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しっぽや(No.225~)

20分ほど走ったろうか、ナリは住宅街で車を停める。
「けっこう移動してきたんだね犬の移動距離は侮れないや
 犬の捜索は体力勝負だ」
ナリはシートベルトを外し
「私と伊古田で犬を返しに行ってくるから、野坂は少し待ってて」
そう言うと、シートベルトを外すのに四苦八苦していた伊古田を手伝いシェパードを伴(ともな)って車外に出て行った。
車内に1人残された僕は、今日1日のことを考えて今更ながらに心臓がバクバクしてきていた。
どちらかというと保守的だと思っていた自分の、大胆な行動が信じられなかった。
ほんの数日で自分にこんな変化をもたらした『伊古田』と言う存在が心底不思議だった。


自分の考えがまとまりきる前に2人が戻ってくる。
ナリは持っていた紙袋を示し
「飼い主さんからのお礼、ゼリーの詰め合わせだって
 マンションに着いたら今日の功労者の3人で山分けしよう」
そう言って悪戯っぽく笑った。
「でも、僕は何もしてないよ…
 伊古田の陰で震えてただけだし」
肩を落としてそう言うと
「野坂のおかげで、僕は勇気が出たんだ
 あんな大きくて怖そうな犬に自分から近づくなんて、野坂が居なかったら出来なかった
 捜索の時は、いつもふかやに先に行ってもらってたもの
 野坂だって功労者だよ」
伊古田は力説してくれた。

「だってさ、野坂も貰う権利は十分あるってこと
 さて、じゃあ帰ろっか
 私も伊古田と同じマンションに住んでるんだ、今から帰れば8時過ぎには着けるかな」
そんなナリの言葉に驚いた。
あんな大冒険をしたのに、校門を出てから3時間と経っていないのだ。
物事が矢のように進んでいき、伊古田と居るとイライラする暇を感じなかった。

さっきまでは僕達の間にシェパードが居たが、今は直ぐ隣に伊古田が座っている。
伊古田の体温がとても身近にあって、また僕の頬は熱くなっていった。
僕の手に伊古田が遠慮がちに手を添えてくる。
その手はもう震えてはいない。
僕は彼の手をそっと握った。
ナリは手を繋ぐ僕らに気が付いていただろうけど、地元のお勧めのお店情報といったありきたりな話題を振って、ことさら冷やかしてきたりはしなかった。
『この時間が長く続けばいいのに』
伊古田も同じ事を考えていてくれると良いな、と僕はドキドキしながら思っていた。


ナリの言葉通り、8時過ぎに車は高層マンションの駐車場に止まった。
僕の考えていた『社員寮』とは遙かにかけ離れていて、かなり驚いてしまう。
伊古田は『何もない面白味のない部屋』と言っていたが、建物はそんなレベルの物ではなかった。
車内で分けておいたお菓子を持ってエントランスを通り、専用エレベーターで高層階に上がっていく。
「私の部屋はこの階だから」
そう言ってナリは先にエレベーターを降りていった。

もう3階ほど上に上がりエレベーターを降りる。
物珍しくてキョロキョロする僕に
「ここが僕の部屋だよ、隣は黒谷なんだ」
伊古田は鍵を取り出してドアを開けてみせた。
部屋は単身者用のワンルームの見本のようで個性は全くなかったが、生活に必要な物は一通り揃っている。
社員寮と言うことは住人の回転が速く家具や家電は作り付けで、後のことを考えて私物を増やさないようにしているのかもしれない。
本棚で圧迫されている僕の部屋よりかなりスッキリしていて、くつろげそうであった。

「どうぞ、座ってください」
伊古田がクッションを何個か手渡してくれる。
僕は普通に使えそうだけど、伊古田には低すぎるガラス天板のテーブルの側に座った。
「ゼリー冷やしておくね」
伊古田は僕の持っていたお菓子を受け取り、自分の分と併せて冷蔵庫にしまっていたが
「しまった、今朝、冷凍ご飯食べ切っちゃったんだ
 作り置きのおかずも無いし、食べる物が何もないや
 せっかく野坂が来てくれたのに」
悲鳴のような声を上げた。
「ごめん、急に来ちゃったから
 近くにコンビニがあるなら何か買いに…」
僕が全部言い切る前にチャイムが鳴った。

「黒谷、どうぞ」
伊古田には誰が来たか分かっているようでドアに向かって声をかけていた。
ドアには鍵がかかっておらず伊古田の言う通り黒谷さんが入ってくる。
「今晩は、食べるものないんじゃないかと思って、差し入れ」
タッパーを差し出した黒谷さんの後ろから白久さんも顔を出し
「私も持ってきました、どうぞ2人で召し上がってください」
同じようにタッパーを差し出してきた。
差し入れを持ってきてくれる人は後を絶たず、あっという間にテーブルの上はタッパーやラップのかかった小鉢で一杯になる。
最後にナリがお茶のペットボトルとティーパックの紅茶を持ってきてくれた。
おかげで僕達は買い物に行くまでもなく、とても豪華で美味しい手作り夕飯を堪能することが出来たのだった。


