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しっぽや(No.11~22)

side〈ARAKI〉

梅雨が明け、初夏になると夏休みがもうすぐそこである。
『休み中は、もう少しバイトの日数増やしたいな…
 白久と一緒に居たいし』
そんな事を考えながら、俺(野上 荒木)はいつもの週末のように学校の帰りにバイト先である『しっぽや』へ向かっていた。
歩いているだけで、汗がダラダラと流れてくる。
もうすっかり『夏』といった感じの暑さであった。
早くエアコンの効いた事務所に入りたくて、俺は小走りにテナントビルの階段を上がっていく。
事務所の扉の前に来ると
「いつかやるんじゃないか、とは思ってたけど、まさか本当にやるとは…
 うちでは手に負えないよ?」
黒谷の呆れたような声が響いてきた。
「あ、でも、これはだな…」
波久礼の困ったような声も聞こえる。
『あれ、波久礼さん来てるんだ、ミイちゃんも居るのかな?』
俺は軽い気持ちでノックし、扉を開けた。

「やあ、荒木いらっしゃい
 悪いね、シロは今、急ぎの依頼が来て出てもらってるんだ
 そんなに時間はかからないと思うから、少し事務所で待ってて」
黒谷がそう挨拶してくる。
「うん、わかった
 波久礼さん、こんにちは
 ミイちゃんも一緒?」
俺はそう言って事務所内を見回すが、ミイちゃんの姿は見えなかった。
「三峰様は本日いらしておりません
 お暇をいただいたので、私が1人で来ているのです
 荒木殿、私の事は『波久礼』とお呼びください」
波久礼は礼儀正しく大きな体を折り曲げて、深々と礼をした。
「ああ、うん、なら俺の事も『荒木』って呼んで」
俺はどうにも『様』とか『殿』とか呼ばれるのが、むず痒かった。
「ご命令とあれば、そうさせていただきます、荒木」
また、波久礼が深々と礼をする。
森林オオカミの血が98%入っている狼犬の化生のせいか、とても日本人には見えないのに、波久礼は礼節を重んじる日本人そのもののような人だった。

「ところで、少しもめてたみたいだけど、どうしたの?
 厄介な依頼でも来た?」
俺は扉の前で聞いた会話を思い出し、そう聞いてみる。
「そうそう、聞いてよ荒木
 こいつ、人間の子供みたいな事しちゃってさー
 こーゆー場合、どうすれば良いの?
 さすがに『元の場所に返してきなさい』なんて言いたくないし」
また、黒谷が呆れた声を出した。
波久礼は大きな体を竦ませて
「う…だが、見つけてしまったのだから、放っておけぬだろう…」
弱々しく反論する。
俺には話がちっとも見えなかった。

そんな時
「ミイイイ」
突然、事務所内に子猫の泣き声が響き渡る。
波久礼が慌てて、スーツのポケットに手を入れた。
『え?今の、波久礼の着信音?
 随分可愛いの設定してるんだな』
俺は少し驚いてその手元を見つめたが、波久礼がポケットから取り出したものを見て
「ちょ、どうしたの?それ…」
思わず大声を上げてしまった。
波久礼が取り出したのは、生後1ヶ月になるかならぬかの、本物の小さな子猫であったのだ。
「ああ、とにかく、猫用ミルクとほ乳瓶を買ってこなくては
 後は何が必要だったか…
 あのお方が子猫の人工飼育をする際は他に何を用意しておられたか、店に行って確認せねば
 荒木、すみませんが買い物に行っている間、面倒をみてやってください」
波久礼は俺の手に子猫を押し付けると、物凄い早さで事務所を出て行った。

「あいつの猫好きは知ってたけど、まさか子猫を拾うとは思わなかったよ」
黒谷が心底呆れたように呟いた。



俺は、手の中で動いている子猫から目が離せなくなっていた。
それは真っ黒い子猫で、長毛種の血でも入っているのか、産毛が長い。
手の中で動きながら、しきりに匂いを嗅いでいるところをみると、お腹が空いているようであった。
『確かに、これは放っておけない…』
俺は波久礼の意見に激しく同意する。

「あいつは以前の飼い主がやってたみたいに『ある程度育てて里子に出す』とか言ってるけどさ
 里親を探すつてなんて無いし、波久礼はあれでも武州(ぶしゅう)の要だから、三峰様の警護から長期離れる訳にはいかないんだ
 波久礼と一緒にいるの、子猫にはちょっと危険なんだよね」
黒谷は難しい顔をして、腕を組んだ。
しかしすぐにハッとした顔になり
「あ…、そっか、荒木、また飼い主探し依頼して良い?
 依頼料は波久礼に払わせるからさ
 人間が探した方が、良い飼い主が見つかるんじゃないかな~、なんて」
伺いを立てるように俺を見つめてくる。
俺は手の中で動く、柔らかで温かな感触に心を決めていた。

