しっぽや(No.225~)
side<NOSAKA>
僕にとって人間関係を作るには『時間』が、相性と同じくらい重要だった。
話が合いそうな人とでも会ったばかりでは何となく身構えてしまう。
何週間もかけて、やっと『友達』という感覚になるのだ。
なのに、知り合ってまだ1週間と経っていない伊古田に『付き合おう』と言ってしまった。
自分の心境の変化に1番驚いていたのは、自分だった。
伊古田は僕に一目惚れして『好きだ』と言ってくれた。
そんな物語みたいな展開が自分の人生に訪れるとは露ほども考えたことの無かった僕は、告白された瞬間、感情が状況に付いてこなかった。
しかし短い付き合いの中でも、伊古田がそんな冗談を言う相手ではないと分かっていた。
彼が真剣に僕のことが好きなのだと気が付くと、自分も伊古田に惹かれていることを自覚してしまう。
今まで見せてくれた彼の真摯な態度は、僕の心を動かすのには十分すぎるものだった。
彼の前では強がらなくてもいい、絶対に彼は僕を軽んじたりはしない、伊古田の側では僕は素直な自分をさらけ出すことが出来る。
伊古田の胸の中は、とても心休まる場所になっていた。
感情が高ぶって思わず出てしまった涙を、伊古田は優しく拭ってくれた。
彼の大きな手の優しい指が愛しくて、その指にそっと口付けする。
彼の唇が僕の唇をふさぎ、僕達は抱き合ったまま熱い吐息を交換し合った。
僕の腹部に彼の熱く堅い感触が触れていた。
初めての行為に恐怖はあるけれど、伊古田なら無茶なことはしないだろうと思うと、このまま流されても良いかという気持ちになった。
が、彼はいつまで経ってもそれ以上の行為に及ぶ気配をみせなかった。
僕を抱きしめながら耐えるように押し黙っている。
真面目な伊古田のことだから、どさくさ紛れみたいな状態ですることに抵抗があるのだろうと気が付いた。
その愚直ともいえる彼の行動に、また愛おしさが湧いてくる。
『伊古田が過去のことを打ち明けてくれて、心や体の傷を癒す手伝いがしたい
きちんと彼の事を知ってから結ばれた方が、僕達らしいよね
ここまでの自分は珍しくスピード展開だったけど、ちゃんと納得できる付き合い方をしよう』
そう心に決めた。
伊古田は僕が迷っても待っていてくれるだろうし、僕も伊古田が迷っていたら待っていようと思った。
「告白されたのもしたのも初めてだよ
その、…、キスしたのも」
僕の言葉で伊古田の体に緊張が走った。
「僕も、この姿では初めて…、あ、いや、その」
意味深なその言葉に
「この姿?」
つい反応してしまう。
「ごめんなさい、まだ上手く言葉で説明出来ない
皆、どうやって伝えたんだろう
あの、皆に聞いてみるから、もう少し待っててください
でも、僕が野坂を好きな気持ちは本当だから」
伊古田は叱られた犬のようにシュンとしてしまった。
「うん、待ってるよ
無理に過去のこと思い出してPTSD発症しても困るからね」
「PTSD?」
「心的外傷症候群、辛い思いや大きなショックを受けたりすると心が傷ついちゃうんだ
伊古田の人生、壮絶そうだもの」
僕は彼の大きな背中をそっと撫でる。
「野坂は本当に優しいね」
伊古田は優しくキスしてくれた。
彼と付き合うことになったので、ここにしょっちゅう来ることになるかもしれない。
そう思うと、この辺の地理をある程度把握しておいた方が良さそうに思われた。
『来るたびに駅まで迎えに来てもらう訳にはいかないもんね
エレベーターの動かし方とかも覚えなきゃ』
そのことを伊古田に伝えると
「じゃあ、この辺を一緒に散歩しよう
野坂とお散歩、嬉しいな」
伊古田は満面の笑みで答えてくれた。
『デート』じゃなく『散歩』と言って喜ぶ辺りが彼らしくて可愛らしい。
『伊古田にとっては近所だから、デートって気分にならないか
僕は何か、ちょっとデート気分なんだけど』
照れくさい気持ちで僕は伊古田と共にマンションを後にした。
まずは駅まで行ってみる。
そんなに複雑な道じゃないし遠くもないので、僕でも何とか覚えられそうだ。
