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しっぽや(No.70~84)

雨の日の気だるく凪いだ海。
どこにもざわめきは感じられない。
『もっと、もっと広く』
僕は徐々に見渡す海を広げていった。
すると、かすかに何かが聞こえてくる気がした。
そちらの方に意識を集中すると、それは鼻歌のようであった。
『何だろう、聞いたことがある気がする…?』
それは遠い遠い記憶に眠る、あのお方の声。
あのお方が雨の日に、食器を洗いながら口ずさんでいた曲に似ていた。
あまりの懐かしさに、僕も思わず同じ曲を歌ってしまう。
雨の日に、こんなにも陽気な歌を歌える猫。
この鼻歌の気配こそがダービーだと確信し、僕はその気配に向かい足早に歩いていった。


住宅街を暫く行くと、そぼ降る雨をものともせず、尻尾をピンと立てて機嫌良く歩く猫を発見する。
恐ろしいことに、その猫は時折、わざと水たまりに入ってはジャバジャバと水を跳ね上げて歩いていた。
真っ白かったであろう体の毛色は、灰色になっている。
見せてもらった写真と同じ柄だとは、ぱっと見では判断付かなかった。
鼻歌の気配はまだ続いている。
『ダービーさん、ダービーさんでしょ』
僕が想念を送っても、彼は振り向きもせず歩き続けている。
僕があの曲の鼻歌を歌うと、やっと彼の足が止まりクルリと振り向いた。
『人?猫?』
いぶかしむ気配に
『僕は化生です、人になった猫です』
そう伝える。

『ふーん?それより良い歌だよな、オレッちその曲大好き
 ママが教えてくれたんだ
 さっきも聞こえたあの鼻歌、お前か』
再び歩き出した彼を追いかけて、僕もまた歩き出す。
『僕も好きです、雨の日に以前の飼い主がよく歌ってました』
『雨の歌だからな、晴れた日に歌っても趣っつーもんがない』
『…そうだったんですか』
あのお方が歌っていた歌の正体が判明し、僕は少し嬉しくなった。
『あれは「雨に唄えば」って曲だ
 「映画」ってのに使われた曲なんだと』
僕の反応に気を良くしたのか、ダービーさんの気配が先ほどより友好的になってきた。

『で、そのケショーとやら、オレッちに何か用か?
 オレッち、忙しい身の上なんだがな』
彼はまた水たまりに入り、バシャリと水をはねた。
『飼い主の方が心配していますよ、お家に帰りましょう』
僕の言葉に、ダービーさんの歩みが止まる。
『何だ、ママ、もう帰ってきたのか
 せっかくオレッちが迎えに行って誉めてもらおうと思ったのに、入れ違ったんだな
 タクシー使ったのか?どこの駅から帰ってきたんだろう』
彼は不思議そうな顔を見せた。
『ママ、旅行に行くって言ってたんだ
 いつもなら3、4回朝がくれば帰ってくるのに、もう7回も朝が来たんだぜ
 こんなに良い天気だ、きっと今日こそ帰ってくるだろうって駅まで行ったけど会えなくてな
 駅を間違えたかと移動中だったんだ
 そうかタクシーか、お土産買いすぎて荷物が多かったんだな』
一人で納得している彼に、僕は本当のことが言えなかった。

『お家で、旦那様がお待ちですよ
 奥様は、まだ帰られておりません…
 でも、奥様が帰ってきたとき、お家にダービーさんがいなかったら悲しむじゃないですか
 ダービーさんは、奥様が帰ってくるまで家から離れちゃダメなんです!』
僕の剣幕に驚いたのか
『え?まあ、オレッちママに愛されてるから居ないと泣かれるかも…
 じゃあ、帰ろうかな』
彼は弱気な気配になっていく。
『と言うかダービーさん!貴方そんなドロドロになって
 毛色がアスファルトの色と同化しちゃってるんですよ
 そのまま歩いてたら、車に轢(ひ)かれてしまいます!
 僕が責任もって送っていきますから!』
僕は気になっていたことをまくし立ててしまう。
それから傘を畳んで彼を抱き上げると、小走りで家に向かって移動した。
『ちょ、オレッち抱っこ嫌い
 ママにだって、あんまり抱っこさせたことないのにー』
もがく彼をしっかりと抱き抱えながら、僕はかまわず歩いていく。
彼は嫌がりながらも、けっして爪を立てようとはしなかった。


依頼人の家に戻りダービーさんを手渡すまで、僕は強引に彼を抱き続けていた。
チャイムを鳴らすと依頼人はすぐにドアを開けてくれた。
びしょ濡れの僕とダービーさんを見て目を丸くする。
「よく、ダービーを抱っこできましたね
 カミさんにだって、めったに抱っこさせてくれないのに
 流石、プロですなー」
感心しきりの依頼人に
「ダービーさんをお風呂に入れて洗ってあげてください
 ドロドロで男前が台無しです
 それから、本当のことを伝えてあげてください
 いつ退院するか伝えてもらえば、その日まで彼は家で待ってます
 今日は、奥様を探しに行って遠出してしまったんです」
僕はそう伝えた。
依頼人は驚いた顔になり、すぐに涙ぐんだ。
「そうか、すまなかったなダービー
 却って心配かけてしまってたのか」
依頼人の涙を見てばつが悪いと感じたのか、ダービーさんはムクレた顔をしながら僕の腕の中で大人しくなった。