「うん、実は飼い主のあてがあるんだ
 俺の親父、クロスケが死んでからウザイ事になっててさー
 自分で黒い靴下脱ぎ散らかしておいたのにクロスケと間違えて、それに話し掛けたりすんの
 で、『そっか、もう居ないんだ』とか言ってメソメソ泣いてんだよ
 完璧な『ペットロス症候群』ってやつ
 こいつ、きっとそれを癒やしてくれるよ」
俺は、小さな子猫の頭を指先でソッと撫でた。
「ミイイイ」
子猫はまた、大きな声で泣く。
「小さいけど元気は良さそうだし、クロスケもこれくらいの時期に親父が拾ってきて育てたから大丈夫だと思う
 うち、俺の赤ん坊の時の写真より、チビだったクロスケの写真の方が多いんだ」
俺は苦笑気味にそう言った。
「荒木の家に行くなら安心だ
 シロが焼き餅焼きそうだけど」
黒谷はそう言うと、ニヤリと笑った。

ドダダダダダッ

階段を上がるやかましい足音が聞こえ、バンッと事務所の扉が乱暴に開かれる。
思った通り、息を切らせた波久礼が姿を現した。
「足りない物は帰りに買うとして、とりあえずミルクとほ乳瓶を買ってきた
 黒谷、お湯を分けてもらうぞ」
波久礼はビニール袋をガサガサさせながら、所員控え室に消えていく。
「はいはい」
黒谷が適当な感じで返事をした。

『波久礼に作れるのかな…』
俺は少し不安になったが、波久礼はキチンとミルクを作り、馴れた仕草で子猫にそれを飲ませ始める。
「へー、上手いもんだね」
俺は波久礼の手元を覗き込み、感心してそう言った。
「あのお方、っと、私の化生直前の飼い主が、よくやっていた事なのです
 中川先生の授業を何度か受けたのでミルクの説明書も読めたし、一応、これを買った店の人にも作り方を教わってきました」
波久礼は生真面目にそう答え
「この子はミルクを吸う力が強いし、キチンと育ちそうですね」
子猫を見つめて優しい顔を見せた。


満腹になった子猫は、波久礼の手の中で満足そうに眠りについた。
スースーと規則正しい小さな寝息が聞こえる。
『冷房で冷えないように』と、波久礼はそんな子猫をハンカチで包んでやっていた。

「そうですか、荒木のお家で飼っていただけるなら安心です」
ソファーに座り子猫の事を話し合いながら、波久礼はホッとした笑顔を見せる。
「飼い主探しの依頼料の方は、どうか私に支払わせてください」
深々と頭を下げる波久礼に
「いや、それはいいから
 その代わり、このほ乳瓶とミルク貰って良い?」
俺はそう言った。
何も貰わないと、多分引き下がりそうになかったからだ。
「もちろんです!
 他に何か必要な物がありましたら、遠慮なくおっしゃってください」
波久礼は笑顔を見せる。

「この子は紙袋に入れられて、公園の生け垣の奥に押し込まれていたのです
 炎天下に晒されなかったのは良いのですが、夜まで誰にも気付いてもらえなければ体が冷えてしまっていたでしょう
 これくらいの子猫なら、兄弟でくっつきあって保温しながら眠ります
 初夏とは言え、まだ夜は気温が下がりますからね」
波久礼の言葉に、俺はショックを受けた。
『こんな小さな子猫を、紙袋なんかに入れて捨てた奴がいるんだ…』
俺は、人間に対する情けない思いでいっぱいになった。
「ごめん…波久礼達は化生するほど、人の事を思っていてくれるのに…」
悔しくて、涙が出そうになる。

「捨てるのも人であれば、拾うのもまた人なのですよ
 あのお方が拾ってきて里子に出した子猫の数だけ、私達を大切に思ってくださる人がいることを知っています
 私は、それだけでも化生する価値はあると思っているのです
 獣の中にも、人を敵対視してけっして心を許さないもの、人を食料としか思っていないものもいますからね
 一概に『人』、『獣』という括りは出来ません」
穏やかに言う波久礼に
「ありがとう」
俺は感謝の言葉を述べた。
ここにいる犬や猫に『人』が好かれている事が、とてもありがたく思えた。

波久礼は急に立ち上がり子猫を庇うように手の中に包み込むと、所長机の脇に移動する。
「え?どうしたの?」
俺も慌てて立ち上がったところで

コンコン

ノックとともに扉が開き白久が事務所に帰ってきた。
リードに繋いだ秋田犬を連れている。
白久より茶色の濃い毛色だけど、口周りが白くなっているので老犬のようであった。
その犬は、大人しくソファーの横に座る。

「荒木、お待たせして申し訳ありません
 急な依頼が入りまして
 珍しく秋田犬の依頼であったものですから、すぐ済むと思い、出ていました」
白久が俺に笑顔を向ける。
「うん、お疲れ様」
自分に懐いてくれる化生の存在が嬉しくて、俺も笑顔を返した。
「波久礼、そんなに警戒しなくても、この方は穏やかな方ですので狼犬に吠え立てたりしませんよ」
白久が波久礼を見て苦笑する。
それで初めて、俺は波久礼が犬から子猫を庇おうとして場所を移動したことに気が付いた。
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