しっぽや(No.198~224)
仕事が終わり家に帰った私達は買い物をしてからマンションに戻る。
今まではあのお方達が食べていた物を模倣する食材を選んでいたが、トノとチカが美味しいと教えてくれた物も確実に食卓に上る選択肢に入るようになっていた。
とは言え、急にこってりした物ばかり食べるのも重い気がして、まだ飼い主候補のお勧めメニューは『お試し』といった感じだった。
トノやチカに比べると、あのお方達はお年を召しておられたのだと今更ながらに気づかされる。
「時代、ってのもあったと思うぜ、住んでた場所とか
ファーストフードとかファミレスなんて、あのお方達、行ったこと無かったんじゃないかな
奈緒ちゃん夫婦と出かけるときは、寿司屋とかソバ屋に行ってたみたいだし
せいぜい焼き肉かな」
「1度、本格中華料理を食べに行かれたことがありましたね
色々と珍しい物を食べた、と喜んでおられました」
「で、その後、胃がもたれたとか言って、暫くお粥食べてたけどな
それであのお方は『中華はラーメン屋に限る』って信条になったんだ」
これは2人に共通の懐かしい思い出。
きっと、トノとチカの間にも同じように共通の思い出が多いのだろう。
「俺達のどちらか1人が先に飼って欲しいって伝えて、記憶を転写するって、どうなんだろうな」
明戸も私と同じ事を考えていたようで、ポツリとそう呟いた。
「出来れば、トノとチカ、共通の思い出になるタイミングで伝えたいですね
片方だけしか知り得ないことがある事実が、彼らの関係において溝になったりしなければいいですし」
私の言葉に
「うーん、まあ、プライバシーってやつもあるし、一概には言えないけどさ
全く同じタイミングで何でも同じ事をするのは、流石に不可能だ
あえて言わないでおきたいことも、あるんじゃないかな
とは言え、俺達の正体についてはそうも言ってられないか」
明戸は少し言葉を濁したような返事を返してきた。
その理由に、私は薄々気づいていた。
先日トノの家に行ったとき、明戸はチカにキスをしてもらっていた。
その時に明戸に走った歓喜の痺れが、私にも伝わってきたのだ。
トノはチカとそこまで繋がってはいないので気が付いた様子はなかった。
飲み物を持って部屋に戻ってきた明戸とチカの間には、一段と親密な空気が流れていた。
『確かに、ここまで分かってしまうとプライバシーの侵害というものに当たりますよね』
私とトノの先を行く2人が羨ましいと思う反面、自分達はもっとじっくり絆を育てていきたいとも思う。
明戸とは飼ってもらいたい方が違い、想う人と『お付き合い』している喜ばしい状況でありながら、まだ私の心には矛盾した思いがあった。
闇ではない霞(かすみ)のようなモヤモヤとした思い。
自分がどうなれば満足がいくのか、よくわからなかった。
野菜たっぷりで優しい味の卵綴じうどんと、ニンニクを効かせた鳥唐揚げという矛盾したメニューを食べながらの私達の会話は行きつ戻りつしていた。
しかし『正体を告げるなら、同じタイミングが良いだろう』と言うことは決定事項となった。
それは片方だけに隠しておけるものではない、私達という存在の異常性を考えれば当然のことであった。
「飼い主がいる奴って、皆、1人でこの問題に取り組んでたんだよな
拒絶されるかもしれない恐怖に押しつぶされ、それでも親しくなればなるほど隠しておけるものではなくて
忌まわしい者を見る目を向けられる覚悟で、告げたのかな
