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しっぽや(No.85~101)

『ジョン』
闇の中で、あのお方が優しく俺を呼ぶ。
『ジョン…』
その声がどんどん遠ざかっていく。
『ジョ…ン…』
闇が深すぎて、どこにあのお方が居るのかわからなくなっていく。
『…ジョ…ン……き…を…よろ……く…頼む…な……守っ…て……』
途切れ途切れに、闇の中からあのお方の声が聞こえた気がした。
『待ってください!待って!俺を置いていかないで!
 俺も貴方のお側に行きます!
 もう、満月を恋いこがれるだけの上弦では寂しすぎて嫌なんです』
泣きながら手を伸ばしても、気配すら感じられない。
『貴方のお役に立ちたくてこの姿になったのに、間に合わないなんて』
自分の存在意義が全て無くなっていくのを感じ、この世から消滅してしまいたいと願った。

「駄目です!」
そんな俺の耳に、力強い言葉が響く。
「貴方が化生出来たことには、意味があるはずです
 それを見極めずに消滅してはいけません」
気が付くと、親鼻が俺を抱きしめていてくれた。
「もう、あのお方は居ないんだ…」
泣きながら呟く俺に
「秩父先生に正体を悟られ、せっかく飼っていただいたのに捨てられるかもと感じたとき、私も消滅しかけました
 けれども、秩父先生は私を迎えに来てくれた
 貴方を迎えに来てくれる方が、きっと居るはずです」
親鼻はきっぱりと宣言する。
俺の手を握ってくれていた黒谷も、強く頷いている。
「また、出会えるかもしれない
 ジョン、待っていよう
 飼い主を待つのは、犬の勤めだよ」
仲間達の言葉に、俺の心が落ち着いていく。

「あ、あの…?」
光男氏がオロオロしながら俺を見つめていた。
『あのお方の忘れ形見に、みっともない姿は見せられない』
そう気が付いた俺は
「取り乱してしまってすいません」
涙を拭いながら、何とかそう言った。
「この人の親が、一番岩さんにお世話になったんですよ
 いつかご恩返しをしたいと、常々言っておりましたから」
秩父先生が慌てて場を取りなしてくれる。
「そうでしたか、義理堅い方だ」
光男氏は俺にも深々と頭を下げてくれた。

「義理堅いのは、貴方も一緒ですよ、光男さん
 岩さんの言葉に従って、わざわざ訪ねてきてくれたのだから」
秩父先生の言葉に、光男氏は照れた顔をみせた。
「いや、わざわざってほどでもないんです
 実は、こちらの方に引っ越してきましてね
 営業と挨拶もかねて訪ねてみたんですが、まさか親父の知り合いがこんなにいる町だったとは
 縁、ってやつですかね」
光男氏はそう言って頭をかいた。
「隣町で、クリーニング屋を営業してるんです
 背広なんて洗いはしても着る事なんて滅多にないし、お医者先生の家に行くってんで、今日は随分緊張しましたよ
 役者みたいな格好いい若者が集まってて、場違いなとこに来ちまったとハラハラした」
光男氏は深く息を吐いてニッコリと笑った。
その笑顔は、あのお方が俺に向けてくれたものと同じで、懐かしさにまた涙が溢れそうになった。

「あのお方…いえ、岩さんはいつ頃ご家族の所にお戻りになったのですか?」
俺が死んだ後のあのお方のことを、知りたかった。
皆、黙って俺の言葉に耳を傾けている。
「あれは、万博の前くらいだったかな
 復員してから長い間行方不明で連絡一つよこさなかった親父が、フラッと帰ってきてね
 子供の頃は親父が居なくて寂しい思いもしたし、若い頃は恨んだこともあったけど
 年取って、小さくショボクレた爺さんになった親父を見たら、何にも言えなくなっちまった
 お袋はいつか親父が帰ってきてくれると信じて、女手一つで俺を育てながら家を守ってたんだ
 親父が帰ってきた頃には身体悪くして入退院繰り返してたけど、最後は親父に看取られて穏やかな顔で旅立ったよ」
その言葉を聞いて
『あのお方は、大事な方の最後に間に合ったのだ』
と、俺は安堵の息を吐いた。

「数年後、後を追うように親父も旅立った
 あんな戦争がなけりゃ、俺達家族はずっと一緒にいられたのに、と思うとやりきれなかったね」
光男氏の言葉に、黒谷が辛そうな顔を見せる。
しかし、その戦争があったおかげで俺はあのお方に飼っていただく機会を得たと思うと、心は複雑だった。

「そうだ、これ、親父が大事にしてたお守り
 秩父先生に貰って頂いた方が良いかと思って、持ってきてみたんですが」
光男氏が差し出したくたびれたお守りを、秩父先生が受け取った。
「ご家族が持っていた方が御利益ありそうだけど…
 ?いやにふわふわしてるね、これ」
秩父先生がお守りを摘んで、不思議そうな顔をする。
「そうなんですよ、でも、開けてみるのも罰当たりな気がして
 秩父先生なら、中身が何か知ってるかなと」
光男氏は困惑した顔になった。

