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しっぽや(No.102~115)

2人の生活は規則正かった。
青年は早朝に出かけ、昼頃に帰ってきて犬の訓練をして散歩に行く。
帰ってくると犬にご飯をあげて犬舎の掃除をしていた。
一通りのことが終わると、夜になっている。
『この人、ちゃんと寝てるのかな
 5時前には起きてるみたいだけど』
俺は人事ながら心配してしまった。
青年の顔には色濃い疲労の陰が差し始めていた。


ある日、車から青年とともに中年のオジサンが降りてきた。
しかし犬はオジサンを前にして尻尾を振っていた。
「アソート元気そうだな、俺のこと覚えてるか」
オジサンが話しかけると、犬は吠えながら尻尾を振った。
青年が檻の鍵を開け犬を出すと、いつものように大人しくその左側につく。
その犬の頭を、オジサンはガシガシと撫でてやっていた。
「こりゃ毎年合格する訳だ、うちの犬とは風格が違う
 タロー君は優秀な訓練士なったもんだ」
オジサンの言葉に青年は照れた笑みを見せる。
「ヤマさんみたいなベテランには、まだまだ適いませんよ
 アソートの訓練だって、初期にヤマさんが手伝ってくれたからスムーズにいったんです」
頭をかく青年を、オジサンは優しく見つめていた。

「タロー君が俺の息子だったらなー」
ふうっと息を吐くオジサンに
「何言ってるんですか、ヤマさんとは親子ほどには年が離れてないでしょ
 第一、息子さんに悪いですよ
 今年、中学生になったんでしたっけ」
青年は苦笑混じりに答えた。
「そう、反抗期始まってきて可愛くないのなんの
 気が小さいビビリのくせに、減らず口は一丁前
 そうか、もう一人子供が産まれたらタロー君の名前をもらおう」
「ヤマさん、名前ってまさか名字の方?
 絶対あだ名が『タロー』になるから、やめてあげてください」
「だから、面白いんじゃないか」
笑いあう2人の顔をキラキラした目で見つめながら、犬は嬉しそうに尻尾を振っていた。

「タロー君ちゃんと寝てる?顔色あんまり良くないよ
 訓練士1本ではやってけないの分かるけど、早朝の仕事と掛け持ちじゃキツいんじゃないか」
オジサンは俺と同じ事に気が付いていた。
「両親も協力してくれているし、大丈夫ですよ
 若いうちに少しでも稼いでおかなきゃ
 ヤマさんくらいの年になったら、訓練士1本で頑張ります」
青年は少しおどけたように言ってみせるが、その笑みは弱々しかった。


その後も青年と犬の日々は続いていく。
しかしその規則正しい生活は、ある日唐突に終わりを告げた。
その日はいつもの時間になっても、青年の車が帰ってくることはなかった。
異変を感じた犬は、犬舎の中を忙しなく動き回っている。
夕方近くに家から青年の両親が慌てた様子で出かけていくのを、犬は不安そうに見送っていた。

夜になり、以前に来たことのある『ヤマさん』が車でやってきた。
「アソート、お腹空いただろう散歩に行ったらすぐにご飯にしような
 暫く訓練はお休みだ」
ヤマさんに犬舎から出してもらった犬は、青年の姿を求めてあちこち嗅ぎ回っている。
「タロー君は…ちょっと具合が悪くなって、入院してる
 すぐに良くなって、アソートのとこに帰ってくるからな」
ヤマさんは犬を落ち着かせるためにそう話しかけていた。
だが、その目尻には涙が滲んでおり、青年の症状が深刻なものであることが伺えた。
「俺があの時、強引に病院に連れて行ってれば…」
思わず漏らしたのであろうヤマさんの言葉を、犬は首を傾げて聞いている。
「いや、大丈夫だ、きっと戻ってきてくれるさ」
それは犬に話しかけている、と言うよりは、自分を納得させるために無理に口にしているような言葉であった。


結局、青年は犬の元には戻ってこなかった。
ヤマさんが犬に向かって語りかける言葉の断片から、青年は過労により体調が悪くなっていたのに無理をして仕事や訓練を続けていた事が判明する。
職場で倒れたときには既に意識が無く、取り返しの付かないような状態だったらしい。
犬はヤマさんに引き取られて訓練を続けていたが、明らかに覇気がなくなりミスを連発するようになっていた。
愛する飼い主を失った彼は、警察犬としては使い物にならなくなっていたのだ。
ヤマさんはそんな犬に無理をさせようとはせず、愛情を注いで世話をしていた。
犬はヤマさんの家で穏やかな余生を送り、静かに旅立っていく。
けれども、その心の内には後悔の炎が燃えていた。


もしも自分が人であれば、あのお方が具合を悪くしていることにきちんと気が付けたのではないか
あのお方をもっと早く病院に連れて行けたのではないか
共に働き、生活を支えられたのではないか、守れたのではないか
具合の悪かったあのお方に面倒をみてもらうだけだった犬の身が、不甲斐なかった


ソウちゃんは自らの後悔の炎に焼かれ、今のような存在になっていたのだ。



ソウちゃんから額を離した俺は、真っ青になっている彼の顔を呆然と見つめるしかなかった。
驚きすぎて、言葉が出なかったのだ。
「ウラ…今…自分の記憶を…」
ソウちゃんは端正な顔を歪めるものの、涙を見せはしなかった。
「貴方が見たように、自分は人ではありません
 ……化け物です…」
喉の奥から絞り出すように、かすれた声で呟いてガクリと頭を下げる。
「今は警察犬ですらありません、化け物なのです
 ただただ、新しい飼い主を求める浅ましい獣なのです」
絶望的な告白をするソウちゃんに、俺はやっと言葉をかけた。