「お腹一杯!野坂と食べるといつもより美味しくて一杯食べちゃった」
ペットボトルのお茶を飲みながら、伊古田は満足げな吐息をはいた。
確かに、知り合ってから1番食べていたかもしれない。
かく言う僕も、いつもより多く食べてしまった。
お腹が満たされたせいか、伊古田の目がトロンとしてきて首が揺れ始めた。
緊張の糸が解け、眠気におそわれているようだ。
「伊古田、少し寝なよ、今日は活躍して疲れたでしょ」
僕がそう言っても
「でも、せっかく野坂が来てくれたのに」
伊古田はショボショボの目で頑張っていた。
「90分サイクルの睡眠が良いらしいから、3時間寝るとスッキリするんじゃない?」
僕は無理矢理伊古田をベッドに押し込んだ。
「退屈すぎて、このまま帰っちゃわない?起きたとき、まだ居てくれる?」
不安そうな彼に
「駅までの道が分からないよ、読みかけの本を持ってきてるから僕のことは気にしないで
 3時間経ったら起こすね」
僕の言葉で安心したのか疲れがピークに達したのか、伊古田は直ぐに寝息を立て始めた。

僕はその隙にスマホを取り出して、荒木に電話をかける。
しっぽやのアットホームさから考えて、荒木には既に話が行ってると思ったからだ。
「もしもし、荒木?その、白久さん辺りから聞いてる…?」
直ぐに電話に出た荒木に怖ず怖ずと問いかけると
『ああ、伊古田の部屋に行ってくれてるんだろ?
 ありがとう、野坂ってわがままかと思いきや実は良い奴なんだな』
ビミョーに失礼な答えが返ってきた。
「実はってなんだよ、まあ今、伊古田の部屋に居るけど
 何て言うか、間を持たせるために僕どうしたら良いんだろうと思って」
僕の質問に
『伊古田と寝たら?』
荒木は大胆な答えを返してきた。

「え?いや、そんな、知り合ったばかりだし…いやいや、そんな…」
驚きのあまりスマホを取り落としそうになるし、同じ言葉しか口から出てこなかった。
『学園祭で伊古田、凄く頑張ってたと思うんだ
 彼、まだ体調とか本調子じゃなくて、疲れやすくてさ
 お前の側で寝かせて、ちょっと休ませてもらえると助かる』
荒木の言葉に『紛らわしい言い方するな』と心の中でイラつきつつ
「伊古田は今寝てる、一応3時間後に起こす約束でね
 あまりにも疲れてそうだったら、そのまま朝まで寝かせるよ
 読みかけの本持ってきてるし、僕は何時間でも時間を潰せるんで退屈じゃないから」
僕はそう答えた。
『そっか、本…
 あ、明日って大学来る?俺と近戸で適当に誤魔化すから休んでも良いよ
 必要あれば親御さんにも電話するし、泊まりがけで俺のレポート手伝って貰ってる、とか
 野坂には伊古田と居てもらえた方が安心というか、嬉しい
 まあ、今日はゆっくりして明日の朝にでも連絡してよ』
荒木は今までにないくらい僕に気を使って通話を終了した。
電話での声が眠りを遮ってしまったのではないかと気になって伊古田を見ると、安らかに寝ている。
その寝顔は安心しきっていて、遊び疲れて眠る子犬を思わせた。


鞄から読みかけの文庫本を取り出して読んでいたら、チャイムが鳴った。
伊古田は起きる気配を見せなかったので
「どうぞ、鍵はかかってませんので」
また差し入れかな、と思い僕は声をかけた。
入ってきたのは刑事を思わせる凄みのある、何故か先ほど見たシェパードを連想させる人だった。
「夜分に失礼いたします」
彼は丁寧に頭を下げた。
疚(やま)しいことをしていないはずなのに、家宅捜査されたらどうしようという居たたまれなさを感じてしまう。
「先ほど荒木から連絡いただきまして、こちらをお持ちしてみたのですが」
彼はお菓子のロゴが入っている小さな紙袋を手渡してきた。
受け取るとずしっと重く、中を見たら文庫本が数冊入っていた。
「お手持ちの本を読み切ってしまった後に読むものとして、どうかと思いまして
 ミステリーや推理物がお好きとのこと、古い本ですがお読みになってみますか?」
タイトルを読むと確かに古い本ではあるが、古典として押さえておいた方がよい名作ばかりだった。

「お借りしちゃって良いんですか?」
驚いて聞くと
「どうぞ、同じ作品について語り合える同士が増えるのは喜ばしいことです」
彼は頷きながらそう答えた。
それは読書が好きな人の答えであり、それだけで信頼できる人のように感じられた。
「でも、さすがに一気に読み切れそうにないかな」
迷う僕に
「家にお持ちになっても結構ですよ、それを返しにまたここに来て、伊古田に会ってやってください
 ついでに本の感想やお勧めの本など教えていただけると嬉しいですが
 若い方の意見も気になるところですので
 申し遅れました、自分は伊古田の同僚の大麻生と申します」
彼が厳めしい顔を崩して微笑むと、笑った顔のシェパードを思い出した。
しっぽやの人達は無駄にキラキラしていたり強面だったり本当に不思議な人ばかりだけど、その芯には『可愛らしさ』が隠されている。

『でも1番ギャップが大きくて1番可愛いのは伊古田だよね』
そんな自分の考えに驚きつつも、僕は伊古田のことを想う気持ちを止められないのだった。
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