このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

しっぽや(No.225~)

「しまった」
浮かれていたため、着替えを持たずに来てしまった。
体を拭いた後、取りあえずバスタオルだけを身にまとい部屋に戻る。
通話を終えたらしき野坂と目が合うと、彼は真っ赤になって目をそらした。
「ごめん、着替え持ってくの忘れちゃって
 よかったら野坂もシャワー使って、着替えは僕のでよければあるけど
 大きすぎるかな、部屋にいるときだけ着ててもいいよ」
野坂の目の前で服を着ながら
『人間は服を着てない状態で現れたら、マナーがなってないって思うんだよね
 不快に思われちゃったかな』
気になって横目で彼の様子を窺った。
そうしたら目をそらしていたはずの野坂が、マジマジと僕を見ていて驚いてしまう。
「それ、みんな噛まれた跡?腕だけじゃなく背中とかお腹の方まであるじゃん、酷い…
 喉の傷がハッキリしてるのは、深く噛まれたから?
 今までチョーカーしてたから、ここまで酷いと思わなかった
 よく生きてたね、伊古田が生きててくれて本当に良かった」
野坂は僕の体をそっと抱きしめてくれた。

幸福感と甘いシビレでジンジンとする感覚を野坂に悟られないようにするのは大変だったが、僕は興奮を押し隠して
「大丈夫、今は痛くないよ、犬も前より怖くなくなったし
 この跡は、もう過ぎ去ってしまった時間の名残でしかないんだ」
『あのお方と過ごした幸せな時間の名残だ…』
辛かった生活のことを、今は夢で懐かしく思い出す。

「伊古田は強いね」
呟くような野坂の言葉に
「僕は弱虫だよ」
僕も呟くように返事を返す。
僕がどの犬にも負けないくらい強い犬であれば、賞金であのお方にもっと良い暮らしをさせられただろう。
強い心を持っていたら、今、野坂に飼って欲しいと伝えることも出来ただろう。
何もかも出来ない弱虫の僕は、うなだれることしか出来なかった。

「僕もシャワー使わせてもらうよ、服はこのままで良いや」
野坂の体が離れる一瞬、その唇が僕の胸に触れた。
それだけで暗くなっていた心に明かりがともる気がした。
彼の唇から僕を労る気配を感じたからだ。
『それって、希望的観測とかいうやつかな』
気のせいだとしても、僕はその感覚にすがりたかった。
少なくとも、彼は僕に関して無関心ではないと思いたかった。
『気に入ってもらえるよう、もっと彼の役に立つところを見せなくちゃ』
僕は慌てて着替えると、朝食の準備に取りかかっていった。



昨日の差し入れの残りとインスタントのスープで、直ぐに豪華な朝ご飯が出来上がった。
「「いただきます」」
野坂と一緒に食べる食事は、いつもとても美味しい。
体だけじゃなく心も満腹になる気がしていた。
「デザートに、昨日貰ったゼリーも食べちゃおうか
 果物入りの豪華なやつだったよね」
野坂に言われると満腹だと思っても、もっと食べたいと言う気になった。
「桃とメロンを半分ずつ食べない?」
「うん、そうしよう、どっちも食べられるの贅沢」
彼の素敵な提案に僕は一も二もなく頷いた。

「伊古田は大量に食べられなくても、品数多く食べればバランス取れるんじゃないかな
 僕と一緒に食べるときは、なるべくシェアして食べようよ
 僕の食べ過ぎ防止のためにも協力して、目移りしてあれもこれも食べたくなっちゃうんだ」
野坂は何気なく言ったのだろうが
「これからも、僕と一緒に何か食べたりしてくれるの?
 また会ってくれるの?」
僕はその言葉に反応する。
「伊古田が忙しくなければ会おう
 昨夜伊古田が寝てるとき、大麻生さんが本を貸してくれたんだ
 読み終わったらそれを返しにまたこっちに来たいと思ってるから
 それで、その、また泊まらせてもらえれば嬉しいかな、とか
 伊古田の部屋居心地良いし
 と言うか、伊古田の側が居心地良いのかな
 って、何言ってんだろうね、僕」
赤くなって慌てだす野坂はとても可愛らしいし、僕と居ることを望んでくれたと言う喜びで天にも昇る心地がした。

「是非また来て、僕の仕事はまだそんなに忙しくないから、いつだって大歓迎だよ
 着替えとか食器とか、野坂の分も置いておこうか
 荒木が白久の部屋に来るようになったとき、そうしてたって聞いたよ
 そうすれば最小限の荷物で来てもらえるって」
僕が勢い込んで言うと
「あ、やっぱり荒木、白久さんと付き合ってるのか
 学園祭の時、白久さんへの態度デカかったから変だと思った
 バイト先の先輩に対する態度じゃなかったもん
 僕の私物は…、まだそこまで関係が進んでないと言うか
 あの、うん、でも、もしかしたらそのうち…伊古田がイヤじゃなかったら、だけど
 まだちょっと、自分の気持ちにも整理がついてないし」
野坂はモゴモゴと最後の言葉を呟いていた。