それ考えると、空ですら凄い奴に思えるよ」
明戸は力なく苦笑する。
「そうですね、全てを失うことを承知で自分をさらけ出す
そこまでして受け入れてもらえれば、感動もひとしおでしょう
飼い主バカになるのも頷けます
そういえば桜さんは子供の頃、柴犬に噛まれて犬嫌いになったのに、新郷を受け入れてくれましたね
二重に凄いことですよ」
「新郷の並々ならぬ桜ちゃんバカも頷ける
チカは猫が好きだし、俺のこと知っても受け入れてくれる、とは思うけど…
自分のこととなると、どうにも弱気になるぜ」
明戸の悩みは私の悩みでもある。
「トノも猫が好きですが、化生は猫と言うより…
化け猫じみていますかね、人間にとっては恐怖の対象に近いのかも
それでもゲンは長瀞の過去を知って、彼のために涙を流してくれたとか」
「まあ、ゲンは特別だよな
記憶の転写で三峰様の存在にまで気が付いたって言うしさ
そんな人間、今まで聞いたことないよ」
あのお方達を思い起こされるゲンと長瀞は、私と明戸の理想でもあった。
「とは言え、同じ悩みを同時に抱え、相談しあえる俺達も特別か
やっぱり、1人じゃなくて良かった」
明戸の言葉に
「ええ、本当に」
私は思いを込めて頷いた。
2人故の苦しみもあるが、2人だから乗り越えられることもある。
正体を打ち明けるタイミングもきっと2人で探していけるだろうと、私は確信するのであった。
トノとチカが学校もバイトも休みの日曜日、私と明戸は2人の家に出かけていった。
電車を乗り継いで2人の家に行くことは、私達にとって慣れたものになっていた。
白パンさんへのお土産は欠かさぬように持って行くし、トノとチカの両親は猫好きなので温かく迎え入れてくれる。
学業とバイトで忙しい2人に会う時間は少なくても、私達は恵まれた環境だった。
「ウラに、双子用のコーディネートっての色々やっといてもらってよかったな」
「全くです、それがなければどのような格好をしてトノに会えば良いのか、さっぱりわかりませんでした
毎回、捜索の時と同じ服を着ていくしかありませんでしたよ」
私達は神妙に頷きあった。
トノもチカも、私達の服装をとても誉めてくれる。
それだけでも私達は幸せだったが
『俺たちも、もう少し双子っぽくコーディネートした方がいいかなって気になってきた
いかにも双子って格好が恥ずかしくて、違う系統の服を選びがちだったもんな』
『でも、子供の頃は同じ服着てたっけ
母さん、2人分選ぶの面倒だったんだろうけど』
『今度さ、4人で服買いに行かない?
店の人が驚きそうなチョイスで選ぶとか楽しそう』
そんな会話の流れで、そのうちお店デートが出来そうだった。
トノとチカの家では、部屋で2人の思い出話を聞かせてもらうのが楽しかった。
人間が喜ぶようなゲームやスポーツ、映画の話はよくわからないが、彼らの子供の頃や学校でのエピソードは興味深かった。
私と明戸も、当たり障りのない部分の思い出話や仕事のことを話して聞かせる。
ペット探偵は彼らにとって未知の職業なので、面白そうに話を聞いてもらえた。
話し疲れると飲み物を飲んでお菓子を食べ、休息する。
食べながらも新たな話題が生まれてきて、結局はまた話し込むのが常だった。
「あれ?ポテチと煎餅とクッキーって、まだ残ってなかったっけ?
コーラと麦茶のペットボトルも無いんだ」
飲み物とお菓子の追加を取りに行ったチカが首を捻りながら戻ってくる。
「ポテチとコーラはこないだチカが映画見ながら食ってたろ?
