しっぽや(No.198~224)
明戸には不思議な特技があるようで、猫に対して異常に目敏(めざと)かった。
明戸が熱心に見つめる先には必ず猫が居た。
猫好きだし、俺も猫に対しては敏感な方だと思っていたが明戸には適わない。
「流石、プロ!的確に猫を見つけるね
泣き声とか聞こえるの?耳が良いのかな?
こんな特技があるから、ペット探偵で働いてるんだ」
感心して言うと
「俺、猫だからね、猫の気配には敏感なの
テリトリー被ってても上手くやれそうな相手か、見極めなきゃいけないじゃん
外飼いの猫には重要なことなんだよ
さっき捜索しながらこの辺の猫に『教えて欲しいことがあるだけで、俺は直ぐ出て行くから』って流れ者っぽく声かけといた
だから見かける猫が増えてるんだ」
明戸はフザケた感じで答えるが、何故か納得できるような理由に思われて俺は思わず『成る程』と頷いてしまった。
「この辺の猫に白パンのこと聞いて回ってる
完全室内飼いの猫でも白パンみたく長く生きてると多少の顔見知りは出来るんだよ、外猫が庭を通る許可を取りに来たりするし
近戸の家の庭って良い感じだもん
いきなり入ってくる家宅侵入猫とは仲悪くても、礼儀正しい猫には当たらず触らずな付き合いしてたみたい」
明戸の言葉が何の比喩なのかわからなかったが、窓辺にいる白パンの行動は正にその通りだった。
「それで、知り合い猫は白パンのこと何て言ってる?」
思わずそう聞く俺に
「皆、何も教えてくれない…白パンに口止めされてるんだ
仲が悪い猫ですら『あんなジジイ、知るもんか』ってはぐらかすし」
明戸は沈んだ顔で答えて俯いてしまう。
外猫たちの反応が『最後の望みくらい叶えてやる』的な状況に思え、俺も暗い気持ちになってしまった。
そんな気持ちを振り払うように
「それでも、明戸は必死で白パンを探してくれてるんだよね
ありがとう、一緒に探してくれて感謝してる」
俺はそう言うと、思わず自分より背の低い明戸の頭を撫でてしまっていた。
柔らかですべらかなその髪の手触りは、若猫を思わせるものだった。
『初対面の人の頭撫でるとか、何やってんだ俺』
我に返って慌てて撫でるのをやめたが、手の持って行きどころがなく変なポーズで固まってしまう。
間抜けな状態の俺に
「ありがと、ダメな俺を慰めてくれる、近戸って優しいね
こんなに素敵な人間と出会えるなんて、思ってもみなかった」
明戸は切なそうに呟いて、肩に頭をすり寄せてきた。
それは猫が甘えてくる仕草を思わせ、出会ったばかりの明戸のことを『愛おしい』と思う気持ちがわき上がってくる。
『猫っぽいからって、猫に対して見境(みさかい)なさすぎるだろ、俺
この人は仕事で来てくれてるんだぞ』
自分の状態に呆れるものの、明戸に対する想いを止められなくなっていくのだった。
今日は歩き回ると暑くなる陽気のため、また明戸の体調が気になってきた。
俺はとっくに上着を脱いでシャツのボタンもゆるめているのに、彼は律儀にスーツのまま歩いている。
チラシをポスティングしたり道行く人に情報提供を呼びかけている訳ではないのに身なりに気を使うのは、当初の俺のようにペット探偵が胡散臭い職業だと思う人が居るせいだろう。
せめて水分補給させようとコンビニでスポーツ飲料を買って渡すと、明戸は気に入ってくれたようで喜んで飲んでいた。
「ソシオが最近スポーツドリンク好きなの、分かる気がする
初めてモッチーに買ってもらったものだって言ってたもんな
これは、近戸が初めて俺に買ってくれたもの」
明戸は何だか愛おしそうにペットボトルに頬を擦り寄せている。
「今日の依頼料って、これで十分なんじゃないかな
帰ったら黒谷に交渉してみようっと」
そんなことを言い出したため
「いや、ちゃんと正規の金額払うから」
俺はビックリしてしまう。
先ほどファミレスで払ってもらった金額の方が遙かに高かったし、朝から長時間拘束しておいてペットボトル1本では商売にならないだろう。
俺がそう伝えても
「そうかな」