野坂に何度も会えるなら、きっと『飼って欲しい』と伝えられそうな状況になるかもしれない、そのチャンスを逃さないようにしなければと僕は気を引き締めるのだった。


朝食の後片づけをすると、僕はすることが無くなってしまった。
野坂も何だかソワソワしているようだけど、座って部屋を見回すばかりだった。
「退屈?大麻生から借りた本でも読んでる?」
僕が話しかけると野坂は慌てたように
「帰りの電車の中で読み始めようと思ってるから大丈夫だよ
 伊古田は読書とかしないの?部屋に本が置いてないみたいだけど電子書籍派?」
そう問いかけてきた。
「本って、よく分からなくて読まないんだ
 他の皆も同じ、写真の多い情報雑誌は見るけどね
 料理の作り方が紹介されてるやつとか
 どんな食材が体に良いか書いてあって、勉強になるよ
 詩集を読んでる人もいるけど、意味は分からないって言ってた
 言葉の羅列が美しいから眺めてるんだって」
僕はお屋敷にいた波久礼を思い出しながら言う。

「大麻生は僕達の中で唯一、物語を理解出来ているんだ」
そう言ってから、本が好きな野坂は大麻生の方が一緒にいて楽しいのではないかと不安になった。
きっと僕にはわからない物語について語り合うことも出来るのだろう。
「大麻生って怖そうに見えるけど、真面目で正義感が強くて勇敢で凄く良い人、僕なんかよりずっと役に立つ存在だ
 彼の1000分の1でも、僕に勇気があればって思うよ」
自分の言葉で気分が落ち込み
『もし、大麻生が既に飼い犬でなければ、野坂は彼を選ぶのではないか』
そんな卑屈な考えに陥ってしまう。
「伊古田の勇敢なところ、昨日ちゃんと見せてもらったよ」
野坂はそう言って僕を見つめ
「確かに、大麻生さんって迫力ある顔してるよね
 最初に来たとき警察の人かと思って身構えちゃった
 彼に比べたら伊古田って凄く可愛いなって思って…、ごめん、可愛いって誉め言葉じゃないか
 えと、伊古田の方が格好良いよ
 って…、何言ってんだろう僕、伊古田と居ると変なこと口走っちゃうけど気にしないで」
自分の言葉に驚いて照れた笑みを浮かべていた。

「僕も近戸みたいに背が高くてイケメンで頭良くて、荒木みたいに素直で、久長みたいに要領よく振る舞えればなって思う
 何でいつもヒネた言い方しか出来ないんだろうって、時々自分がイヤになる
 だから運も悪いのかな、何をやろうとしてもスムーズにいかなくてイライラするから益々ひがみっぽくなる悪循環」
野坂は諦めきったような笑みを浮かべていた。
「そんなことない、野坂は可愛くて優しくて何でも知ってて、凄く素敵な人だって僕は知ってる」
「そんなこと言ってくれるのは伊古田だけだよ」
どう言えば彼に僕の想いが伝わるのか、物を知らない僕には分からず混乱のあまり
「僕、初めて会ったときから野坂のこと好きなんだ
 凄く凄く好きなんだ、ずっと一緒に居て野坂のこと守りたい、僕のこと…」
『飼って欲しい』
思わず口走ってしまったが、流石に最後の言葉は飲み込んだ。

いきなり言われて野坂が迷惑に思うんじゃないかと様子を窺うと、彼は惚けたように口を開け、真っ赤になっていた。
「そんなこと言われたの初めて…、一目惚れされたのも…
 え?そんなことある?僕に対して?そんな…あ、これって何かの冗談?何て切り返せば良いのかな?」
慌てだす野坂に
「本気だよ、本気で野坂のこと好き
 今の僕じゃ野坂の役に立てないけど、頑張るから側に居させて欲しいって思ってる
 ダメかな…こんな弱虫じゃまだダメだよね…」
僕はさらに言葉を続けるが、勢いは弱くなってしまった。
きちんと想いを伝え、飼ってもらっている他の犬のことを本当に凄いと思った。

「ごめん、僕、初めて伊古田に会ったとき、ヤクザだと思って凄く怖かったんだ」
野坂の言葉に、僕はうなだれた。
「でもね、一緒にいるうちに、可愛くて素直な人なんだってわかって、そんな伊古田のこと気になると言うか
 伊古田と居るとイライラしないで幸せな気分になれる気がするんだ
 それに気が付いたら、好奇心なんかじゃなく、もっと伊古田のこと知りたくなって」
信じられない言葉を聞いて顔を上げると、野坂は涙を滲ませた瞳で僕を見ていた。
「僕のこと1番に考えてくれる人なんて、今まで居なかった
 こんな風にハッキリ想いを伝えてくれる人も、僕がこんなに素直に接することが出来る人も居なかった
 今まで寂しくて強がってただけだって、気付かせてくれる人も居なかった…」
清らかな滴が野坂の頬を伝う。
夢を見た後、お屋敷で海にしてもらったように、僕は彼の涙を指で拭った。

「僕も伊古田のこと好き」
野坂は頬に触れている僕の指を手に取り、そっと唇を寄せる。
僕は野坂の顔に自分の顔を近づけ、まだ残っている涙を舐め取った。
そのまま唇をすべらせ、野坂の唇と合わせる。
電撃に貫かれたような強烈な感覚に襲われ、このまま彼と契りたい欲望の波に飲まれそうだった。
でも弱虫の僕はこれ以上のことをする勇気がなくて、せめて彼の体をしっかりと抱きしめた。

「僕達、付き合おう」
腕の中で野坂が囁き
「うん」
僕も囁き返す。

飼い主と飼い犬の関係ではないけれど、僕にとって今はこの関係でも十分すぎる幸福なのだった。
16/24ページ
スキ