そういやクッキーは母さんが友達とのお茶会に持ってくって行ってたな
すまん、煎餅と麦茶は俺だ
しまった買い置きって、もう何にもないのか」
トノが困った顔をする。
「じゃあ、俺と明戸で買い出しに行ってくるよ
バイト代入ったし、奮発してケーキでも買おうか
あそこの店、オーガニックの紅茶とかも売ってたな
せっかく明戸と皆野が来てくれたんだ、優雅なティータイムとかどうよ」
「俺もお金出すから、チカの好きなものいっぱい買おう」
明戸が幸せそうにチカに寄り添っている。
2人でのお買い物に、テンションが上がっているようだった。
「私もお金を出しますから、トノの好きな物をいっぱい買ってきてください」
私が財布を取り出すと
「俺も出すって」
トノも慌てて財布を手に取った。
皆で出し合ったお金は2万円になる。
「お菓子に2万とか、豪勢じゃん
色々買ってこような、明戸」
チカに優しい目を向けられ明戸は輝く瞳で頷いていた。
2人が買い物に出かけると、家にはトノと私、2人っきりになる。
白パンさんもいるけれど、彼は今、お土産のちゅるーを2本も貰って大満足で爆睡していた。
「取り敢えず、お湯を沸かしておこうか
氷があるかも確認しよう」
トノに促され、私達はキッチンに移動した。
ケトルを火にかけお湯が沸くのを待っていると、トノがビクリと震えた。
「どうしました?」
「今、物音がしなかった?」
トノが指さしたのは、キッチンにある扉(勝手口?)だった。
耳を澄ますと、ドアの外で虫の羽音が聞こえてくる。
カナブンか何か、少し大きめの甲虫が扉に当たっているようだ。
「虫ですね、お庭の緑が濃いのでひかれてきたのでしょう」
山育ちの私には何と言うこともないありふれた音だった。
「虫か…」
トノはホッとした顔になった後バツが悪そうに
「虫くらいでビビって、格好悪いな、俺」
とうなだれてしまった。
「チカは俺のこと何でも出来て完璧みたいに思ってるけど、実際は違うよ
恐がりで、それを気取られないよう無理してる部分があるんだ
幻滅した?」
悲しそうに私を見るトノに
「いいえ、私も恐がりです
特にヘビがダメで…」
私はそう告白する。
猫だったとき、部屋にあったキュウリとヘビを見間違えて飛び上がったことは1度や2度ではなかった。
「誰にでも、苦手な物はあります
むしろ、トノの違う一面を知る事が出来て嬉しいです」
そう伝えるとトノは私を強く抱きしめてくれた。
「ありがとう、皆野、大好きだよ」
トノの顔が近づいてきて熱い吐息が私の唇をくすぐった。
そのまま唇をふさがれる。
体中を甘い痺れが駆け回り、私はトノに対して発情している自分に気が付いた。
自分からも激しくトノの唇を求め、私達は抱き合ったまま暫く一つの影になっていた。
「こんなに誰かを好きになったのは初めてだ」
唇を離した後、トノは熱い瞳で私を見つめていた。
「私もです」
トノの大きな腕に抱きしめられうっとりとしながら返事を返す。
明戸とは距離があるので気取られていないはずだ。
私の初めてのキスは、トノと2人だけの秘密になった。
その秘密は甘く甘美に私の体の中に浸透していき、ますますトノから離れられない自分を感じるのだった。
今まではあのお方達が食べていた物を模倣する食材を選んでいたが、トノとチカが美味しいと教えてくれた物も確実に食卓に上る選択肢に入るようになっていた。
とは言え、急にこってりした物ばかり食べるのも重い気がして、まだ飼い主候補のお勧めメニューは『お試し』といった感じだった。
トノやチカに比べると、あのお方達はお年を召しておられたのだと今更ながらに気づかされる。
「時代、ってのもあったと思うぜ、住んでた場所とか
ファーストフードとかファミレスなんて、あのお方達、行ったこと無かったんじゃないかな
奈緒ちゃん夫婦と出かけるときは、寿司屋とかソバ屋に行ってたみたいだし
せいぜい焼き肉かな」
「1度、本格中華料理を食べに行かれたことがありましたね
色々と珍しい物を食べた、と喜んでおられました」
「で、その後、胃がもたれたとか言って、暫くお粥食べてたけどな
それであのお方は『中華はラーメン屋に限る』って信条になったんだ」
これは2人に共通の懐かしい思い出。
きっと、トノとチカの間にも同じように共通の思い出が多いのだろう。
「俺達のどちらか1人が先に飼って欲しいって伝えて、記憶を転写するって、どうなんだろうな」
明戸も私と同じ事を考えていたようで、ポツリとそう呟いた。
「出来れば、トノとチカ、共通の思い出になるタイミングで伝えたいですね
