しっぽや(No.174~197)
side<IZUMI>
俺は岩月の勧めで、恋人である久那の過去を聞く決心をした。
今まで、どんなに深く付き合っていても久那の『現在』しか知らないことが、心の奥に小さなトゲのような違和感となって突き刺さっていたのだ。
久那とは今だけの快楽を共に過ごすための存在ではなく、共に歩んでいくパートナーになりたかった。
「和泉と久那、帰りは僕の車で送ってあげる
その方が早いでしょ」
岩月は買ってきた新しい服をクローゼットにしまい、洗濯物を纏めると笑顔で聞いてきた。
「オニイサンに甘えさせてもらいます」
心の闇を打ち明けてなお、親しく話しかけてくれる彼に俺は頭が上がらなかった。
「皆に似合う服を揃えてくれて嬉しいんだ、少しでもお礼がしたくてね
久那と、うーん、なんて言うか、正式にお付き合いしてくれればもっと嬉しいよ」
岩月はジョンがいるのに、いつも久那のことを気にかけてくれている。
しかしそれはヤマシい思いを感じさせない、家族を思いやるような態度だった。
「久那、もう上がって良いよ
和泉、お菓子ごちそうさま
チーズ蒸しパンって、ビックリするくらい美味しいよね
初めて食べてみたとき、『蒸しパン』の概念がひっくり返った
チーズおかきとか、チーズたらとか、チーズの進化には目を見張る物があるよ」
控え室に入ってきた黒谷がニコヤカに話しかけてくれた。
気のせいか、その眼差しにはいつもより親しみが込められていた。
「久那、和泉は良い人だ、岩月も保証してる
きっと大丈夫だよ、頑張れ
親鼻の時に肝に銘じたんだ、早い段階で打ち明けた方が良いって」
黒谷の言葉に、久那は緊張で青ざめた顔で弱々しく頷いていた。
「じゃあ、そろそろ行こうか、忘れ物ない?」
岩月の言葉で俺と久那は慌ただしく荷物を纏め、しっぽや事務所のドアを開けて移動した。
階段を下りてビルを出ると、既に辺りは夜の帳(とばり)が下りて暗くなっている。
事務所にほど近い駐車場に止めてある岩月の車に向かい、俺達は無言で歩いて行った。
「2人とも、夕飯どうするの?」
走り出した車を運転しながら、岩月が話しかけてくる。
「また、デパ地下で弁当でも買おうかな
それか寿司屋で寿司折りでも…なら、店で食べちゃった方が早いか
久那は?何が食べたい?」
「和泉と一緒なら、何を食べても美味しいから何でも
和泉の食べたい物を選んで」
久那は優しく微笑んで俺を見てくれた。
「オニイサンからの提案
久那、今まで和泉に色々食べさせてもらったんでしょ?
こんどは和泉に庶民の味を堪能してもらおうよ
と言う訳で、ホカ弁なんてどう?やっぱり定番はノリ弁だよね」
岩月が言うと
「ノリ弁、美味しいよね!唐揚げと白身フライ、どっちが良いかいつも悩む
コロッケと竹輪の磯辺揚げも入ってるのに、安いし
帰って直ぐ温かいのが食べられるのが、また良いんだ」
久那が瞳を輝かせた。
「電子レンジが無かったときは、僕やジョンも大分お世話になったよ
それは今でもか
コンビニ弁当より、炊き立てのご飯を詰めてもらった方が美味しくて
僕の家のレンジ、ファジーでビミョーだから
和泉の家のは最新の高機能で、美味しく温め直せるね
デパ地下の、元が美味しいお弁当だからかな
和泉、ホカ弁なんて食べたことある?」
岩月に聞かれ、俺は少しの気恥ずかしさと共に首を横に振った。
「食べたこと無いけど、久那が美味しいって言うなら食べてみたい」
彼の顔を見つめ伺うように言うと
「和泉、ホカ弁で良いの?」
少し驚いたような表情になった。
「じゃあ決まり、途中で店に寄っていこう」
こうして俺は、初めてホカ弁なるものを食べることになった。
先ほどはしっぽや事務所で初めてチーズ蒸しパンを食べてみた。
確かに、価格を考えれば皆が絶賛するのも納得できる味だった。
『久那と一緒にいると、新しいことや自分の中の知らなかった感情を知ることが出来る』
その視野の広がりは、新鮮な驚きに満ちあふれている。
久那と一緒だからチープなことにもチャレンジしてみようと言う気になれるのだ、と俺は気が付いていた。
