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しっぽや(No.58~69)

俺はその時までキスなんてしたことがなかった。
間抜けなことに、目を瞑ったひろせのきれいな顔が徐々に近付いてくるのを、俺は目を見開いて凝視していた。
どころか、唇を重ねられた後も、俺はマジマジとひろせを見ていたのだ。
閉じられた目を縁取る長い睫、陶器のようにすべらかな肌、整った顔立ち、頬に触れる柔らかで長い髪。
俺の唇に触れる、ひろせの柔らかな唇の暖かさ。
落ち込んでいた俺の思考は、全て吹き飛んでしまった。

唇を離したひろせは優しく微笑んで
「タケぽんは素敵な人です」
と言ってくれた。
俺は頬が熱くなり鼓動が速まるのを感じる。
それを悟られないよう
「ありがと、ひろせも大人だね
 俺もそんな風に、さりげなく人を慰められるようになりたいや」
照れ笑いを浮かべながらそんな事を伝えた。
しかし胸の内では
『落ち着け俺!
 この人は失恋した哀れなガキを元気づけようとしてくれただけだ!
 深い意味はないんだよ、外国ではキスなんて挨拶だし!
 そうだよ、挨拶だよ!
 銀次とだって、鼻ツンとかするだろ、俺』
速まっていく鼓動を落ち着けようと、必死で自分に言い聞かせていた。

『あれ、でも、さっきひろせは俺のこと好きだって言ってた
 バレンタイン近いからって、手作りのチョコケーキくれて
 それって…、え?
 いやいや、何考えてんだ俺
 ひろせみたいにキレイな大人が、俺みたいなガキ、本気で相手してくれる訳ないじゃん
 同情的な?そんなだよ、うん』
気が付くと俺はナガトのことではなく、ひろせのことを考えていた。
 
「合格したら、何かご褒美を用意しないと」
ひろせのそんな言葉に、俺は思わず彼の唇を凝視してしまった。
『ご褒美って、また、キスしてくれるとか
 まさか…もっと先まで…』
自分の思考が際どくなっていくのを感じた俺は
「え?いや、そんな、悪いですよ」
慌ててそう否定した。
「頑張っている人を、応援させてください」
柔らかく微笑むひろせを見て、俺は反省する。

『そうだよな、「受験生」ってだけで応援したくなるモンなんだよな
 それなのに俺って、イヤらしいガキだ
 ナガトのこと好きなのに、1回キスしてもらったくらいでひろせのことヤらしい目で見て
 これだから中学生はヤりたい盛りみたいに言われるんだよ』
ちょっと落ち込んでしまったが、合格したらひろせはオリジナルのパウンドケーキを焼くと言ってくれた。
それだって、十分に嬉しいご褒美だ。
「美味しそう、楽しみにしてます」
俺は笑ってそう答えた。

しっぽやに就職したい、と焦る前にやらなければいけないことがあると教えられた気分だった。
自分のことだけじゃなく人のことを考えられる人間にならなきゃな、と再確認する。
ゲンちゃんを見ててそんな大人になりたいと思っていたはずなのに、最近の俺は煮詰まりすぎてて空回りしていた。
ひろせの優しさが、それを思い出させてくれた。

席を外していた日野先輩が戻ってきて、勉強再開となる。
俺はさっきより集中できている自分を感じていた。
「俺の時、どんな試験問題出たっけかなー
 もう忘れちゃった
 でもタケぽんなら、うちの高校大丈夫だと思うぜ
 俺でよかったらいつでも勉強に付き合うから、連絡くれよ
 ここの控え室使わせてもらえるよう、黒谷に頼んどく
 試験まで後ちょっとだもんな、頑張ろう」
日野先輩は笑ってそう言ってくれる。
「マンツーマンで教えてもらえるから、塾よりわかりやすいです
 帰ったら、今日教わったとこ復習しとこう
 絶対合格して、正式に日野先輩と荒木先輩の後輩になります!」
俺は鼻息も荒く宣言した。

その後、仕事で出ていた荒木先輩も戻ってきて、俺たちは連絡先を交換しあう。
「スマホ…まだ支給してもらってないんです
 長瀞の補佐をしている間は必要ないかと思って」
ひろせは残念そうな顔になった。
俺も残念だったけど
「じゃあさ、支給されたらこれ登録して
 良かったら電話かメールしてよ」
俺は破ったノートに電話番号とメールアドレスを書いて、それをひろせに手渡した。
こんな風に連絡先を誰かに教えるなんて初めてのことで、照れくさくなる。
「はい」
嬉しそうなひろせの笑顔に、子供の時、ナガトに電話番号を書き込んだ名刺を貰ったときの嬉しさが思い出された。

「今日はどうもありがとうございました!
 また、お願いします」
結局俺はその後、しっぽやの業務終了間際まで粘ってしまった。
ナガトが連れてきてくれた銀次入りケージを受け取り、帰り際にこっそり
「愚痴、聞いてくれてありがとう
 スッキリしました」
そうひろせに囁くと、彼はまた優しく微笑んでくれた。
そんなひろせの微笑みにドキドキしている自分に気が付いて
『俺って、浮気性なのかな…』
少し悩んでしまうのであった。