俺は、そのお守りに見覚えがあった。
あのお方が肌身離さず持ち歩いていたものだ。
そこには、もしもの時の蓄えで千円札が10枚入ってた事を俺は知っていた。



そのお守りを見た化生の顔が、伺うように俺を見た。
俺も、懐かしすぎる臭いに唖然とする。
それは、紙幣の臭いではない。
「中を見て、良いですか…?」
震える声で懇願し手を伸ばすと、秩父先生はそれを俺に渡してくれた。
中身をこぼさないよう慎重に取り出してみる。
お守りの中からは、茶色い毛が固まって出てきた。
「犬の毛…俺の毛だ…」
俺はそれを抱きしめて、頽(くず)折れてしまう。
俺は死んだ後も、ずっとずっとあのお方と共にあったのだ。
俺があのお方を求めていたときも、これがあのお方の心を守っていてくれたのだ。
満月はいつだって輝いていたのだ。

「このお守り、彼にあげてもよろしいですか」
秩父先生が穏やかな声で問いかける。
「そうですね、そうしてもらった方が、良い気がします」
光男氏がそう答えてくれた。
「ありがと…ございます…」
涙でかすれる目に、懐かしいお守りが光り輝いて見えた。


落ち着いた後、光男氏も加わりお茶を飲みながら雑談をする。
光男氏は寡黙なあのお方とは違い、気さくで人当たりの良い話術が巧みな方だった。
「光男さん、クリーニング屋なんだよね
 病院関係のものは頼めないけど、僕個人の物は頼もうかな
 そうすれば、ハナちゃんも楽できるでしょ」
秩父先生が親鼻に視線を向ける。
「皆も、何かあったら頼むと良いよ
 今まで洗い方が分からなくて、買えない服とかあったもんね」
秩父先生の言葉で、俺達は笑顔を見合わせた。

「皆様、どうぞ、ご贔屓に
 お得意さまには車で配達もしますよ
 春に高校を卒業した息子が、配達を手伝ってくれてましてね
 これが内弁慶(うちべんけい)と言うか引っ込み思案(じあん)と言うか、接客があんまり上手くない奴で
 お客さんとの会話の間が持たないんですよ
 それで、配達と裏方やらせてましてね
 でも、クリーニングの腕は悪くないんです、キレイに染み抜きしますよ」
光男氏は困った顔をしながらも、どこか誇らしそうにそう言った。

「そうそう、息子の名前、親父の『岩』の字をもらって『岩月(いわつき)』って名付けたんです
 付けたのはお袋なんですがね、俺の名前が『光男』だから『親子だと月光だわ、ロマンティック!』なんて、かみさんが盛り上がっちまって
 女って奴は、ロマンチックに弱い生き物ですな」
「うちの看護婦さん達も、そんな感じかな」
秩父先生と光男氏は笑いながら話しているが、下弦の月から月光が生まれたことは、俺には喜ばしく感じられた。
新月になって消えたと思える月ではあるけれど、変わらずそこにいる。
いつか再びその光を灯してくれる。
あのお方を無くした俺には、今は見えないだけで確実にどこかにいてくれる新たな飼い主の存在を信じるしかなかった。

「おっと、そろそろ息子が車で迎えに来てくれる時間だ
 せっかくだから、挨拶させましょう
 『祖父ちゃんがお世話になった人達なんだぞ』って
 親父と息子は何だか馬が合うみたいで、帰ってきてからはよく子守しててもらったんです
 俺より、息子の方が親父のことに詳しいかもしれないですな
 引っ越すと決まったときも、息子だけが『祖父ちゃんのお家を離れるのは嫌だ』ってムクレてまして
 引っ越した先で先生方のように、親父のこと知ってくれてる人がいるなんて、喜ぶんじゃないかな」
そんな光男氏の言葉と共に、チャイムの音が響きわたった。
「ちょっと行ってきます」
今度は光男氏だけが、玄関に向かってく。
光男氏の居ない部屋で
「不思議な縁って、あるもんだね」
秩父先生がしみじみとそう言った。


『何だ?!』
あのお方の死を知らされたばかりだと言うのに、俺は急に気分が浮き立ってくるのを感じた。
それはあのお方が宿に帰ってくる直前のような、言いようのない幸福感。
これから良いことが起こると確信できる気分の高まりで、自分でも何故なのか説明が付かなかった。
「どうしたの?」
気が付いた黒谷が問いかけてくるが
「わからない、でも、何かが嬉しいんだ」
俺は混乱しながらそう答えるしかなかった。

「どうも、息子の岩月です
 ほら岩月、祖父ちゃんがお世話になった方だぞ、挨拶して」
光男氏に促されて部屋に入ってきた人物を見た瞬間、俺の感情が爆発する。
振る尾の無いもどかしさ、というやつがやっと俺にも理解できた。
「あの、永田 岩月です
 えと、祖父ちゃんが、その…、お世話になりました」
岩月は消え入りそうな小さな声で、モジモジとそう言った。
あのお方にはあまり似ていないが、眉の形が一緒であることに俺は気が付いた。
背はあのお方と同じくらいなのにもっと痩せていて、肌は月の光のように白かった。
節目がちの瞳に長い睫毛、そこに影を落とす艶やかな黒髪。
その姿に愛しさがわき上がる。

消滅しかかった俺にあのお方が微かに『守れ』と伝えた相手は、彼に違いなかった。

俺は再び、俺の半月と巡り会えたのであった。
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