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しっぽや(No.225~)

side<IKOTA>

『……タ、お父さんの機嫌が悪いから、今夜は一緒に寝かせてよ』
あのお方はよくそう言って、僕の寝床(と呼べる物ではない、古新聞が敷いてあるだけの小屋の中だ)に夜中に潜り込んできた。
『…ータと一緒だと温かいや』
あのお方は嬉しそうにクスクス笑う。
『本当は、1頭の犬だけを可愛がっちゃいけないんだ
 でも、君が1番長く僕と一緒にいてくれるから、ついね
 僕達が出会ってからもう3年も経ったんだ、それって本当に凄い事だよ
 他の犬は半年保たずに死んじゃうもの』
あのお方は悲しげに
『皆、試合に出る犬に殺されちゃう…』
ポツリと呟いた。

『ずっと僕と一緒にいてね、約束だよ
 …ータは僕と居てくれる、そう思うだけで僕はこれからも頑張れるから』
僕にギュッとしがみついてくるあのお方の身体は、初めて会った時より成長していても僕よりとても小さくて頼りない。

僕が、側にいます。
ずっとずっと、貴方の側に居ます。
これからも側に居られるなら、僕はどれだけ噛まれても良いと思った。
僕があのお方の顔中を舐め回すと笑顔が戻り
『コータ、大好き』
そう言って抱きしめてくださった。


そうだ、僕はあのお方に『コータ』と呼ばれていた。
痛くて怖くて悲しい生活も、優しく名前を呼んでくれるあのお方が居たから耐えられたのだ。




意識が混乱する目覚めが訪れた。
思わず辺りを見回してあのお方の姿を探してしまう。
『夢…か…』
幸せな夢であるほど、目覚めた後に辛さを感じる。
しかし夢の残滓(ざんし)に浸っていたのはホンの一瞬で、直ぐに現実を思い出した。
『そうだ、野坂が来てくれてたんだ!
 野坂をほっといて、僕、どれだけ寝ちゃったんだろう』
部屋を見渡しても野坂の姿はない。
『きっと、呆れて帰っちゃったんだ』
絶望に沈み込む僕の鼻孔に良い香りが届いてきた。

「伊古田起きた?そろそろ起こそうと思ってたんだ
 寝る前に温まろうかな、って、ナリに貰った紅茶淹れてた
 良い香りのアールグレイだよ、伊古田の分も淹れたんだけど飲む?
 勝手に食器使っちゃってごめんね」
カップを2つのせたトレイを持った野坂がキッチンから現れる。
彼の姿を見れた安堵のあまり、僕は全身の力が抜けてしまった。
「まだ、居てくれたんだ」
思わず口にすると
「だから、駅までの道が分からないんだってば
 僕、凄い方向音痴だから」
野坂は赤くなりながら口の中でモゴモゴ呟いていた。

「はい、どうぞ」
野坂が手渡してくれたカップは温かく、とても良い香りがする。
「アールグレイってどのメーカーも大外れがなくて、フレーバーティーのお裾分けには最適だよね
 これ、ベルガモットの香りが強いけど僕はその方が好みかな」
「そうなんだ、僕、お茶って事務所でしか飲まないから全然分からないや
 家では牛乳とか水飲んでる
 野坂は何にでも詳しくて凄いなあ」
僕は感心してしてしまった。
「いや、その、おかあ…、母が紅茶好きだから、その受け売り」
野坂は頬を赤らめて
「伊古田だって凄いよ、あんな大きなシェパードに向かっていったんだもの
 卒業メダルに気が付いたの?」
そう聞いてきた。
想念を交わしてみたら『クウセンセ(空先生)の気配がする』って最初から友好的な人だった、とは野坂には説明できない。
「あ、うん、チラッとメダルが見えた気がして、もしかして、そうかな、とか」
納得させられる答えだったかは怪しいけど
「とにかく野坂を守りたくて必死だったんだ」
それだけはキッパリと断言した。

「あ、あの、……、ありがと、凄く嬉しい」
「野坂に誉めて貰えると…、僕も嬉しい」
僕達はモジモジしながら見つめ合っていた。

「あ、紅茶冷めちゃうね」
僕は慌てて1口飲んでみる。
ミカンとは違う柑橘系の香りが爽やかで、少し甘かった。
「疲れてると思って砂糖入れたんだけど、無糖の方が良かった?」
心配そうな顔で聞いてくる野坂に
「美味しい、凄く美味しい、事務所のお茶の時間に飲んだのより何百倍も美味しいよ!」
僕はそう伝えた。
彼はホッとしたような顔になり
「伊古田はオーバーだなー」
そう言って自分もカップに口を付けていた。


部屋の中に紅茶の良い香りが満ちて、ゆったりとした時間が流れていく。
このまま時が止まれば良いのに、と思ってしまった。
でもここで止まってしまったら、僕が野坂に飼ってもらう未来はおとずれない。
あのお方との果たせなかった約束。
『ずっと一緒にいる』
僕は今度こそ、その夢を叶えたかった。
その相手は野坂以外考えられない。

物思いに沈む僕の顔をマジマジと見ていた野坂が
「伊古田、まだ疲れた顔してるね
 このまま朝まで寝ちゃいなよ
 明日は仕事休めるんでしょ?朝もゆっくりしよう
 僕もサボりと言うか自主休講にするからさ
 もう少し一緒に居られるよ」
驚くようなことを言ってくれた。
「明日も一緒に居てくれるの?明日も?一緒?」
信じられず何度も同じ事を聞く僕に
「うん、伊古田が嫌じゃなかったら明日も一緒に居よう」
野坂は照れたように返事をしてくれるのだった。