明戸は首をひねるばかりで、ちょっと浮き世離れしている感じが、彼のミステリアスな雰囲気に拍車をかけていた。
結局、夕方まで探し回っても有益な情報すら得られず、明戸は見るからに意気消沈している。
俺もガッカリはするものの、明日もまたこうやって明戸と白パンを探せる事が嬉しいと思っていた。
「明日はもう1人所員連れてくるから、2人体制で挟み撃ち狙って保護できるかも」
明戸と2人きりで捜索は出来ないが、白パンを捕まえる方が先なので仕方がない。
白パンが帰ってくるのが嬉しい反面、帰ってくれば明戸と縁が切れてしまうことを寂しく感じていた。
『連絡先聞いて、お礼にどこかで食事でもしないか誘ってみよう』
もう少し明戸との縁を繋いでおきたい、俺はそう考えるようになっていった。
電車の乗換駅や乗り換え方法を教え、最寄り駅で別れた後も『どんな店なら気に入ってくれるかな』と、心が浮かれてくるのだった。
翌日は昨日より肌寒い気温だった。
これで明戸の体力消耗は抑えられるんじゃないかと俺は胸をなで下ろした。
明戸が来るまでまだ時間に余裕があったので、俺は1人で探してみることにする。
もし白パンを探し出せたら、昨日のお礼にランチに誘おうかと言う下心があったことは否めない。
家の者にはペット探偵に依頼していることは伝えてあるから、俺が学校に行かずお礼だと言ってランチを食べに行っても不自然ではないはずだ。
そんな風に意気込みすぎたのか、白パンを探していて気が付くと明戸が来る時間になっていた。
慌てて家に駆け戻ると、すでにナリの車が玄関先に止まっている。
明戸は家の者と話しているようだった。
遠目でも、その表情を見た瞬間にわかってしまった。
明戸は頬を紅潮させ、嬉しそうに、楽しそうに、美しく微笑んで話していた。
相手を見つめる瞳には、愛が溢れている。
誰が対応しているのか見なくても、俺は状況を理解した。
アニキだ。
昨日俺のことを『格好良い』と言ってくれた明戸。
でもアニキは俺と同じ顔なのに、俺よりも断然顔の作りが整っていた。
俺とアニキとは、たった1時間ほどの差しかないはずだ。
だが、その1時間が雲泥の差を生んでいる。
それを痛感したのは小学校高学年になったあたりからだったろうか。
俺とアニキは誕生日の違う双子なのだ。
アニキが生まれたのが23時30分、俺が生まれたのは翌日0時40分。
自然分娩で無事に生まれた俺たちは、双子でありながら誕生日が違うという面白い状況になっていた。
子供の頃は身長も体重も顔の作りだって全く同じで、実の親ですら俺たちが演技をすると、どっちが俺でどっちがアニキだかわからなくなっていた。
遊びに来る兄弟のいない友達は、夕方に帰って行くとき
「チカとトノは、遊べる友達とずっと一緒にいられていいよなー」
心底うらやましそうに言ったものだ。
俺たちは仲が良く、そう言われるのが嬉しくて
「トノ、ご飯食べたらまた対戦やろう」
「うん、今度はチカに負けないよ」
テレビゲーム、ボードゲーム、カードゲーム、毎日楽しくアニキと2人で遊んでいた。
小学校に上がっても成績や身体能力は拮抗していた。
しかし高学年になると、バランスが崩れてくる。
明らかに、アニキの方が俺より優れているのだ。
テストで俺が90点を取るとアニキは93点。
身長は1cm抜かされた。
100メートル走ではアニキの方が1秒早く、バスケでゴールできる回数もアニキの方が1、2回ほど多かった。
ゲームで負ける回数も増えてくるし、白パンが夜にベッドに潜り込む回数もアニキの方が多い気がしていた。
そうした些細な積み重ねが、次第に俺の心に重くのしかかっていく。
以前は『遠野(とおの)』という名前を『トノ』と呼んでいたが、中学に上がってからは距離をとって『アニキ』と呼ぶようになる。
そんな自分を卑屈に感じ、さらに泥沼に落ちていくようだった。
同じ高校に入学し同じ部活に入った頃から、それは加速していく。
アニキより長い時間勉強してもテストの点差は埋まらず、身長は3cm抜かされた。