家に帰って夕飯を食べてから、今日教わったところを復習してみた。
日野先輩が居なくても、さっき解けなかったのと似たような問題を1人で解けた。
良い手応えを感じ、俺は遅くまで頑張ってしまった。
気が付くと日付が変わっている。
少し小腹が空いてきた俺は、早速ひろせに貰ったケーキを食べることにした。
寝ている家族を起こさないよう静かに台所に行って、ポットのお湯で紅茶を淹れる。
食べやすくラップにくるまれたそれを口にすると、疲れた体に甘みが染み渡っていく。
『美味しい…』
俺は幸せな気分に包まれて、思わず笑ってしまった。

一休みついで、とばかりに、俺は少しスマホをいじることにした。
『こんな夜中に猫の写真見てるんだから、俺って、健全だよな』
何となく自分に言い訳しながら、俺は長毛猫の写真を閲覧していく。
『チンチラシルバーの子猫、可愛い~
 こんなに小さいのに、いっちょ前にシルバーのラインが入ってる
 銀次が子猫の時より銀が濃いかな?
 へー、ソマリのルディって、深い毛色だなー
 お、ペルシャのキャリコ
 毛が長いだけで、三毛猫より豪華に感じるのは何故だ』
次々と写真を見ていると
『ひろせ?!』
俺は思わずその写真に目を奪われてしまった。
もちろんそこにはひろせの姿なんて無くて、長毛の猫の写真があるばかりだ。
その猫の気品に満ちた顔立ち、白とグレーのフワフワの毛が何故かひろせを想起させたのだ。

『ノルウェージャンフォレストキャット…』
俺はその描種を脳裏に刻み込み、今度はそれのみを検索してみた。
『へー、色んな毛色があるんだ
 単色じゃなく、虎柄と白とかもいる
 うわ、この子猫、お鼻も肉球もピンク』
色々な写真を見ていくが、やはりひろせの髪色のような白とグレーの毛色の猫が1番キレイに思われた。
どんな猫なのか気になった俺は、今度は特徴や性格を調べ始める。
『温厚だけどやんちゃな一面もある…
 うん、何か、ひろせってそんな感じ
 え?キスの好きな子もいる?!』
俺は思わずひろせの唇を思い出してしまった。

『だから、ひろせは猫じゃないだろ!
 何見てもひろせに見えるって、何なんだよ、俺は』
頭を振って自分の妄想を追い出そうとしても、ひろせの柔らかで優しい笑顔が頭から離れなかった。
『そういや俺、ナガトのこともチンチラシルバーだと思ったんだっけ
 これ、立派な中2病だよな
 ヤバい…、俺って相当痛い奴だ…』
自分で自分の思考に疲れてしまった俺は、その日はもう寝ることにした。
いそいそとベッドに入ってくる銀次を小脇に抱え、俺は試験までの日数を思い盛大なため息とともに眠りにつくのであった。



その後も、俺はちょくちょくしっぽやで勉強させてもらった。
勉強をみてもらえるのもありがたいが、高校内の雰囲気とかを教えてもらえるのも楽しみだった。
「購買のパンは、1年の時は口に出来ないと思っといた方が良いよ
 とにかく、倍率高くて
 購買あてにして弁当持ってこないと、昼飯食べそびれるからね
 俺、それで1回ひもじい思いしたんだ」
荒木先輩が、ため息を付いて肩をすくめて見せた。
「でも、あん時は俺がオニギリ1個わけてやったろ?
 弁当、4個は持ってこないと心許ないぜ
 早弁用2個、本弁当、放課後弁当な
 そだ、帰りに買い食いできる店も教えておいてやるか」
日野先輩が腕を組みながら、もっともらしく頷いてそう言った。

「朝練しなきゃ早弁2個もいらないだろ
 あ、でも、タケぽん運動部入るの?
 なら、いるのか?
 俺、どっか文化系のとこ入ろうと思ってたんだけど、悩んでるうちに入りそびれてさ
 ここでのバイト始めちゃったし、帰宅部のまま現在に至るって感じ
 うちの高校、そんなにやかましく『部活やれ』とか言われないから、ついね」
荒木先輩は照れた顔で頭をかく。
勉強の合間に、そんな雑談をするのが楽しかった。

「皆さん、お茶でも飲んで一息いれてください」
そしてもう1つのお楽しみが、ひろせの淹れてくれるミルクティーだった。
どうにもタイミングが悪く事務所にはナガトが居ないときの方が多かったけど、まだ独り立ちしていないひろせはいつも事務所に居て、お茶を淹れてくれるのだ。
手作りの焼き菓子を用意してくれることもよくあった。
「美味しく出来ていますか?」
少し心配そうな、それでいて期待するような顔でそう問いかけてくる。
「美味しい!お店で売ってるのみたい
 ひろせって凄いね」
俺が感心しながら言うと、ひろせは本当に嬉しそうな笑顔を見せた。
その笑顔が可愛くて、俺も幸せな気持ちになる。
ナガトの事で煮詰まっていた頃がうそのように、俺の心は晴れやかになっていった。

『ここの人たちみたいに、誰かに優しく出来る人間になりたいな』
俺はしっぽやに来るたびに、そう思わずにはいられなかった。
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