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しっぽや【アラシ】(No.23~31)

「白久は私の犬だ
 荒木、君になんか渡さない!」
日野様はそう叫ばれて、また激しく咳き込んだ。
「日野…」
そんな日野様に、荒木は戸惑った視線を向けている。
耐えきれずにベッドから降りて日野様の元に駆け寄ろうとした私の肩を、黒谷がグッと掴む。
「クロ、離してください!
 あのお方が苦しんでおられる!」
そう訴えても、黒谷は腕の力を緩めてはくれなかった。
「これは…この気配は…!?」
黒谷の目が驚愕に見開かれ、呟きは次第に悲痛な叫びになっていく。

「違う、違う!シロ!彼は違うんだ!
 ああ、そんな、まさか、まさか…!」
私の肩に黒谷の指が、痛いほど食い込んでいる。
「貴方は…貴方は、またそんな…
 死霊に体を使われるなんて…
 しっかりしてください!和銅!
 自分の意識をしっかり持って、死霊の感情に引きずられてはいけません!
 和銅、僕を思い出してください、和銅!!」
魂を揺さぶるような黒谷の慟哭が、部屋に響きわたった。

「クロ、何を言って…?」
私には黒谷が何を言い出したのかわからなかった。
「シロ、あの方はシロの飼い主の転生体じゃない
 あれは、和銅の転生体だ
 転生してもなお、死霊に取り憑かれやすいお体だとは…
 シロの飼い主は、和銅に取り憑いた死霊だ
 お亡くなりになった状態のまま、時を止めてしまわれた死霊なんだよ」
黒谷の言葉は、にわかには信じられないものであった。
部屋にいる誰も、事態が飲み込めていなかっただろう。
「彼は和銅だ、和銅なんだよ、だから化生の事を知っていたんだ
 しっぽやの事を知っていたんだ!
 和銅、どうかお願いです、僕の元に帰ってきてください!」
泣きながら懇願する黒谷に、日野様が反応する。
「帰る…オレの帰る場所…?」
しかしそれはつかの間の事であり、再びあのお方の気配が濃厚になった。

「違う、シロこそが私の犬だ
 他の犬はいらない、シロしかいらない!
 健康な者が、私の唯一の心の支えを奪うなど許さない!」
部屋に充満する邪悪な気配で、私にも黒谷の言っていることが真実であるとわかってきた。
けれども、それを認めたくなかった。
「あのお方が、私のせいで悪霊になってしまうなんて…」
涙を流して呟いた私の手を、荒木が力強く握りしめた。
「白久、お願いだ、飼い主に日野の体を返すよう言ってくれ
 なんかよくわかんないけど、白久の飼い主が日野に取り憑いてるんだろ?
 これじゃ、日野の体が保たないよ
 日野は、俺の大事な友達なんだ!」
泣きながら叫んだ荒木の言葉で、日野様の目からも涙がこぼれた。
「あ…ら…き…?」
すかさず黒谷も
「和銅、僕の元にお帰りください
 ずっと、ずっと長い間、和銅のお帰りをお待ちしておりました
 今度こそ、僕が貴方をお守りいたします
 また再び、僕を飼ってください!」
魂の叫びを上げる。
「く…ろ…や…、黒…谷、黒谷ぁ!
 助けて、助けて黒谷、怖いよ、戦争に行くのは怖いよ、黒谷ぁ!」
そう叫び返された日野様から、私は微かに遠い昔に感じたことのある黒谷の飼い主の気配を感じ取っていた。

今、日野様の体の中では様々な気配がうごめいていた。
あのお方の気配、和銅様の気配、そして日野様ご自身の気配。
どれが本物のこの体の持ち主であるのか、私には判別がつかなかった。
しかし、人の体にとってこの状態が望ましいものでないことは、理解できた。
「白久、よろしいですか?」
三峰様が厳かな声で問いかける。
その言葉に、私はハッとした。
古来より狼には魔を払う力があるとされ、信仰の対象になっている。
三峰様なら、悪霊と化してしまったあのお方を払えるのだ。
あの体があのお方の転生体でなければ、きっとあのお方は消滅する。
それは、2度とあのお方と会えなくなると言うことであった。
再び、私の心はあのお方と荒木の間で揺れ動いた。
「きちんと、ご供養いたしますよ」
三峰様のい労るようなお言葉。
「白久、日野を助けて」
荒木の懇願。

