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しっぽや(No.70~84)

翌週の休みの日、俺は新郷と夜釣りに出かけた。
「何だかんだで、今年初の釣りだね」
楽しそうに暮れゆく空を見上げる新郷の笑顔が可愛い。
「そうだな、もう少し早い時期に来たかったが天候が微妙だったからな
 波が高いときに無理して来ても危険だし」
「これで商売やってるわけじゃないから、無理は禁物
 桜ちゃんを危険な目に合わせたくないもん
 趣味の範囲で楽しまなきゃ」
新郷は笑って断言する。
「川釣りもやっていれば、もう少し頻繁に釣りに行くんだが
 どうにも、海釣りの方が好きでな」
苦笑する俺に
「車ないし、電車で行ける海の方が良いって
 山は危険なんだよ」
新郷は真面目な顔を向けてきた。
彼の以前の飼い主は、山で亡くなっている。
「ああ、しかし、鮎釣りは面白そうで興味はあるな」
「でも、超混んでそうじゃん
 鮎釣らないで、誰かの帽子釣っちゃいそう」
「たしかに」
俺達はそんな事を話し合いながら、良さそうなポイントを探す。
ここは、初めて訪れる場所であった。

「うーん、出遅れたか
 良さそうなとこは、もう人がいるね」
新郷がキョロキョロと辺りを見回した。
「皆、朝から粘ってる感じだな
 ネットでも紹介されていたし、ポイントを探しているだけで朝になりそうだ」
俺は思わず苦笑する。
たまには初めての場所で釣ってみようとネットで調べたが、紹介されるような場所は人が多いのだ。
かといって、足であちこち開拓するには家から海までが遠すぎた。
俺達は堤防を離れ、どこか釣り糸を垂らせる場所はないかと探し始めた。

「今日の釣果は期待できないな
 沢山釣れたらゲンの所に持って行こうと思ったんだが」
「初めての場所だからしょうがないって」
新郷はまだキョロキョロしながら場所を探っている。
気のせいか、表情が険しくなっていた。
『下調べ不足で、怒らせてしまったかな』
少し焦った俺は薄暗い砂利道を足早に進む。
海は見えているので、どこか海に突きだした広めの場所があればいけそうなのだ。

急に脇の草むらがガサリと音を立て、ヌッと人が出てきた。
驚いた俺は悲鳴を堪えるのが精一杯だった。
「場所を、お探しですか?」
低い声で、人影が聞いてくる。
帽子を目深にかぶり、釣用のベストを着ていた。
俺も同じ様な格好をしているので、釣りのポイントを探しているのは一目瞭然だったのだろう。
「え、はい、出遅れてしまったみたいで」
俺が答えるとその人は
「私たちは移動しますので、どうぞ」
そう言って草むらの奥を指さした。
「あ、はあ、どうも」
俺は煮え切らない返事を返し、新郷を呼びに戻っていった。

「新郷、あの人が場所を譲ってくれるって」
彼に呼びかけ、俺は道の先を指さした。
しかし、人影はもうそこには無かった。
「あれ?」
不審に思い懐中電灯をつけて光で探ってみても、誰かがいた形跡はない。
しかし、遠くに見える草むらは、確かに先ほど指さされた場所だった。
新郷も懐中電灯の明かりを向ける。
「どの辺?」
そう問いかけられた俺は道を戻り
「この辺りだったんだが」
キョロキョロと草むらの辺りを探がすと、その奥には海に突き出た緩やかで広い崖があった。
しかしその場所にも人影はない。
「もう、移動してしまったのか?」
その崖に下りてみると、広さも申し分なく足下もしっかりしていた。

俺を追って、新郷も同じ場所にたどり着く。
「良さそうな場所じゃないか、さっきの人はもう移動してしまったようだし、ありがたく使わせてもらおう」
俺の言葉に、新郷は浮かない顔を見せる。
「崖か…」
彼の呟きで、以前に俺が魚に引かれて崖から落ちたことを危惧しているのが伺えた。
「今回は気を付けるさ
 それに、前の場所より広さも十分ある」
俺が笑いかけると
「そうだね、荷物も置けそうだし」
新郷もやっと納得した顔になった。

俺達は早速準備を開始して、釣り糸を垂れた。
「夜釣りのお供は、新郷の爆弾おにぎりだな」
俺がおにぎりにかぶりつくと、新郷は笑顔を見せた。
「空や羽生にも教えてやったんだ、贅沢だって好評だぜ」
得意げな新郷が、紙コップに入れたポットのお茶を渡してくれる。
初夏とは言え、夜の海は冷える。
お茶の温かさが、胃袋に染み渡っていった。


ポツリポツリと小鯵(こあじ)が釣れていく。
「ポイント探しに手間取って、夕(ゆう)マズメには間に合わなかったが、朝マズメを狙えるな」
「そういや、前に桜ちゃんがボラ釣ったのって、朝マズメくらいだったね」
新郷はもう普通の態度に戻っていた。
いつもの彼に俺はホッとする。
「桜ちゃん、寒くない?俺から離れちゃダメだよ」
肩を抱いてくる新郷に
「ご飯を食べて、お茶を飲んだから大丈夫だ」
俺はそう答えるものの、彼の温もりが頼もしくてその腕の中から逃れる気にならなかった。