買った物が入ったビニール袋を手に、俺と久那は自宅マンションに帰ってきた。
カップの味噌汁も買ってきたので、お湯を沸かす。
テーブルに置いた弁当容器は、まだ十分に温かだった。
フレンチやイタ飯屋で初めてのメニューを出されたときより心が躍るのは、一緒に食べる相手が久那だからだ。
味噌汁にお湯を注ぎ、弁当のふたを開ける。
揚げ物と海苔の香りが食欲をソソった。
「「いただきます」」
白身フライに添付されているタルタルソースをかける。
コロッケにはソース、竹輪の磯部揚げには醤油、チープながら調味料がそれぞれ入っているのに感心した。
蒸気で多少湿ってはいたが揚げたての白身フライは美味しくて
「美味いじゃん」
思わず声が出てしまう。
「気に入ってくれた?良かった」
久那の笑顔で初めてのホカ弁は、この上なく美味しいものとして俺の心に刻まれたのだった。
ノリ弁と言われていたのに海苔の下には鰹節が入っていて、それもまた良い味のアクセントになっていた。
「ホカ弁、あなどれない」
岩月に言われたからか、冷めたご飯を温め直したものより炊き立て(もしくは保温)されていたご飯の方が美味しく感じる。
「気に入ってくれた?
黒谷や白久、長瀞や双子は自炊が多いけど、俺は弁当で済ませる事が多いんだ
和泉に手料理とか作れないの、ちょっと引け目に感じてた
有名なレストランなんか入ったこともないし…
でも、ホカ弁の美味しさなら和泉に教えてあげられる」
久那が嬉しそうに俺を見てくれて『幸せって、こんなささやかなことで感じることが出来るんだ』そんな新鮮な驚きを味わっていた。
食事の後、残っていたペットボトルのお茶を飲みながら2人で話し合う一時も幸せを感じさせるものだった。
「俺、自分で何でも出来るって思い上がってた
身の回りのこと、家政婦さんがいないと何にも出来ないって思い知ったよ
久那にお茶の一杯も煎れてあげられないなんてさ
玉露や希少な茶葉が家にあっても、どこに置いてあるかわからない
急須のしまってある場所も知らないとか、小学生だって家の手伝いしてる子なら知ってるだろうに
ジュースや牛乳飲むのに使うグラスの置き場所しか気にしたことないって、金持ち以前に人間性の問題だよね」
岩月に闇を晒したせいだろうか、俺は素直に久那にも弱音を吐いていた。
もちろん久那は、その事で自分の方が生活能力があって人間として上だなんて考えない。
「でも、和泉は俺の知らないことをいっぱい知ってる
俺が知らなかったこと、色々教えてくれる
やっぱり和泉の方が凄いと思うよ」
当然のように久那は俺を立てる発言をしてくれた。
オベンチャラじゃない言葉、心の底から俺を信頼している澄んだ瞳。
彼の何もかもが愛おしかった。
「俺、過去のこととか聞かされても絶対久那のこと恐れない
…、もし…、もし久那が罪を犯していたとしても、その罪ごと久那を愛せると誓う
だから久那、過去を教えて欲しい、君の全てを教えて欲しいんだ」
俺はテーブルの上の久那の拳をギュッと握りしめた。
久那は迷った瞳で俯いている。
俺の握っている彼の拳は、震えていた。
「いつまでたっても、俺は意気地なしだ
大麻生みたいな勇敢な警察犬なら、勇気を持って過去と真実に立ち向かえるのかな
それとも、飼い主相手だと勝手が違うのかな
大麻生より先に、俺の方が飼ってもらいたい人に出会っちゃったから聞くことは出来ないや」
久那は口元だけの弱々しい笑みを浮かべ、よく分からないことを呟いていた。
「あーあ、こんな事なら、飼い主のいる奴にもっと真剣に話を聞いておけば良かった
どうやって打ち明けたのか、どうやって受け入れてもらえたのか」
ため息と共に吐き出された久那の言葉は、全く要領を得ないものだった。
久那はグラスに残っていたお茶を一気に飲み干すと、俺の手を握り返してきた。
痛いほど握りしめられたが、俺はそれをふりほどく気にはなれなかった。
「和泉…俺は和泉とは違う育ち方をした
育ち方、いや、存在そのものが違うんだ」
「久那、俺も久那も同じだよ、育ち方が違っても同じ人間なんだ
きっとわかりあえる」