そして何よりタイムが違うのだ。
陸上部、という数字がものをいう部活に入ってしまったのが悪かったのだろう。
俺もアニキも子供の頃から走ることが大好きで、中学でも陸上部だった。
だが、高校の陸上部ともなるとレベルが違っていた。
俺だってタイムは良い方だが、アニキはさらに良いのだ。
2、3秒の差がどうしても超えられない遙かに高い壁になってしまう。
うちの学校で陸上部の『大滝兄弟』と言えばちょっとは知られた名になっていたが、その後必ず『どっちの方?』と言われていた。
2人で並んでいれば差が分かるのだが、単体でいると普通に似ている双子の俺たちの区別が、ほとんどの人には付かないようだった。
アニキのオマケのような人生がいやで、大学は別の学校を選んだ。
中途半端に地元だから大学では陸上をやらず、どこのサークルにも属さなくて良いようバイトに明け暮れる勤労青年を演出していた。
知り合って仲良くなったのは地元出身じゃないし、スポーツをやっていないタイプばかりなので俺の名は知られてなくて気楽に付き合えた。
このまま俺だけの人生を歩んでいこう、そう思った矢先の、気になる人をアニキに取られてしまうかもしれない状況。
『取られるも何も、告白したわけでもされたわけでもないけどさ
でも、良いな、って思って、明戸だって俺のこと誉めてくれて、懐いてくれて…』
昨日からの浮かれていた気分は完全に吹き飛んで『アニキには適わない』そんなお馴染みの諦観に支配されていた。
子供の時は心の底から『トノ』のことが大好きで双子として生まれたことが嬉しかったのに、今では表面上は仲良く付き合っているもののどこか心が離れているように感じている。
アニキだってそんな俺の変化に気が付いているはずだ。
それでも昔のように『チカ』と呼んで慕ってくれる優しい『トノ』
卑屈な俺よりも、アニキの方が明戸に好かれるのに相応しい。
俺はアニキと一緒にいて幸せそうな明戸をこれ以上見ていたくなくて、踵(きびす)を返して走り去るのであった。
明戸が熱心に見つめる先には必ず猫が居た。
猫好きだし、俺も猫に対しては敏感な方だと思っていたが明戸には適わない。
「流石、プロ!的確に猫を見つけるね
泣き声とか聞こえるの?耳が良いのかな?
こんな特技があるから、ペット探偵で働いてるんだ」
感心して言うと
「俺、猫だからね、猫の気配には敏感なの
テリトリー被ってても上手くやれそうな相手か、見極めなきゃいけないじゃん
外飼いの猫には重要なことなんだよ
さっき捜索しながらこの辺の猫に『教えて欲しいことがあるだけで、俺は直ぐ出て行くから』って流れ者っぽく声かけといた
だから見かける猫が増えてるんだ」
明戸はフザケた感じで答えるが、何故か納得できるような理由に思われて俺は思わず『成る程』と頷いてしまった。
「この辺の猫に白パンのこと聞いて回ってる
完全室内飼いの猫でも白パンみたく長く生きてると多少の顔見知りは出来るんだよ、外猫が庭を通る許可を取りに来たりするし
近戸の家の庭って良い感じだもん
いきなり入ってくる家宅侵入猫とは仲悪くても、礼儀正しい猫には当たらず触らずな付き合いしてたみたい」
明戸の言葉が何の比喩なのかわからなかったが、窓辺にいる白パンの行動は正にその通りだった。
「それで、知り合い猫は白パンのこと何て言ってる?」
思わずそう聞く俺に
「皆、何も教えてくれない…白パンに口止めされてるんだ
仲が悪い猫ですら『あんなジジイ、知るもんか』ってはぐらかすし」
明戸は沈んだ顔で答えて俯いてしまう。
外猫たちの反応が『最後の望みくらい叶えてやる』的な状況に思え、俺も暗い気持ちになってしまった。
そんな気持ちを振り払うように
「それでも、明戸は必死で白パンを探してくれてるんだよね
ありがとう、一緒に探してくれて感謝してる」
俺はそう言うと、思わず自分より背の低い明戸の頭を撫でてしまっていた。
柔らかですべらかなその髪の手触りは、若猫を思わせるものだった。