暗くなると雰囲気が変わるから、お店以外で目印になりそうなものも覚えておく。
住宅街の中の高層マンションで建物自体が目立っているため、ある程度近くに来れば辿り着けそうだった。
「大丈夫そう?連絡くれれば、直ぐ迎えに行くからね」
心配そうな伊古田に
「帰りにもう一度辿れば覚えるかな、多分
ダメだったら連絡するよ」
ちょっと弱気な返事を返す。
伊古田の前では強がらなくて良いから気が楽だった。
「駅前の商店街のお肉屋さん、メンチが美味しいの
お茶屋さんはアイスが美味しいよ
コンビニの限定アイスも美味しいんだ」
伊古田は小食だけど食べること自体は好きなようで、彼が案内してくれる場所は食べ物屋さんばかりだ。
「今度来たときは、一緒にご近所食べ歩きしようか」
そう誘うと
「うん」
彼は輝く笑顔を見せるのだった。
「そうだ、事務所にも行ってみる?」
商店街を抜けた辺りで伊古田がそう誘ってくれた。
「事務所って、ペット探偵の?僕みたいな部外者が行って良いの?」
守秘義務とか個人情報保護とかを考えると、うかつに入り込めない場所だと思っていたので彼の言葉には酷く驚いた。
「カズハとかナリとか、よく遊びに来てるよ
皆に野坂のこと自慢したいなって思って、ダメかな?」
窺うように伊古田に見られ
『いきなり職場で知らない人達に紹介されるって恥ずかしすぎる
でも探偵の職場、見てみたい』
僕の気持ちは真っ二つに分かれていたが、結局人見知りより好奇心が勝ってしまった。
いったんマンション前に戻り、そこからしっぽやの事務所に移動する。
「駅に行くより近いんだね、職場が近いって良いじゃん」
しっぽやは雑居ビルの2階に入っていたが、窓付近に看板は無くかろうじてビルの案内板に名前が記載されているだけだった。
不動産屋と会計事務所に挟まれているので、利用客が被ることもなさそうだ。
本当にこじんまりとした事務所のようであった。
コンコン
伊古田がノックして、オープンの札が掛かっている事務所のドアを開ける。
「今ね、野坂とお散歩してる最中だよ
近所を案内してるの」
得意げな伊古田に続いて事務所に入った僕は、所長のプレートがのっている机のイスに座っている黒谷さんに慌てて頭を下げた。
「お仕事中すいません」
畏(かしこ)まる僕に
「伊古田と一緒にいてくださってありがとうございます」
黒谷さんも丁寧に頭を下げてきた。
「伊古田、お金は足りてる?
ほら、これで2人でお昼でも食べなよ
昨日の働きの臨時ボーナス」
黒谷さんは自分の財布から1万円札を数枚取り出して伊古田に手渡していた。
『明細とか渡さないのかな、何かポケットマネーに見えるんだけど』
突っ込みたいところではあったけど、僕自身バイトをしたことがないので企業の給料形態がよくわからなくて黙って見ているほか無かった。
控え室の文字が貼ってあるドアが開き、そこから大麻生さんが姿を現した。
見知った顔だったのでホッと胸をなで下ろす。
「大麻生、僕、野坂と付き合うことになったんだ」
いきなり暴露する伊古田に焦ってしまうが、大麻生さんは大真面目な顔で
「良かった、ウラがスタイリングした甲斐があったというものだ
和泉にお願いしてもっと服を用意してもらおうか
取り敢えず久那に連絡しよう」
スマホで誰かと話し始めていた。
次に出てきた人を見て、僕は全身が固まってしまった。
『チンピラ?何で探偵事務所に?』
それはとてつもなく恐ろしい人相の大男だった。
伊古田は屈託無くその人物に近づき
「あのね、僕と付き合ってくれてる野坂だよ」
そう僕を紹介している。
チンピラさんは僕をジロリと一瞥し
「マジか!伊古田みたいなおっかねー顔のやつと付き合ってくれるなんてミャクアリってやつじゃん」
そう言って笑っていた。
『いや、貴方の方が伊古田より何倍も恐ろしい顔です』
と突っ込みたかったけど、怖すぎて言えなかった。
「あ、野坂は大きい犬が怖いから、あんまり脅かさないでよ」
伊古田が言うと
「何言ってんだ、俺みたいな可愛いパピーちゃんを怖がるやつはいないだろ
1日に何回もカズハから『可愛い』って言われてるんだから」