貧しい暮らしの久那が自分を卑下している、『貧富の差は埋められない』と信じ込んで全てを閉ざしているように感じられた。
存在自体が違うと言われ、俺は少なからずショックを受けた。
そんなことを気にしながら今まで俺と付き合っていてくれたのかと思うと、居たたまれなかった。
「俺ね…、和泉みたいに人間じゃないんだ…」
「そんな事言わないで、久那」
俺が当たり前だと思っていた世界は、久那にはそんなにも違って見えていたのだろうか。
あちこちの店に連れ回し、色々と買い与えたのは彼のプライドを傷つけていたのか、俺は自分が蔑んでいた御曹司達と同じ事を久那にしてしまっていたのか。
ささやかな幸せに気付けた俺は今までの自分の行動を振り返り、泣きたくなってしまう。
「俺、…犬なんだ、例えとかじゃなく、本当に犬だったんだ
飼い主を救えず死んでしまった惨めな犬が、こんな、人間みたいな姿になって新たな飼い主を探してさまよってる
飼い主がいない俺達は、亡霊みたいなもんだね」
自虐的に微笑む久那の影が薄く見えた。
言われていることはさっぱり要領を得なかったが、消えそうな久那の様子に俺は恐怖する。
「亡霊なんかじゃない、久那はここにいるよ
頼むから俺の隣にいて、俺を置いていかないで」
俺は座っていた椅子から立ち上がり慌てて久那の側によると、その細くて大きな体を抱きしめた。
「飼い主になって欲しい人を不安にさせるなんて、俺、飼い犬失格だ
言葉ではどう言えば通じるのかわからない、もっとちゃんと言葉で説明できるようになりたかった…
だから、俺の全てを和泉に見せるね」
久那は俺を抱き返してきて、その額を俺の額にそっと合わせた。
そして、世界は一変する。
俺は岩月の勧めで、恋人である久那の過去を聞く決心をした。
今まで、どんなに深く付き合っていても久那の『現在』しか知らないことが、心の奥に小さなトゲのような違和感となって突き刺さっていたのだ。
久那とは今だけの快楽を共に過ごすための存在ではなく、共に歩んでいくパートナーになりたかった。
「和泉と久那、帰りは僕の車で送ってあげる
その方が早いでしょ」
岩月は買ってきた新しい服をクローゼットにしまい、洗濯物を纏めると笑顔で聞いてきた。
「オニイサンに甘えさせてもらいます」
心の闇を打ち明けてなお、親しく話しかけてくれる彼に俺は頭が上がらなかった。
「皆に似合う服を揃えてくれて嬉しいんだ、少しでもお礼がしたくてね
久那と、うーん、なんて言うか、正式にお付き合いしてくれればもっと嬉しいよ」
岩月はジョンがいるのに、いつも久那のことを気にかけてくれている。
しかしそれはヤマシい思いを感じさせない、家族を思いやるような態度だった。
「久那、もう上がって良いよ
和泉、お菓子ごちそうさま
チーズ蒸しパンって、ビックリするくらい美味しいよね
初めて食べてみたとき、『蒸しパン』の概念がひっくり返った
チーズおかきとか、チーズたらとか、チーズの進化には目を見張る物があるよ」
控え室に入ってきた黒谷がニコヤカに話しかけてくれた。
気のせいか、その眼差しにはいつもより親しみが込められていた。
「久那、和泉は良い人だ、岩月も保証してる
きっと大丈夫だよ、頑張れ
親鼻の時に肝に銘じたんだ、早い段階で打ち明けた方が良いって」
黒谷の言葉に、久那は緊張で青ざめた顔で弱々しく頷いていた。
「じゃあ、そろそろ行こうか、忘れ物ない?」
岩月の言葉で俺と久那は慌ただしく荷物を纏め、しっぽや事務所のドアを開けて移動した。
階段を下りてビルを出ると、既に辺りは夜の帳(とばり)が下りて暗くなっている。
事務所にほど近い駐車場に止めてある岩月の車に向かい、俺達は無言で歩いて行った。
「2人とも、夕飯どうするの?」
走り出した車を運転しながら、岩月が話しかけてくる。
「また、デパ地下で弁当でも買おうかな
それか寿司屋で寿司折りでも…なら、店で食べちゃった方が早いか
久那は?何が食べたい?」
「和泉と一緒なら、何を食べても美味しいから何でも
和泉の食べたい物を選んで」
久那は優しく微笑んで俺を見てくれた。
「オニイサンからの提案
久那、今まで和泉に色々食べさせてもらったんでしょ?