『最近の俺は、随分と恥ずかしい奴になってしまったな』
そんな自分の変化が照れくさくこそばゆい。
俺は幸せを感じながら、新郷と寄り添い合うのであった。


大当たりが来ないまま、時間だけが過ぎてゆく。
時計を見ると、午前2時になっていた。
『草木も眠る、丑三つ刻ってやつか』
そう考えると、急に寒気に襲われる。
ブルッと震えた俺に
「桜ちゃん寒い?もっとこっち来て、俺にくっついてて良いから」
新郷がそう声をかけてくれた。
「まだお茶が温かいかな、ちょっと1杯飲んでくる」
俺は竿から離れ、荷物置き場からポットを取り出した。
温(ぬる)くなっていたものの、まだ温かなお茶を飲むと少しは寒さがましになる。
空を仰ぐと雲が出てきたのか、先ほどまで見えていた星が見えなくなっていた。

不意に草むらが音を立てる。
俺はまた、悲鳴を上げそうになってしまった。
息を飲む俺の目に、先ほどの人影がボンヤリと浮かび上がってくる。
「忘れ物をしてしまって…」
同じ様な低い声で話しかけられた。
「浮きは無かったでしょうか…」
「浮き?見なかったけど、どんなタイプでしょう?」
俺は掠れる声で答えた。
「どんぐり浮きです…」
たとえ初心者向けのオーソドックスな浮きといえど、当たりを引いたことのある物であればその人にとってのラッキーアイテムに早変わりする。
それを忘れてしまったことに気が付いて、深夜であろうと探しに戻るのは普通のことに思われた。

「どの辺に置きましたかね?俺達も荷物を広げてしまったので紛れてないといいけど」
俺は振り返ると
「新郷、どんぐり浮きが落ちていたか気が付かなかったか?」
そう声をかけた。
しかし、声をかけた先に新郷の姿は無かった。
「新郷?」
海に落ちたのかと焦るが、足場に崩れた形跡はなく、何かが海に落ちる音も聞こえなかった。
「すいません、ちょっと連れの姿が見えなくて
 先にそちらを探させてください」
俺の言葉にその人は無反応で、俯いたままだった。

「助けて…」
焦る俺の耳に、更に焦らせるように少年と思われるか細い悲鳴が聞こえてきた。
「え?」
目を向けた先には白く頼りない細い指が、必死に崖にしがみついている。
『この人、子供連れだったのか?!』
俺は慌てて、その頼りない腕を掴み
「引き上げるのを手伝ってください」
そう怒鳴っていた。
しかし人影は微動だにせず佇んでいる。
「早く!あなたの子でしょう?」
再度怒鳴った俺に人影は、口元だけをニヤリと歪めた笑いを見せて
「いいえ」
と答えた。
それを見て、自分は何を掴んでいるのかとゾッとして思わず手を離そうとしたが、細い指はしっかりと俺の腕に絡みついていた。


気が遠くなりかけた俺の耳に
「桜ちゃん!桜ちゃん!」
新郷の悲鳴のような声が聞こえてきた。
「桜ちゃん、離さないで、しっかり捕まって!」
気が付くと、崖から落ちそうになっているのは俺の方で、新郷が俺の腕を掴んでいてくれた。
「え?」
自分の置かれている状況が理解できず、パニックになる。
「桜ちゃん、俺が守るからこっちに来て!」
力強い新郷の声に勇気をもらい、俺は何とか彼の手を借り崖を這い上がった。
「この辺、何だか嫌な気が充満してると思ってたんだ
 雑魚の分際で桜ちゃんに手を出そうなんて、甘いんだよ」
新郷は俺を抱きしめながら、草むらに向かって吠え立てた。
彼の怒声と共に、一筋の光が草むらを直撃したように見えたのは目の錯覚だったのだろうか。

呆然とする俺は星明かりと波の音に気が付き、先ほどまで自分は無音の闇の中にいたのだと気が付いた。
「桜ちゃん、大丈夫?たち悪いのに引っかかっちゃったね
 でも、俺が居るからもう大丈夫だよ」
新郷が安心させるように、俺の髪を撫でてくれる。
「子供…子供はいなかったのか?」
俺は妙にそのことが気になってきた。
「あの子は大丈夫、桜ちゃんに悪さしないから
 俺のこと怖いみたい、もうどっか行っちゃった」
新郷は優しく答えてくれる。

俺はその子の細い腕しか見ていないはずなのに、何故か野球帽を被っているように感じられた。
それは、弟の好きだった球団の物だ。
俺が犬に噛まれたので、弟も犬を怖がって嫌いになってしまった。
「透…?」
霊感など無い俺には確かめようがなかったが、あの細い腕が俺と新郷を結びつけてくれたのは間違いなかった。

「大丈夫、兄ちゃん1人じゃないんだ、家族がいっぱい増えたんだ」
俺は泣きながらそう呟いてみる。
そんな俺を、新郷はまた優しく撫でてくれた。


怖くはあったが始発の電車が動き始めるまで帰れないので、俺達はそのまま釣りを続けることにする。
「桜ちゃんって、案外タフだよね」
「新郷が守ってくれるんだから、大丈夫だろう
 せっかくの朝マズメを逃すのも、もったいないし」
少し呆れ顔の新郷に、俺は笑顔を見せる。

「新郷、ありがとう
 新郷が居てくれて、本当に幸せだ」
「うん、俺も桜ちゃんと居られて幸せ」

夜明けにはまだ早い時間、星明かりに照らされながら俺達は寄り添って釣り糸を垂らす。
新郷と共に過ごせる時間、それは何よりも貴いものだと俺は改めて気が付いた。

釣果は芳しくなかったが、俺にとっては大きな収穫のあった夜釣りであった。
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