僕はさっきまで見ていた夢を思い出し
「あの、もしも、野坂が嫌じゃなかったら、で良いんだけど…
 …その、僕大きいから狭くなっちゃうかな、と思うと申し訳ないと言うか
 あのね、野坂と一緒に寝たいな、とか…
 ダメ?」
勇気を振り絞って聞いてみた。
野坂の頬がみるみる赤くなっていく。
「ぼ、ぼぼ、僕と?え?その?伊古田と?寝る?
 だ、だだだだってだって、僕達知り合ったばっかりだし
 伊古田は良い人で、可愛いくて、ああ、何言ってんだ僕は」
激しく混乱しだした野坂に
「ベッド、1つしかないから
 僕と一緒が嫌なら、ベッドは野坂が使って
 僕は床で寝るの慣れてるんだ
 このベッド、セミダブルとか言うサイズらしいけど僕と一緒だと窮屈だもんね」
僕は慌ててそう提案した。
同じ部屋で寝れること自体が幸運なのに、これ以上を求めるのはおこがましい、と自分に言い聞かせる。

「いやいや、伊古田の方が疲れてるんだから、ちゃんとベッドで寝なきゃダメだよ
 荒木が余計なこと言うから、変に意識しちゃったじゃないか
 僕が床で寝るよ」
今度は野坂が慌てたようにそう言い出した。
「でも、お客様を床でなんて寝かせられないよ」
「いや、寝そべって本読んでて寝落ちすることよくあるから、僕は慣れてるんだ」
「それなら僕も、ずっと昔は古新聞の上で寝てたから慣れてるよ
 クッションあるから、あの頃より全然マシだ」
僕の言葉で野坂の表情が曇る。

「わかった、一緒に寝よう
 ごめん、辛いこと思い出させちゃったね」
野坂は労るように僕の肩を叩いてくれた。
その優しい感触に、体中に甘いシビレが広がっていく。
「辛いだけじゃなかった、幸せなこともあったよ」
あのお方と居られた事は、とてもとても幸せなことだった。
あのお方の笑顔を振り切るように
「今は、野坂と一緒に居られて幸せ
 野坂に優しくしてもらえて幸せ」
僕は思いの丈を伝える。
「何で僕なんか…伊古田の方がずっと良い人なのに
 でも、伊古田に一緒に居てもらえて、僕も、その…嬉しい」
野坂は照れた顔で言ってくれた。
それは僕にさらなる勇気と希望を与えてくれる言葉だった。
『いつか野坂が僕を飼っても良いって言ってくれるかもしれない
 そのために、もっと気に入ってもらえるよう頑張ろう』

ベッドの布団に潜り込み、少しでも野坂が窮屈な思いをしないよう壁に張り付いた僕の背中に野坂の背中が触れてくる。
『暖かいなあ、あのお方と寝てるときみたいに触れてる部分がポカポカする
 心も暖かくなるみたいだ』
自分の思考で、化生してからの僕は新しい生活に幸せを感じていたはずだったけど、心の中は寒かったのだと実感した。

『この温もりがいつまでも続きますように』
そう祈りながら、僕は安らぎの眠りに落ちていった。



すっかり明るくなった部屋の中、野坂の身動(みじろ)ぎで意識が覚醒する。
深く眠れていたらしく、気分がスッキリしていた。
「ごめん、起こしちゃった?何時かなと思ってスマホ取ろうとしたんだ
 かなり明るくなってきてるね
 寝坊しちゃった、休みの日だからそれくらいの贅沢は許されるか
 あ、でもまだ8時過ぎだよ、大寝坊って程じゃないや」
振り向くとベッドの中でスマホを持った野坂が僕を見て笑っていた。
「おはよう、流石にもう起きた方が良いよね
 凄くよく寝れた、野坂は?狭くなかった?」
「僕もよく寝れたよ、アラーム気にしなくて良かったからかな
 朝はいつも気忙しいけど、今日はゆっくりできるもんね
 あ、荒木に今日は大学休むから上手く言っといてって連絡しなきゃ」
野坂は起きあがってベッドに腰掛けスマホをいじり始めた。

僕もベッドから抜け出してスマホを持つと黒谷に電話をかけた。
「おはよう黒谷、連続で申し訳ないけど今日も休んで良いかな
 野坂が泊まりに来てくれて、学校休んで今日は一緒に居てくれるんだ」
『おはよう伊古田、やったじゃないか、頑張ったね
 好きなだけ休んで良いから気にしないで、皆、君が飼ってもらえるよう時間を作るために頑張るから、君は野坂さんの役に立てるよう頑張るんだ
 それに伊古田は昨日はお手柄だったし、今日の分として十分働いたよ
 あ、お金が足りなくなったら取りにおいで』
「うん、頑張る、色々ありがとう
 昨晩は差し入れもありがとうね、後で皆にもちゃんとお礼を伝えたいな」
『今日の報告を聞くの、皆で楽しみにしてるよ
 じゃあ、これから頑張って』
「うん、また」
僕は温かい気持ちで通話を終了する。
野坂はまだ荒木と通話中だった。

「朝ご飯の前にシャワー浴びてくる」
通話の邪魔にならないよう小声で伝え、そのままシャワールームに向かった。
温かいお湯に打たれながら、朝ご飯は昨日の差し入れの残りで豪華にしよう、と楽しく考えるのだった。
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