こんどは和泉に庶民の味を堪能してもらおうよ
と言う訳で、ホカ弁なんてどう?やっぱり定番はノリ弁だよね」
岩月が言うと
「ノリ弁、美味しいよね!唐揚げと白身フライ、どっちが良いかいつも悩む
コロッケと竹輪の磯辺揚げも入ってるのに、安いし
帰って直ぐ温かいのが食べられるのが、また良いんだ」
久那が瞳を輝かせた。
「電子レンジが無かったときは、僕やジョンも大分お世話になったよ
それは今でもか
コンビニ弁当より、炊き立てのご飯を詰めてもらった方が美味しくて
僕の家のレンジ、ファジーでビミョーだから
和泉の家のは最新の高機能で、美味しく温め直せるね
デパ地下の、元が美味しいお弁当だからかな
和泉、ホカ弁なんて食べたことある?」
岩月に聞かれ、俺は少しの気恥ずかしさと共に首を横に振った。
「食べたこと無いけど、久那が美味しいって言うなら食べてみたい」
彼の顔を見つめ伺うように言うと
「和泉、ホカ弁で良いの?」
少し驚いたような表情になった。
「じゃあ決まり、途中で店に寄っていこう」
こうして俺は、初めてホカ弁なるものを食べることになった。
先ほどはしっぽや事務所で初めてチーズ蒸しパンを食べてみた。
確かに、価格を考えれば皆が絶賛するのも納得できる味だった。
『久那と一緒にいると、新しいことや自分の中の知らなかった感情を知ることが出来る』
その視野の広がりは、新鮮な驚きに満ちあふれている。
久那と一緒だからチープなことにもチャレンジしてみようと言う気になれるのだ、と俺は気が付いていた。
買った物が入ったビニール袋を手に、俺と久那は自宅マンションに帰ってきた。
カップの味噌汁も買ってきたので、お湯を沸かす。
テーブルに置いた弁当容器は、まだ十分に温かだった。
フレンチやイタ飯屋で初めてのメニューを出されたときより心が躍るのは、一緒に食べる相手が久那だからだ。
味噌汁にお湯を注ぎ、弁当のふたを開ける。
揚げ物と海苔の香りが食欲をソソった。
「「いただきます」」
白身フライに添付されているタルタルソースをかける。
コロッケにはソース、竹輪の磯部揚げには醤油、チープながら調味料がそれぞれ入っているのに感心した。
蒸気で多少湿ってはいたが揚げたての白身フライは美味しくて
「美味いじゃん」
思わず声が出てしまう。
「気に入ってくれた?良かった」
久那の笑顔で初めてのホカ弁は、この上なく美味しいものとして俺の心に刻まれたのだった。
ノリ弁と言われていたのに海苔の下には鰹節が入っていて、それもまた良い味のアクセントになっていた。
「ホカ弁、あなどれない」
岩月に言われたからか、冷めたご飯を温め直したものより炊き立て(もしくは保温)されていたご飯の方が美味しく感じる。
「気に入ってくれた?