彼は得意げに答えていた。
「僕だって野坂に『可愛い』って何度も言われたよ」
対抗するように言った伊古田の言葉で、頬が赤くなってしまう。
誉め言葉として喜んでくれてるのなら何度でも言ってあげよう、と何だか吹っ切れた心持ちになった。
伊古田は控え室の同僚にひとしきり僕とのことを自慢した後
「後で、皆がどうやって乗り越えたか教えてください
僕はまだ勇気が出せなくて伝えてないから…」
小さな声で呟くように言って、頭を下げていた。
皆、それを聞いて神妙な面もちになる。
あのチンピラ君でさえ労るような真剣な眼差しを伊古田に向けていた。
挨拶が済むと僕と伊古田は事務所を後にして、ランチを食べに行くことにした。
僕に『犬に慣れて欲しい』との伊古田の意向でドッグカフェに行くことになった。
「食事が美味しくて、犬連れじゃない人も多いんだ
あそこを利用してる犬達はお行儀良いから、野坂も触らせてもらえるよ」
伊古田は僕が犬を怖がらなくなるよう特に気を使っているようだった。
『一緒に犬嫌いを克服したいのかな、伊古田は職業柄あの状態じゃ厳しいもんね
彼と付き合うんだから、僕も頑張ってみよう』
自分でも彼と一緒に何か出来ることがある状態に、くすぐったいような喜びを感じていた。
伊古田と別れ難かったが夕方には帰路についた。
何とか一人で家まで帰れてホッとしたし、また彼の所に行くことへの自信につながった。
帰りの電車で読もうと楽しみにしていた本は手付かずで、ずっと伊古田との楽しかった時間のことを考えていた。
家に帰り着くと親には外泊と自主休講を怒られたけど、伊古田に会うことを控える気にはならなかった。
僕は自分で思っているよりずっと、伊古田のことが好きになっているのだった。
僕にとって人間関係を作るには『時間』が、相性と同じくらい重要だった。
話が合いそうな人とでも会ったばかりでは何となく身構えてしまう。
何週間もかけて、やっと『友達』という感覚になるのだ。
なのに、知り合ってまだ1週間と経っていない伊古田に『付き合おう』と言ってしまった。
自分の心境の変化に1番驚いていたのは、自分だった。
伊古田は僕に一目惚れして『好きだ』と言ってくれた。
そんな物語みたいな展開が自分の人生に訪れるとは露ほども考えたことの無かった僕は、告白された瞬間、感情が状況に付いてこなかった。
しかし短い付き合いの中でも、伊古田がそんな冗談を言う相手ではないと分かっていた。
彼が真剣に僕のことが好きなのだと気が付くと、自分も伊古田に惹かれていることを自覚してしまう。
今まで見せてくれた彼の真摯な態度は、僕の心を動かすのには十分すぎるものだった。
彼の前では強がらなくてもいい、絶対に彼は僕を軽んじたりはしない、伊古田の側では僕は素直な自分をさらけ出すことが出来る。
伊古田の胸の中は、とても心休まる場所になっていた。
感情が高ぶって思わず出てしまった涙を、伊古田は優しく拭ってくれた。
彼の大きな手の優しい指が愛しくて、その指にそっと口付けする。
彼の唇が僕の唇をふさぎ、僕達は抱き合ったまま熱い吐息を交換し合った。
僕の腹部に彼の熱く堅い感触が触れていた。
初めての行為に恐怖はあるけれど、伊古田なら無茶なことはしないだろうと思うと、このまま流されても良いかという気持ちになった。
が、彼はいつまで経ってもそれ以上の行為に及ぶ気配をみせなかった。
僕を抱きしめながら耐えるように押し黙っている。
真面目な伊古田のことだから、どさくさ紛れみたいな状態ですることに抵抗があるのだろうと気が付いた。
その愚直ともいえる彼の行動に、また愛おしさが湧いてくる。
『伊古田が過去のことを打ち明けてくれて、心や体の傷を癒す手伝いがしたい
きちんと彼の事を知ってから結ばれた方が、僕達らしいよね
ここまでの自分は珍しくスピード展開だったけど、ちゃんと納得できる付き合い方をしよう』
そう心に決めた。
伊古田は僕が迷っても待っていてくれるだろうし、僕も伊古田が迷っていたら待っていようと思った。
「告白されたのもしたのも初めてだよ