片方だけしか知り得ないことがある事実が、彼らの関係において溝になったりしなければいいですし」
私の言葉に
「うーん、まあ、プライバシーってやつもあるし、一概には言えないけどさ
全く同じタイミングで何でも同じ事をするのは、流石に不可能だ
あえて言わないでおきたいことも、あるんじゃないかな
とは言え、俺達の正体についてはそうも言ってられないか」
明戸は少し言葉を濁したような返事を返してきた。
その理由に、私は薄々気づいていた。
先日トノの家に行ったとき、明戸はチカにキスをしてもらっていた。
その時に明戸に走った歓喜の痺れが、私にも伝わってきたのだ。
トノはチカとそこまで繋がってはいないので気が付いた様子はなかった。
飲み物を持って部屋に戻ってきた明戸とチカの間には、一段と親密な空気が流れていた。
『確かに、ここまで分かってしまうとプライバシーの侵害というものに当たりますよね』
私とトノの先を行く2人が羨ましいと思う反面、自分達はもっとじっくり絆を育てていきたいとも思う。
明戸とは飼ってもらいたい方が違い、想う人と『お付き合い』している喜ばしい状況でありながら、まだ私の心には矛盾した思いがあった。
闇ではない霞(かすみ)のようなモヤモヤとした思い。
自分がどうなれば満足がいくのか、よくわからなかった。
野菜たっぷりで優しい味の卵綴じうどんと、ニンニクを効かせた鳥唐揚げという矛盾したメニューを食べながらの私達の会話は行きつ戻りつしていた。
しかし『正体を告げるなら、同じタイミングが良いだろう』と言うことは決定事項となった。
それは片方だけに隠しておけるものではない、私達という存在の異常性を考えれば当然のことであった。
「飼い主がいる奴って、皆、1人でこの問題に取り組んでたんだよな
拒絶されるかもしれない恐怖に押しつぶされ、それでも親しくなればなるほど隠しておけるものではなくて
忌まわしい者を見る目を向けられる覚悟で、告げたのかな
それ考えると、空ですら凄い奴に思えるよ」
明戸は力なく苦笑する。
「そうですね、全てを失うことを承知で自分をさらけ出す
そこまでして受け入れてもらえれば、感動もひとしおでしょう
飼い主バカになるのも頷けます
そういえば桜さんは子供の頃、柴犬に噛まれて犬嫌いになったのに、新郷を受け入れてくれましたね
二重に凄いことですよ」
「新郷の並々ならぬ桜ちゃんバカも頷ける
チカは猫が好きだし、俺のこと知っても受け入れてくれる、とは思うけど…
自分のこととなると、どうにも弱気になるぜ」
明戸の悩みは私の悩みでもある。
「トノも猫が好きですが、化生は猫と言うより…
化け猫じみていますかね、人間にとっては恐怖の対象に近いのかも
それでもゲンは長瀞の過去を知って、彼のために涙を流してくれたとか」
「まあ、ゲンは特別だよな
記憶の転写で三峰様の存在にまで気が付いたって言うしさ
そんな人間、今まで聞いたことないよ」
あのお方達を思い起こされるゲンと長瀞は、私と明戸の理想でもあった。
「とは言え、同じ悩みを同時に抱え、相談しあえる俺達も特別か
やっぱり、1人じゃなくて良かった」
明戸の言葉に
「ええ、本当に」
私は思いを込めて頷いた。
2人故の苦しみもあるが、2人だから乗り越えられることもある。
正体を打ち明けるタイミングもきっと2人で探していけるだろうと、私は確信するのであった。
トノとチカが学校もバイトも休みの日曜日、私と明戸は2人の家に出かけていった。
電車を乗り継いで2人の家に行くことは、私達にとって慣れたものになっていた。
白パンさんへのお土産は欠かさぬように持って行くし、トノとチカの両親は猫好きなので温かく迎え入れてくれる。
学業とバイトで忙しい2人に会う時間は少なくても、私達は恵まれた環境だった。
「ウラに、双子用のコーディネートっての色々やっといてもらってよかったな」
「全くです、それがなければどのような格好をしてトノに会えば良いのか、さっぱりわかりませんでした
毎回、捜索の時と同じ服を着ていくしかありませんでしたよ」
私達は神妙に頷きあった。
トノもチカも、私達の服装をとても誉めてくれる。
それだけでも私達は幸せだったが
『俺たちも、もう少し双子っぽくコーディネートした方がいいかなって気になってきた
いかにも双子って格好が恥ずかしくて、違う系統の服を選びがちだったもんな』
『でも、子供の頃は同じ服着てたっけ
母さん、2人分選ぶの面倒だったんだろうけど』
『今度さ、4人で服買いに行かない?
