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しっぽや(No.11~22)

それは、『バブル』と呼ばれ、儚く散った一時の夢の時代だったと、ゲンに教えてもらった。
当時、マンガやテレビの影響があったらしく、俺達シベリアンハスキーを飼う事がブームになっていたそうなのだ。
若くして起業し、成功をおさめていた俺の飼い主も、そのブームにのった1人であった。
都心の大きなマンションを借り何台も車を持っていたあのお方は、ラッセンの絵を買うような気安さで流行りのシベリアンハスキーをペットショップで買い付けたらしい。
しかし一緒に暮らしてみて、それは大きな間違いだったとあのお方はよく言っていた。
『お前は、絵よりずっと俺の心を癒やしてくれる
 俺の財産に群がる女共とは大違いだ
 お前だけが、俺の真の理解者だよ』
俺は、あのお方にそう言っていただける事が何よりも誇らしかった。
自信に溢れたあのお方は、俺の理想のボスであった。

スポーツ好きで体を鍛える事を趣味としていたあのお方は、自分の健康のみならず、俺の健康にも大変注意を払ってくれた。
食事は手作り、毎日の散歩、ドッグカフェでのティータイム、週1回のトリミング。
夏にはサーフィンを楽しむあの方と海に行ったり、避暑地でテニス(俺はボール拾い専門)をしたりした。
冬は温かな室内で松阪牛や鯛のしゃぶしゃぶ(ネギ類抜き)を堪能する。
誕生日には親しい犬とその飼い主を招いて、ドッグカフェを貸し切ってパーティーをしたものだ。
俺にとってそれは特別な事ではなく、当たり前の日常、いつまでも続く日常だと思っていた。

その生活に陰りが生じたのは、いつの頃であったのか俺にはよくわからない。
徐々にあのお方が家にいる時間が短くなり、それと同時に散歩の時間が短くなった。
カフェには行かなくなり、トリミングの間隔が長くなっていく。
しょっちゅう家に来ていた女達の姿が無くなったが、あのお方のベッドで一緒に寝られる時間が増えたので、それはありがたい事であった。
手作りの料理が出なくなり『イギリスの獣医師推薦』とか言うカリカリが俺の皿に盛られるようになる。
『ちょっと仕事が忙しくてな
 一区切りついたら、しゃぶしゃぶ作ってやるよ』
あの方はそう言って、俺をブラッシングしてくれた。
それでも俺は、あのお方が側にいてくれるだけで幸せだった。

あのお方はあまり食べていないのか痩せてしまい、睡眠時間が減ったため目の下に隈が出来ていた。
『目の下黒いの、子犬の時のクーロンとお揃いだ』
そう言って、よく笑っていたものだ。
しかし、ハツラツとしていたあのお方は、ふさぎがちになっていった。
部屋に飾られていたバカラの花瓶やラッセンの絵はいつの間にか姿を消し、俺のご飯は袋に大きな犬の顔が描いてあるカリカリに変わっていた。


その日、ひさしぶりに早く帰ってきたあのお方は俺を長時間散歩に連れ出してくれて、帰るとしゃぶしゃぶを作ってくれた。
『松阪牛じゃなくてごめんな
 でも、オーストラリア産もいけるだろ?』
あのお方は自分は肉を食べようとはせず、全部俺に食わせてくれた。
その後、俺の毛を丁寧にブラッシングしてくれる。
『クーロン、お前が居てくれて、俺は本当に嬉しかった
 お前の明るさに、どんなに救われた事か
 何もかも失った俺に残されたのは、お前だけだ』
何でいきなりあのお方がそんな事を言い出したかわからなかったが、久しぶりに2人でゆっくり出来る事に俺は浮かれまくっていた。
子犬の頃によくやった、あのお方とのオモチャの引っ張り合いをして遊んだ俺は、ハシャぎ疲れて少しウトウトしていたようだ。