その、…、キスしたのも」
僕の言葉で伊古田の体に緊張が走った。
「僕も、この姿では初めて…、あ、いや、その」
意味深なその言葉に
「この姿?」
つい反応してしまう。
「ごめんなさい、まだ上手く言葉で説明出来ない
皆、どうやって伝えたんだろう
あの、皆に聞いてみるから、もう少し待っててください
でも、僕が野坂を好きな気持ちは本当だから」
伊古田は叱られた犬のようにシュンとしてしまった。
「うん、待ってるよ
無理に過去のこと思い出してPTSD発症しても困るからね」
「PTSD?」
「心的外傷症候群、辛い思いや大きなショックを受けたりすると心が傷ついちゃうんだ
伊古田の人生、壮絶そうだもの」
僕は彼の大きな背中をそっと撫でる。
「野坂は本当に優しいね」
伊古田は優しくキスしてくれた。
彼と付き合うことになったので、ここにしょっちゅう来ることになるかもしれない。
そう思うと、この辺の地理をある程度把握しておいた方が良さそうに思われた。
『来るたびに駅まで迎えに来てもらう訳にはいかないもんね
エレベーターの動かし方とかも覚えなきゃ』
そのことを伊古田に伝えると
「じゃあ、この辺を一緒に散歩しよう
野坂とお散歩、嬉しいな」
伊古田は満面の笑みで答えてくれた。
『デート』じゃなく『散歩』と言って喜ぶ辺りが彼らしくて可愛らしい。
『伊古田にとっては近所だから、デートって気分にならないか
僕は何か、ちょっとデート気分なんだけど』
照れくさい気持ちで僕は伊古田と共にマンションを後にした。
まずは駅まで行ってみる。
そんなに複雑な道じゃないし遠くもないので、僕でも何とか覚えられそうだ。
暗くなると雰囲気が変わるから、お店以外で目印になりそうなものも覚えておく。
住宅街の中の高層マンションで建物自体が目立っているため、ある程度近くに来れば辿り着けそうだった。
「大丈夫そう?連絡くれれば、直ぐ迎えに行くからね」
心配そうな伊古田に
「帰りにもう一度辿れば覚えるかな、多分
ダメだったら連絡するよ」
ちょっと弱気な返事を返す。
伊古田の前では強がらなくて良いから気が楽だった。
「駅前の商店街のお肉屋さん、メンチが美味しいの
お茶屋さんはアイスが美味しいよ
コンビニの限定アイスも美味しいんだ」
伊古田は小食だけど食べること自体は好きなようで、彼が案内してくれる場所は食べ物屋さんばかりだ。
「今度来たときは、一緒にご近所食べ歩きしようか」
そう誘うと
「うん」
彼は輝く笑顔を見せるのだった。
「そうだ、事務所にも行ってみる?」
商店街を抜けた辺りで伊古田がそう誘ってくれた。
「事務所って、ペット探偵の?僕みたいな部外者が行って良いの?」
守秘義務とか個人情報保護とかを考えると、うかつに入り込めない場所だと思っていたので彼の言葉には酷く驚いた。
「カズハとかナリとか、よく遊びに来てるよ
皆に野坂のこと自慢したいなって思って、ダメかな?」
窺うように伊古田に見られ
『いきなり職場で知らない人達に紹介されるって恥ずかしすぎる
でも探偵の職場、見てみたい』
僕の気持ちは真っ二つに分かれていたが、結局人見知りより好奇心が勝ってしまった。
いったんマンション前に戻り、そこからしっぽやの事務所に移動する。
「駅に行くより近いんだね、職場が近いって良いじゃん」
しっぽやは雑居ビルの2階に入っていたが、窓付近に看板は無くかろうじてビルの案内板に名前が記載されているだけだった。
不動産屋と会計事務所に挟まれているので、利用客が被ることもなさそうだ。
本当にこじんまりとした事務所のようであった。
コンコン
伊古田がノックして、オープンの札が掛かっている事務所のドアを開ける。
「今ね、野坂とお散歩してる最中だよ
近所を案内してるの」
得意げな伊古田に続いて事務所に入った僕は、所長のプレートがのっている机のイスに座っている黒谷さんに慌てて頭を下げた。
「お仕事中すいません」
畏(かしこ)まる僕に
「伊古田と一緒にいてくださってありがとうございます」
黒谷さんも丁寧に頭を下げてきた。
「伊古田、お金は足りてる?