店の人が驚きそうなチョイスで選ぶとか楽しそう』
そんな会話の流れで、そのうちお店デートが出来そうだった。
トノとチカの家では、部屋で2人の思い出話を聞かせてもらうのが楽しかった。
人間が喜ぶようなゲームやスポーツ、映画の話はよくわからないが、彼らの子供の頃や学校でのエピソードは興味深かった。
私と明戸も、当たり障りのない部分の思い出話や仕事のことを話して聞かせる。
ペット探偵は彼らにとって未知の職業なので、面白そうに話を聞いてもらえた。
話し疲れると飲み物を飲んでお菓子を食べ、休息する。
食べながらも新たな話題が生まれてきて、結局はまた話し込むのが常だった。
「あれ?ポテチと煎餅とクッキーって、まだ残ってなかったっけ?
コーラと麦茶のペットボトルも無いんだ」
飲み物とお菓子の追加を取りに行ったチカが首を捻りながら戻ってくる。
「ポテチとコーラはこないだチカが映画見ながら食ってたろ?
そういやクッキーは母さんが友達とのお茶会に持ってくって行ってたな
すまん、煎餅と麦茶は俺だ
しまった買い置きって、もう何にもないのか」
トノが困った顔をする。
「じゃあ、俺と明戸で買い出しに行ってくるよ
バイト代入ったし、奮発してケーキでも買おうか
あそこの店、オーガニックの紅茶とかも売ってたな
せっかく明戸と皆野が来てくれたんだ、優雅なティータイムとかどうよ」
「俺もお金出すから、チカの好きなものいっぱい買おう」
明戸が幸せそうにチカに寄り添っている。
2人でのお買い物に、テンションが上がっているようだった。
「私もお金を出しますから、トノの好きな物をいっぱい買ってきてください」
私が財布を取り出すと
「俺も出すって」
トノも慌てて財布を手に取った。
皆で出し合ったお金は2万円になる。
「お菓子に2万とか、豪勢じゃん
色々買ってこような、明戸」
チカに優しい目を向けられ明戸は輝く瞳で頷いていた。
2人が買い物に出かけると、家にはトノと私、2人っきりになる。
白パンさんもいるけれど、彼は今、お土産のちゅるーを2本も貰って大満足で爆睡していた。
「取り敢えず、お湯を沸かしておこうか
氷があるかも確認しよう」
トノに促され、私達はキッチンに移動した。
ケトルを火にかけお湯が沸くのを待っていると、トノがビクリと震えた。
「どうしました?」
「今、物音がしなかった?」
トノが指さしたのは、キッチンにある扉(勝手口?)だった。
耳を澄ますと、ドアの外で虫の羽音が聞こえてくる。
カナブンか何か、少し大きめの甲虫が扉に当たっているようだ。
「虫ですね、お庭の緑が濃いのでひかれてきたのでしょう」
山育ちの私には何と言うこともないありふれた音だった。
「虫か…」
トノはホッとした顔になった後バツが悪そうに
「虫くらいでビビって、格好悪いな、俺」
とうなだれてしまった。
「チカは俺のこと何でも出来て完璧みたいに思ってるけど、実際は違うよ
恐がりで、それを気取られないよう無理してる部分があるんだ
幻滅した?」
悲しそうに私を見るトノに
「いいえ、私も恐がりです
特にヘビがダメで…」
私はそう告白する。
猫だったとき、部屋にあったキュウリとヘビを見間違えて飛び上がったことは1度や2度ではなかった。
「誰にでも、苦手な物はあります
むしろ、トノの違う一面を知る事が出来て嬉しいです」
そう伝えるとトノは私を強く抱きしめてくれた。
「ありがとう、皆野、大好きだよ」
トノの顔が近づいてきて熱い吐息が私の唇をくすぐった。
そのまま唇をふさがれる。
体中を甘い痺れが駆け回り、私はトノに対して発情している自分に気が付いた。
自分からも激しくトノの唇を求め、私達は抱き合ったまま暫く一つの影になっていた。
「こんなに誰かを好きになったのは初めてだ」
唇を離した後、トノは熱い瞳で私を見つめていた。
「私もです」
トノの大きな腕に抱きしめられうっとりとしながら返事を返す。
明戸とは距離があるので気取られていないはずだ。
私の初めてのキスは、トノと2人だけの秘密になった。
その秘密は甘く甘美に私の体の中に浸透していき、ますますトノから離れられない自分を感じるのだった。