『初対面の人の頭撫でるとか、何やってんだ俺』
我に返って慌てて撫でるのをやめたが、手の持って行きどころがなく変なポーズで固まってしまう。
間抜けな状態の俺に
「ありがと、ダメな俺を慰めてくれる、近戸って優しいね
こんなに素敵な人間と出会えるなんて、思ってもみなかった」
明戸は切なそうに呟いて、肩に頭をすり寄せてきた。
それは猫が甘えてくる仕草を思わせ、出会ったばかりの明戸のことを『愛おしい』と思う気持ちがわき上がってくる。
『猫っぽいからって、猫に対して見境(みさかい)なさすぎるだろ、俺
この人は仕事で来てくれてるんだぞ』
自分の状態に呆れるものの、明戸に対する想いを止められなくなっていくのだった。
今日は歩き回ると暑くなる陽気のため、また明戸の体調が気になってきた。
俺はとっくに上着を脱いでシャツのボタンもゆるめているのに、彼は律儀にスーツのまま歩いている。
チラシをポスティングしたり道行く人に情報提供を呼びかけている訳ではないのに身なりに気を使うのは、当初の俺のようにペット探偵が胡散臭い職業だと思う人が居るせいだろう。
せめて水分補給させようとコンビニでスポーツ飲料を買って渡すと、明戸は気に入ってくれたようで喜んで飲んでいた。
「ソシオが最近スポーツドリンク好きなの、分かる気がする
初めてモッチーに買ってもらったものだって言ってたもんな
これは、近戸が初めて俺に買ってくれたもの」
明戸は何だか愛おしそうにペットボトルに頬を擦り寄せている。
「今日の依頼料って、これで十分なんじゃないかな
帰ったら黒谷に交渉してみようっと」
そんなことを言い出したため
「いや、ちゃんと正規の金額払うから」
俺はビックリしてしまう。
先ほどファミレスで払ってもらった金額の方が遙かに高かったし、朝から長時間拘束しておいてペットボトル1本では商売にならないだろう。
俺がそう伝えても
「そうかな」
明戸は首をひねるばかりで、ちょっと浮き世離れしている感じが、彼のミステリアスな雰囲気に拍車をかけていた。
結局、夕方まで探し回っても有益な情報すら得られず、明戸は見るからに意気消沈している。
俺もガッカリはするものの、明日もまたこうやって明戸と白パンを探せる事が嬉しいと思っていた。
「明日はもう1人所員連れてくるから、2人体制で挟み撃ち狙って保護できるかも」
明戸と2人きりで捜索は出来ないが、白パンを捕まえる方が先なので仕方がない。
白パンが帰ってくるのが嬉しい反面、帰ってくれば明戸と縁が切れてしまうことを寂しく感じていた。
『連絡先聞いて、お礼にどこかで食事でもしないか誘ってみよう』
もう少し明戸との縁を繋いでおきたい、俺はそう考えるようになっていった。
電車の乗換駅や乗り換え方法を教え、最寄り駅で別れた後も『どんな店なら気に入ってくれるかな』と、心が浮かれてくるのだった。
翌日は昨日より肌寒い気温だった。
これで明戸の体力消耗は抑えられるんじゃないかと俺は胸をなで下ろした。
明戸が来るまでまだ時間に余裕があったので、俺は1人で探してみることにする。
もし白パンを探し出せたら、昨日のお礼にランチに誘おうかと言う下心があったことは否めない。
家の者にはペット探偵に依頼していることは伝えてあるから、俺が学校に行かずお礼だと言ってランチを食べに行っても不自然ではないはずだ。
そんな風に意気込みすぎたのか、白パンを探していて気が付くと明戸が来る時間になっていた。
慌てて家に駆け戻ると、すでにナリの車が玄関先に止まっている。
明戸は家の者と話しているようだった。
遠目でも、その表情を見た瞬間にわかってしまった。
明戸は頬を紅潮させ、嬉しそうに、楽しそうに、美しく微笑んで話していた。
相手を見つめる瞳には、愛が溢れている。
誰が対応しているのか見なくても、俺は状況を理解した。
アニキだ。
昨日俺のことを『格好良い』と言ってくれた明戸。
でもアニキは俺と同じ顔なのに、俺よりも断然顔の作りが整っていた。