こんな状態になった私の側に居てくれる荒木を見て、揺れていた心は一つの決断を下す。



「三峰様、どうかあのお方の魂に…、安らぎをお与えください」
涙と共に、私は身を裂かれる思いでその一言を告げる。
その言葉に、日野様が目を見開かれた。
「シロ…?
 何で?シロは私の飼い犬だよ…?」
あのお方の言葉に挫けそうになる決意を奮い立たせ
「私は今生(こんじょう)を生きております
 今生を、荒木と共に生きてまいります
 どうかあなたも人として転生し、次の生を謳歌してください」
静かにそう告げた。
「シロォォォ!!」
あのお方の慟哭が部屋の空気を揺るがせる。

「参ります」
合掌した三峰様が、純白の狼に変化する。
人体から元の体に戻るという、三峰様にしか出来ない変化。
狼の神聖性を発揮できるそのお姿は、柴犬よりも大きい程度。
犬だったときの私より遙かに小さいお体でありながら、その存在感は何者にも勝るものであった。
三峰様は軽々と跳躍し、日野様の胸のあたりで『カツン』と歯を打ち鳴らす。
日野様の体がガクリと崩れた。
すかさず駆け寄った黒谷が、その頼りない体をしっかりと胸にかき抱く。

いつの間にか少女の姿に戻った三峰様の手に、珠の一部が変色している小振りな数珠が握られていた。
「盗人除けは、私の得意とするものですからね
 あの体を盗もうとしていた意識は体から切り離し、この数珠の中に移ってもらいました
 我ら獣を、道を踏み外してまで想ってくださった方です
 丁重にご供養いたしますから、安心してくださいね」
恭(うやうや)しく数珠を袱紗(ふくさ)に包んだ三峰様が優しく笑いかけてくれる。
「この方も、お辛かったのだと思います
 とても素直に、体から離れてくださいましたよ」
少し悲しそうな顔を見せる三峰様に
「終わった…の…?」
あまりのあっけない終わりに、荒木が呆然と呟いた。

「和銅!ああ、今のお体の名前は日野ですね
 日野、わかりますか、黒谷です!」
黒谷の腕の中では、日野様が意識を取り戻していた。
「黒谷、黒谷、君、何でこんな所に?
 ここは危険だ、敵に囲まれてる
 部隊は全滅してしまった、生きているのは数人だけで援軍も来ない…」
混乱している日野様が、黒谷にしがみつく。
「日野、大丈夫です、戦争はもう終わりました
 平和になったのです、貴方が作ってくださった平和です」
涙ぐむ黒谷に
「そうか、無条件降伏…、授業で習った…?
 あれ、尋常小学校でそんなこと習ったっけ…?
 ああ、何だろう、長い夢を見ていたみたいだ
 もう寺の鐘を突く時間かな?
 ん?黒谷、何だか老けたね?」
日野様がまだ混乱した言葉を呟いている。
「ええ、貴方の命令ですから
 しかし、もう自分でも元に戻せません
 お気に召しませんでしたか?」
黒谷が不安そうに問いかけると
「格好いい…頼りがいがある感じになったよ」
日野様は笑って、確かめるように黒谷の頬を撫でていた。

「日野の奴、何言ってんだ?
 まだ、何かに取り憑かれてるの?」
不安そうな荒木を、私は抱きしめる。
「大丈夫です、今回のショックで過去世の記憶の断片を思い出したのでしょう
 暫くは日野様ご自身の記憶、過去世で和銅様だった時の記憶、あのお方の記憶が残ると思います
 けれども日野様にはクロがついてますから、しっかりお守りしますよ」
私がそう言うと
「俺には、白久がついててくれる…?」
荒木がオズオズと問いかけた。

「もちろんです、私は荒木の飼い犬ですから
 私の全てをかけて、貴方をお守りいたします!」
そう答えた後
「浅はかだった私を、まだ飼い犬と認めてくださいますか」
今度は私がオズオズと問いかける。
「もちろんだよ、白久は俺の、俺だけの飼い犬だ!
 誰にも渡さないからな!」
荒木は涙の残る瞳で、それでもニッコリと笑って答えてくださった。

私の心の中は、その笑顔で満たされる。
気が付くと、心の片隅にいたあのお方の面影が消えていた。
日野様を見ても、もうあのお方と似ているとは思わなくなっている。
その体に触れたいという欲望も、全く感じなくなっていた。

長い孤独の果てに、私はやっと荒木のためだけの飼い犬になれた自分に気が付くのであった。
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