ドロドロになったダービーさんを抱っこしていたので、僕の服もドロドロになっていた。
びしょ濡れで体が冷え切っていたのを見かねた依頼人が、僕もお風呂に入るよう勧めてくれた。
着替えは、息子さんが家に置いていった服を用意してくれる。
「サイズも合わないし、どうせこんなデザインは私には着れないから成功報酬のオマケにどうぞ」
その言葉に甘え、僕はありがたく乾いた服に着替えさせてもらった。
ダービーさんを心配してお昼ご飯を食べそびれていた依頼人と一緒に、僕も遅いランチをごちそうになる。
「カミさんが居ないと、店屋物やらコンビニの弁当ばかり食べるようになってしまって」
出前の温かい天ぷらうどんをすすりながら、依頼人が苦笑した。
奥様が居なくて寂しいのは、ダービーさんだけではないようだ。

『ダービーさん、これからは旦那様と一緒に奥様を待っていてくださいね』
今はもう真実を知らされた彼は、大人しく依頼人の側でカリカリを食べている。
『早く、太陽が出ると良いな』
ポツリと呟いた彼に
『雨の日が好きなのでは?』
僕は問いかけた。
『お日様があるから、雨も良いんだよ
 太陽はいつも側にあるだろ』
彼は長瀞と同じ様なことを言っていたが、僕には意味が分からなかった。

依頼人の家を辞した時は、夕方近くなっていた。
まだ、雨は降り止まない。
乗り換え案内で調べた時刻表では、事務所に着くのは夜になりそうだ。
今日は1件しか仕事をこなせなかったけど、自分1人で解決できた誇らしさを胸に僕はしっぽやに帰って行くのであった。


黒谷が待っていてくれるだろうと、僕は営業時間が過ぎている事務所に向かう。
しっぽやが入っているビルの2階の窓から明かりが見えるので、僕は少しホッとした気持ちになって階段を上っていった。
ドアの前に立つと、温かな気配が僕を包み込む。
驚きのあまり、僕はノックも忘れて慌ててドアを開けてしまった。

「ひろせ、お帰り
 大変だったんだって?ご苦労様」
そこには、僕に笑いかけてくれるタケシの姿があった。
その笑顔を見たとたん、僕の心は晴れ渡り温かな太陽を感じる。
僕は初めて、長瀞とダービーさんが言っていた『太陽』の意味を理解した。
たとえ嵐の中にいても、タケシは僕の太陽だ。
彼がいれば温かな光に包まれることが出来る。
僕の側には、いつだって太陽があったのだ。

「もう、営業時間は終わっているのに…」
僕がタケシに近づくと
「ひろせが帰ってこないのに、俺だけ帰れないよ
 無事な姿を見てから帰りたくて、残らせてもらったんだ
 良かった、怪我とかしてないね
 でも雨の中を歩いてたせいかな、体が冷えてる」
彼は僕の体を抱きしめてくれた。
飼い主に抱かれている幸せが、僕の心に押し寄せる。
彼の腕の中の温かさが心地よくて、僕はうっとりとなった。
ずっとこうして抱きしめていてほしかった。
僕が甘えるようにキスをすると、タケシもキスを返してくれる。
それで、今日の疲れが吹き飛んでいった。

「えーっと、報告書は明日で良いから、そろそろ帰らない?」
黒谷がコホンと咳払いしながら、そう告げる。
僕は黒谷が居ることに、やっと気が付いた。
「遅くまで残らせちゃって、ごめんなさい」
慌てて謝る僕に
「現場が遠かったから大変だったね、お疲れさま
 水が平気な猫の話、明日詳しく聞かせてよ
 まさかそんな猫種がいるなんて驚きだ
 最近は新しい猫や犬の種類が多くて、日々勉強だよね
 種類だけ言われても、判断に困ることがあるよ」
黒谷は笑顔を向けてくる。

「え?水が平気な猫なんているの?
 銀次なんて、俺がコボした麦茶がちょっとかかっただけで、大パニックなのに」
タケシが驚いた顔になった。
「ええ、ターキッシュバンと言う種類の半長毛猫がいるんです
 その方、鼻歌交じりで雨の中を歩いてました」
僕は機嫌良く歩くダービーさんを思い出し、笑ってしまう。
「『雨に唄えば』って、知ってますか?」
「聞いたことあるかも、ゲンちゃんが歌ってたやつかな
 ナガトと初めて会ったとき雨降ってたから、ちょっと雨の日が好きになったって言ってたんだ」
古い曲なのに、タケシが知っていてくれたことが嬉しくなる。
「僕も、雨の日が前より好きになりました
 そうだ、駅まで送りますよ
 タケシと雨の日の散歩を楽しみたいから」
僕が笑うと、タケシも笑顔になってくれた。

「忘れ物ない?じゃ、電気消して、鍵かけるよ」
黒谷の言葉で、僕たちは外に出た。
駅までのほんの短い時間であったが、僕はタケシとの散歩を満喫する。

降り続く雨をものともしない温かな太陽を感じながら、僕たちは並んで歩いて行くのであった。
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