ほら、これで2人でお昼でも食べなよ
昨日の働きの臨時ボーナス」
黒谷さんは自分の財布から1万円札を数枚取り出して伊古田に手渡していた。
『明細とか渡さないのかな、何かポケットマネーに見えるんだけど』
突っ込みたいところではあったけど、僕自身バイトをしたことがないので企業の給料形態がよくわからなくて黙って見ているほか無かった。
控え室の文字が貼ってあるドアが開き、そこから大麻生さんが姿を現した。
見知った顔だったのでホッと胸をなで下ろす。
「大麻生、僕、野坂と付き合うことになったんだ」
いきなり暴露する伊古田に焦ってしまうが、大麻生さんは大真面目な顔で
「良かった、ウラがスタイリングした甲斐があったというものだ
和泉にお願いしてもっと服を用意してもらおうか
取り敢えず久那に連絡しよう」
スマホで誰かと話し始めていた。
次に出てきた人を見て、僕は全身が固まってしまった。
『チンピラ?何で探偵事務所に?』
それはとてつもなく恐ろしい人相の大男だった。
伊古田は屈託無くその人物に近づき
「あのね、僕と付き合ってくれてる野坂だよ」
そう僕を紹介している。
チンピラさんは僕をジロリと一瞥し
「マジか!伊古田みたいなおっかねー顔のやつと付き合ってくれるなんてミャクアリってやつじゃん」
そう言って笑っていた。
『いや、貴方の方が伊古田より何倍も恐ろしい顔です』
と突っ込みたかったけど、怖すぎて言えなかった。
「あ、野坂は大きい犬が怖いから、あんまり脅かさないでよ」
伊古田が言うと
「何言ってんだ、俺みたいな可愛いパピーちゃんを怖がるやつはいないだろ
1日に何回もカズハから『可愛い』って言われてるんだから」
彼は得意げに答えていた。
「僕だって野坂に『可愛い』って何度も言われたよ」
対抗するように言った伊古田の言葉で、頬が赤くなってしまう。
誉め言葉として喜んでくれてるのなら何度でも言ってあげよう、と何だか吹っ切れた心持ちになった。
伊古田は控え室の同僚にひとしきり僕とのことを自慢した後
「後で、皆がどうやって乗り越えたか教えてください
僕はまだ勇気が出せなくて伝えてないから…」
小さな声で呟くように言って、頭を下げていた。
皆、それを聞いて神妙な面もちになる。
あのチンピラ君でさえ労るような真剣な眼差しを伊古田に向けていた。
挨拶が済むと僕と伊古田は事務所を後にして、ランチを食べに行くことにした。
僕に『犬に慣れて欲しい』との伊古田の意向でドッグカフェに行くことになった。
「食事が美味しくて、犬連れじゃない人も多いんだ
あそこを利用してる犬達はお行儀良いから、野坂も触らせてもらえるよ」
伊古田は僕が犬を怖がらなくなるよう特に気を使っているようだった。
『一緒に犬嫌いを克服したいのかな、伊古田は職業柄あの状態じゃ厳しいもんね
彼と付き合うんだから、僕も頑張ってみよう』
自分でも彼と一緒に何か出来ることがある状態に、くすぐったいような喜びを感じていた。
伊古田と別れ難かったが夕方には帰路についた。
何とか一人で家まで帰れてホッとしたし、また彼の所に行くことへの自信につながった。
帰りの電車で読もうと楽しみにしていた本は手付かずで、ずっと伊古田との楽しかった時間のことを考えていた。
家に帰り着くと親には外泊と自主休講を怒られたけど、伊古田に会うことを控える気にはならなかった。
僕は自分で思っているよりずっと、伊古田のことが好きになっているのだった。