた。
「行冥っ…!助けてっ……!!」
こちらの苦しげな声が届いたのだろう、「失礼する」という声がしてこちらに来る足音が背後からする。
程なくしてここに辿り着き、そして窮地に陥っている私を見て、というよりは察知して一言。
「……何をしているんだ君は…」
「こっちが聞きたいよぉ…!」
半ば呆れ気味の声で訊ねられたが、今はそれどころでは無い。そろそろ右足の震えが限界を訴え始めている。
しかしどうやら背後にいる人物は、私の今の体勢がどんな状態なのかを気配で察したのだろう。
堪えたような笑い声が微かにした。
「……ふ…」
「ちょっ…笑ってないで早く助け アァーッ!?」
支えていた左手が少しズレたのか、棚に載っていたもう一つの瓶が転がり落ちそうになり、私はまたしても奇声を上げてしまった。
─────
ひとまずは、究極の三択による悲劇は免れた。
救世主の登場によりどれも被害拡大する事は無く、無事にお茶も淹れられたのだが。
「何か一気に疲れた…」
私は居間の畳の上で伸びていた。
その傍らで、私の身に起こった出来事を聞いた行冥は少し憐れんでいる様子で座っている。
「今日の真尋は厄日だな…」
「ね。でも行冥が来てくれて助かったよ、ありがとう」
「それにしても何故あの様な体勢になったのか……ふふ…」
「思い出し笑いしないでよ!こっちは必死だったんだから!」
「いや、すまない…」
くわっとむきになる私に対し、行冥は笑いを堪えている様子だった。
しかしふと思ったことが一つ。
(そういえば行冥が笑ってるのって、見た事ないな)
いつも悲痛な面持ちばかりで、涙を流すことが多いこの人物が楽しげに笑う姿は、ちゃんと目にしたことが無いことに気がついた。
鬼殺隊に属していれば凄惨な事に出くわすが多いから、笑うことも少なくなるのは無理もない。
それでもこのような僅かな時にでも笑える事がないと、段々と息が詰まるだろう。
そう思うと、こうして少しでも彼が笑ってくれるのならば私の身に起きた出来事も、無駄では無いような気がした。
「まあ、行冥が楽しそうに笑ってくれたのならそれでいいや」
私は苦笑いしながら上体を起こした。
こちらの言葉に、隣にいた人物は穏やかな声で返す。
「…君といると、俗世への哀しみも忘れてしまうな」
「ふふふ、行冥が喜んでくれるなら私はありとあらゆる予想外の出来事を巻き起こしていくよ!」
「真尋…それは止した方が良い…」
「あはは!冗談だって!」
けらけらと笑う私に、行冥は困ったよう表情ながらも、微笑みを口元に湛えていた。