「俺の名前『山口 浦(やまぐち うら)』って言うんだ
 ソウちゃん、爺ちゃんのこと知ってたんだね…」
ソウちゃんは一瞬不思議そうな顔になったが、徐々にその目が驚愕で見開かれていった。
「山…口…?
 まさか、まさか貴方は…
 ヤマさんの、お孫さん…!?」
ソウちゃんの言葉に、俺はコクリと頷いた。
「俺の名前、爺ちゃんが付けたんだ
 『もう一人の息子の名前を貰った』
 って言ってた
 これは親父には内緒の、俺と爺ちゃんだけの秘密の話
 ソウちゃんの飼い主『浦島』って名字だったんだろ?
 まあそりゃ、あだ名は『タロー』になるよな
 爺ちゃんが俺の名前、そのまんま付けなくて良かったよ」
俺は少し笑ってみせた。
ソウちゃんは俺に抱きついて、そのままきつく抱きしめる。
「ウラの中では、あのお方の名前が生きているのですね
 あのお方が生きていた証がウラだとは…」
彼は涙を堪(こら)えるように、震える声で呟いた。

何故泣かないのかと不思議に思ったが、前に俺が『泣くな』と言ったことを思い出す。
ソウちゃんは忠実に俺の命令を守っているのだ。
自分の感情すら押し殺し、愚直に俺の言葉を守るソウちゃんに胸が熱くなる。
「ソウちゃん、こーゆー時は泣いて良いから」
艶やかで柔らかな彼の黒髪を撫でながら言うと、俺を抱きしめている大きな体が小さく震え嗚咽を漏らし始めた。


『ソウちゃんは犬っぽいんじゃなく、本当に犬なんだ』
ソウちゃんは自分のことを『化け物』と言ったけれど、お化けとか妖怪みたいな不気味な怖さは全く感じなかった。
不思議な存在だと思うけれど、その有り様は悲しみと後悔に満ちている事を彼の中に見たからだろうか。
「ソウちゃんは、何なの?」
彼の嗚咽が小さくなった頃、俺は小さく問いかけてみた。
「自分達は『化生』と呼ばれる存在です
 前の世で果たせなかったことを果たすため、獣の輪廻の輪から外れ、人に化けて生きていく
 それが自分達、化生なのです」
ソウちゃんは涙を拭い、俺の目を真っ直ぐに見てしっかりと答えた。

「果たせなかったこと…?」
首を傾げる俺に
「自分は、飼い主を、あのお方の生活も健康も命も何もかも守れなかった
 犬の身でなければ、守ることが可能だったかもしれない
 今度は人として飼い主の隣に立ち、お守りしたいのです
 ウラ、どうか貴方を守らせてください」
ソウちゃんは懇願するように訴えた。
「ソウちゃんバカだな、自分の価値、全然わかってないんだから」
俺は苦笑してしまう。
不安な顔を見せる彼に
「警察犬だったソウちゃんは、毎年試験に合格してたんだろ?
 それ、本当に凄いことなんだってば
 訓練士として、あの人がそれをどんなに誇りに思っていたか
 自分の期待に応えようとしてくれている犬を、どれほど愛していたか
 ソウちゃんはずっと、飼い主の心を守っていたんだよ
 だからあの人は、あんなに大変な生活を頑張れたんだ
 頑張りすぎた、とは思うけど…」
そう伝えたが、最後は言葉が小さくなってしまう。

「自分が、あのお方を、守っていた…?」
ソウちゃんは呆然と呟いた。
「うん、ソウちゃんは本当に優秀な警察犬だよ」
俺はまた、彼の頭を撫でてやった。
「俺も、ガキの頃世話を手伝ってた犬がいたんだ
 他の犬は俺のことバカにしてたからエサ皿下げるのも一苦労だったけど、そいつはおっとりしてたんで大人しくガキにエサ皿触らせてくれた
 でもそのおっとりした性格が、警察犬には合わなくてさ
 結局1回も試験に合格した事はなかったよ
 俺、世話しながら、こいつはダメな犬なんだって思ってた
 あんなに性格の良い犬だったのに…」
今はもういない犬のことを思い出し、後悔の涙があふれてしまう。
そんな俺を、ソウちゃんは優しく抱きしめてくれた。
「ウラに世話をしてもらって、その犬は幸せでしたよ
 貴方を好いてなければ、大事なエサ皿を触らせません」
今度はソウちゃんが俺を慰めてくれる。

「何というか、犬と人は理解し合えないものですね
 それでも、自分達は人と共に在りたいと思った」
「心が通じてるようで、通じてなくて
 それでも、一緒にいると慰められて癒される
 完璧に分かり合えなくたって構わない、側に居て欲しいんだ」
俺達はお互いに見つめ合い、唇を重ねた。

「自分を、飼っていただけますか」
微笑みながらソウちゃんが問いかける。
「もちろん、ソウちゃんみたいな立派な犬を飼えるなんて嬉しいよ」
俺も笑ってそう答えた。

奇妙だと思っていた俺達の関係は『飼い主』と『飼い犬』という、実にオーソドックスなものに変わる。
そして『恋人同士』なんて、以前の俺なら白けてしまうであろう関係に変わる。
けれども今の俺には、それも満更でもないと思えた。

ソウちゃんと一緒なら、くだらないと思っていた俺の人生が明るく変わっていくのではないか。
俺を真っ直ぐに見つめてくれるソウちゃんの顔を見ると、そんな前向きな気持ちになれるのだ。

『今度こそ、きちんと面倒みるからな』

新しい飼い犬に、心の中で俺はそう誓うのであった。
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