俺とアニキとは、たった1時間ほどの差しかないはずだ。
だが、その1時間が雲泥の差を生んでいる。
それを痛感したのは小学校高学年になったあたりからだったろうか。
俺とアニキは誕生日の違う双子なのだ。
アニキが生まれたのが23時30分、俺が生まれたのは翌日0時40分。
自然分娩で無事に生まれた俺たちは、双子でありながら誕生日が違うという面白い状況になっていた。
子供の頃は身長も体重も顔の作りだって全く同じで、実の親ですら俺たちが演技をすると、どっちが俺でどっちがアニキだかわからなくなっていた。
遊びに来る兄弟のいない友達は、夕方に帰って行くとき
「チカとトノは、遊べる友達とずっと一緒にいられていいよなー」
心底うらやましそうに言ったものだ。
俺たちは仲が良く、そう言われるのが嬉しくて
「トノ、ご飯食べたらまた対戦やろう」
「うん、今度はチカに負けないよ」
テレビゲーム、ボードゲーム、カードゲーム、毎日楽しくアニキと2人で遊んでいた。
小学校に上がっても成績や身体能力は拮抗していた。
しかし高学年になると、バランスが崩れてくる。
明らかに、アニキの方が俺より優れているのだ。
テストで俺が90点を取るとアニキは93点。
身長は1cm抜かされた。
100メートル走ではアニキの方が1秒早く、バスケでゴールできる回数もアニキの方が1、2回ほど多かった。
ゲームで負ける回数も増えてくるし、白パンが夜にベッドに潜り込む回数もアニキの方が多い気がしていた。
そうした些細な積み重ねが、次第に俺の心に重くのしかかっていく。
以前は『遠野(とおの)』という名前を『トノ』と呼んでいたが、中学に上がってからは距離をとって『アニキ』と呼ぶようになる。
そんな自分を卑屈に感じ、さらに泥沼に落ちていくようだった。
同じ高校に入学し同じ部活に入った頃から、それは加速していく。
アニキより長い時間勉強してもテストの点差は埋まらず、身長は3cm抜かされた。
そして何よりタイムが違うのだ。
陸上部、という数字がものをいう部活に入ってしまったのが悪かったのだろう。
俺もアニキも子供の頃から走ることが大好きで、中学でも陸上部だった。
だが、高校の陸上部ともなるとレベルが違っていた。
俺だってタイムは良い方だが、アニキはさらに良いのだ。
2、3秒の差がどうしても超えられない遙かに高い壁になってしまう。
うちの学校で陸上部の『大滝兄弟』と言えばちょっとは知られた名になっていたが、その後必ず『どっちの方?』と言われていた。
2人で並んでいれば差が分かるのだが、単体でいると普通に似ている双子の俺たちの区別が、ほとんどの人には付かないようだった。
アニキのオマケのような人生がいやで、大学は別の学校を選んだ。
中途半端に地元だから大学では陸上をやらず、どこのサークルにも属さなくて良いようバイトに明け暮れる勤労青年を演出していた。
知り合って仲良くなったのは地元出身じゃないし、スポーツをやっていないタイプばかりなので俺の名は知られてなくて気楽に付き合えた。
このまま俺だけの人生を歩んでいこう、そう思った矢先の、気になる人をアニキに取られてしまうかもしれない状況。
『取られるも何も、告白したわけでもされたわけでもないけどさ
でも、良いな、って思って、明戸だって俺のこと誉めてくれて、懐いてくれて…』
昨日からの浮かれていた気分は完全に吹き飛んで『アニキには適わない』そんなお馴染みの諦観に支配されていた。
子供の時は心の底から『トノ』のことが大好きで双子として生まれたことが嬉しかったのに、今では表面上は仲良く付き合っているもののどこか心が離れているように感じている。
アニキだってそんな俺の変化に気が付いているはずだ。
それでも昔のように『チカ』と呼んで慕ってくれる優しい『トノ』
卑屈な俺よりも、アニキの方が明戸に好かれるのに相応しい。
俺はアニキと一緒にいて幸せそうな明戸をこれ以上見ていたくなくて、踵(きびす)を返して走り去るのであった。