気が付くと、あのお方がリードを持って俺を見つめていた。
また散歩に行けるのかと喜ぶ俺は、ふいにあのお方が泣いている事に気が付いた。
どうして良いかわからずオロオロする俺に、あのお方は泣きながら何度も謝っていた。
『ごめんな、ごめんな、クーロン、本当にごめん
 ずっと頑張ってたんだけど、会社が倒産したんだ、何もかもお終いだ…
 犬1匹幸せにしてあげられないなんて、俺、何て情けない飼い主なんだろう
 絶対、お前独りでいかせないから
 ごめんな、クーロン、ごめん、ごめん…』
あのお方はそう言いながら、俺の首にリードを巻き付け、そのまま強く引っ張り始めた。

俺は息が詰まりパニックを起こし激しくもがいたが、あのお方は手を緩めてはくれなかった。
やがて意識が遠のいていく俺の耳には
『ごめん、ごめん、ごめん…』
あのお方の、謝罪混じりの涙声だけが残っていた。




ゆっくりと意識が浮上した俺は、部屋の中がゾッとするような静寂に包まれていることに気が付いた。
よろよろと立ち上がり、あのお方の姿を求めて部屋をあちこち見て回る。

あのお方はバスルームで首を吊って、力なくぶら下がっていた…
鼻先であのお方の足をつついて、何とか起こそうとする。
あのお方が喜ぶポーズを何度もとって、気を引こうともした。
泣き狂って起こそうとした。
けれどあのお方は、全く反応してくれなかった。
その時の俺は、あのお方が亡くなってしまった事を理解したくなかったのだ。

どれだけ時間が過ぎたのかわからない。
ドアに鍵が差し込まれる音で、俺はハッとする。
確か、何人かの女の人には『合い鍵』を渡しており、あのお方が多忙の際には俺の世話をしにきてくれていた事を思い出したのだ。
何とかしてもらおうと慌てて迎えに出ると、マンションの管理人と見知らぬ何人もの男達が勝手に入ってきているところだった。
予想は外れたが、俺は管理人が来てくれた事にホッとして彼のズボンの裾をくわえ、バスルームに引っ張っていった。
『ひええええ…』
管理人はあのお方を見ると、腰を抜かして情けない声を上げる。

男達もバスルームに入ってきて
『おいおい、テメーの保険金でどうにかなる負債額じゃねーだろ?』
『こいつ、保険に入ってから1年以上経ってんだろうな?
 免責で支払われないなんてごめんだぞ』
『保険証書探せ、ついでに少しでも金になりそうな物持っていくんだ』
口々に勝手な事を言いながら、家中を引っ掻き回し始める。
あのお方の物を守ろうと俺が激しく吠え立てると
『お、ハスキーじゃん、売れば金になるんじゃねーの?』
『最近じゃチワワじゃないと、良い金にならねーよ
 邪魔だ、外に出しとけ』
男達の1人が、俺をドアの外に蹴り出した。


俺、本当にバカだったんだな…
外に出たとたん、あのお方はカフェで俺のことを待ってるんじゃないか、そんな考えに取り付かれてしまったのだ。
俺はマンションの階段を駆け下りて、慌てて道路に飛び出した。

…うん、バカだったんだ。
道路は、あのお方抜きで勝手に渡ってはいけない事を、すっかり忘れていた。
信号を見ずに飛び出した俺は、トラックにハネられた。
体中、物凄い衝撃と痛みに襲われたが、胸の中の方が痛かった。


俺が、贅沢をしてしまったから、お金が無くなってしまったんじゃないか?
あのお方の会社が倒産してしまったのは、俺のせいじゃないのか?
俺が犬でなければ、あのお方のお役に立てたのではないか?
もしも俺が人であったなら、あのお方の部下として会社の再建に力を貸せたのではないか?
あのお方の友として、相談にのれたのではないか?
あのお方に、あんな悲しい涙を流させなかったんじゃないか?
あのお方が死を選ぶのを、止められたのではないか?

薄れゆく意識の中、俺はそう考えずにはいられなかった…
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