黒谷や白久、長瀞や双子は自炊が多いけど、俺は弁当で済ませる事が多いんだ
和泉に手料理とか作れないの、ちょっと引け目に感じてた
有名なレストランなんか入ったこともないし…
でも、ホカ弁の美味しさなら和泉に教えてあげられる」
久那が嬉しそうに俺を見てくれて『幸せって、こんなささやかなことで感じることが出来るんだ』そんな新鮮な驚きを味わっていた。
食事の後、残っていたペットボトルのお茶を飲みながら2人で話し合う一時も幸せを感じさせるものだった。
「俺、自分で何でも出来るって思い上がってた
身の回りのこと、家政婦さんがいないと何にも出来ないって思い知ったよ
久那にお茶の一杯も煎れてあげられないなんてさ
玉露や希少な茶葉が家にあっても、どこに置いてあるかわからない
急須のしまってある場所も知らないとか、小学生だって家の手伝いしてる子なら知ってるだろうに
ジュースや牛乳飲むのに使うグラスの置き場所しか気にしたことないって、金持ち以前に人間性の問題だよね」
岩月に闇を晒したせいだろうか、俺は素直に久那にも弱音を吐いていた。
もちろん久那は、その事で自分の方が生活能力があって人間として上だなんて考えない。
「でも、和泉は俺の知らないことをいっぱい知ってる
俺が知らなかったこと、色々教えてくれる
やっぱり和泉の方が凄いと思うよ」
当然のように久那は俺を立てる発言をしてくれた。
オベンチャラじゃない言葉、心の底から俺を信頼している澄んだ瞳。
彼の何もかもが愛おしかった。
「俺、過去のこととか聞かされても絶対久那のこと恐れない
…、もし…、もし久那が罪を犯していたとしても、その罪ごと久那を愛せると誓う
だから久那、過去を教えて欲しい、君の全てを教えて欲しいんだ」
俺はテーブルの上の久那の拳をギュッと握りしめた。
久那は迷った瞳で俯いている。
俺の握っている彼の拳は、震えていた。
「いつまでたっても、俺は意気地なしだ
大麻生みたいな勇敢な警察犬なら、勇気を持って過去と真実に立ち向かえるのかな
それとも、飼い主相手だと勝手が違うのかな
大麻生より先に、俺の方が飼ってもらいたい人に出会っちゃったから聞くことは出来ないや」
久那は口元だけの弱々しい笑みを浮かべ、よく分からないことを呟いていた。
「あーあ、こんな事なら、飼い主のいる奴にもっと真剣に話を聞いておけば良かった
どうやって打ち明けたのか、どうやって受け入れてもらえたのか」
ため息と共に吐き出された久那の言葉は、全く要領を得ないものだった。
久那はグラスに残っていたお茶を一気に飲み干すと、俺の手を握り返してきた。
痛いほど握りしめられたが、俺はそれをふりほどく気にはなれなかった。
「和泉…俺は和泉とは違う育ち方をした
育ち方、いや、存在そのものが違うんだ」
「久那、俺も久那も同じだよ、育ち方が違っても同じ人間なんだ
きっとわかりあえる」
貧しい暮らしの久那が自分を卑下している、『貧富の差は埋められない』と信じ込んで全てを閉ざしているように感じられた。
存在自体が違うと言われ、俺は少なからずショックを受けた。
そんなことを気にしながら今まで俺と付き合っていてくれたのかと思うと、居たたまれなかった。
「俺ね…、和泉みたいに人間じゃないんだ…」
「そんな事言わないで、久那」
俺が当たり前だと思っていた世界は、久那にはそんなにも違って見えていたのだろうか。
あちこちの店に連れ回し、色々と買い与えたのは彼のプライドを傷つけていたのか、俺は自分が蔑んでいた御曹司達と同じ事を久那にしてしまっていたのか。
ささやかな幸せに気付けた俺は今までの自分の行動を振り返り、泣きたくなってしまう。
「俺、…犬なんだ、例えとかじゃなく、本当に犬だったんだ
飼い主を救えず死んでしまった惨めな犬が、こんな、人間みたいな姿になって新たな飼い主を探してさまよってる
飼い主がいない俺達は、亡霊みたいなもんだね」
自虐的に微笑む久那の影が薄く見えた。
言われていることはさっぱり要領を得なかったが、消えそうな久那の様子に俺は恐怖する。
「亡霊なんかじゃない、久那はここにいるよ
頼むから俺の隣にいて、俺を置いていかないで」
俺は座っていた椅子から立ち上がり慌てて久那の側によると、その細くて大きな体を抱きしめた。
「飼い主になって欲しい人を不安にさせるなんて、俺、飼い犬失格だ
言葉ではどう言えば通じるのかわからない、もっとちゃんと言葉で説明できるようになりたかった…
だから、俺の全てを和泉に見せるね」
久那は俺を抱き返してきて、その額を俺の額にそっと合わせた。
そして、世界は一変する。