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しっぽや(No.44~57)

side〈HINO〉

これまでの俺の人生、良いことなんて全然無かった。
貧しい暮らしの中、自分の体と心を売らないと生きていくことが出来ない。
屈辱的な人生だった。
そんな俺が、初めて手に入れたものがある。

『飼い犬』

今まで犬なんて飼ったことの無かった俺には、無条件で俺を好きになってくれた犬が可愛くて仕方なかった。
そしてその犬は『恋人』と呼べるような存在でもある。
俺の体だけではなく俺自身を愛してくれた彼は、化生と呼ばれる人外のモノノケだった。


「黒谷、そろそろ和尚様がお帰りになる時間だ
 俺も帰らなきゃ…」
暖かな彼の腕の中から抜け出すのは耐え難い寂しさを伴ったが、俺は何とかそう言葉を発する。
彼の胸に顔を埋め
「また、会いに行くから」
自分自身に言い聞かせるように告げた。
「黒谷、黒谷、愛してる…」
この安らぎの場所から、屈辱の場に戻らなければいけない悔しさで涙がにじんでくる。



「黒谷…」
そう呟く自分の声で、フッと目が覚めた。
誰かに抱かれている感覚に思わずギクリとする。
『しまった、黒谷の名前を聞かれたかも』
それは、寺小姓として存在している俺にとって最も危惧すべき事である。
しかし、その心配は無用のものであった。
俺を抱きしめていてくれたのは黒谷だった。
彼はルームランプの微かな明かりの中、心配そうな顔で俺を見ていた。

「大丈夫ですか、日野?少しうなされていましたよ」
黒谷の言葉に俺はハッとする。
『日野?』
夢の残滓(ざんし)で混乱していた思考が現在に戻ってきた。
『そうだ俺は和銅ではない、もう寺や村の愛玩動物ではないのだ』
未だ目に残る涙を拭いながら
「ごめん、嫌な夢見たんだ
 起こしちゃったね」
俺はそう謝った。
ベッドサイドにあるデジタル時計の数字は、まだ夜明け前であることを告げていた。

「大丈夫、今日は休みだからいくらでも寝坊出来ます
 お疲れでしょう、もう少しお休みください」
黒谷は優しく俺の髪を撫でてくれる。
『そうだ、連休を利用して黒谷のとこに泊まりに来てたんだっけ…』
屈辱の場所に戻らなくて良いことに、俺は心からの安堵を感じていた。
「寝起きは夢と現実の境が曖昧で、混乱しますね」
そんな黒谷の言葉で、俺が過去世の夢を見ていた事を彼が察しているのが知れた。
「揚げたてのメンチを買ってきて、さあ食べよう!という時に起きてしまったときは、思わずキッチンに確認に行ってしまいましたよ」
少しおどけてそんなことを言う彼が愛しくて、夢の中の嫌な感情が遠のいていった。

「黒谷…俺のこと待っててくれて、ありがと」
彼を抱きしめる腕に力を込めると、黒谷もしっかりと抱きしめ返してくれた。
「戻ってきてくださって、ありがとうございます」
少し震える声で言う黒谷が、とても健気だと感じた。
しかし、黒谷が慕っているのは『日野』である俺なのか『和銅』なのか胸の奥の方でモヤモヤとする感情が生まれていた。
自分自身のことでありながら、俺は『和銅』に嫉妬していたのだ。
化生が以前の飼い主を慕う強さを、俺は嫌と言うほど知っている。
それを利用して、俺は白久と関係をもってしまった。
自分が化生の飼い主になって初めて、あの時の荒木の不安や悲しみがわかったのだ。
黒谷の心の中がどれほど『和銅』で占められているか、考えるのが怖かった。

「黒谷」
軽く唇を合わせると、彼はそれに応じてくれる。
「ん…」
舌を絡め、より深く黒谷の唇を貪った。
「日野…」
彼に名前を囁かれるのが心地よく、『和銅』に対して優越感を持ってしまう。
「黒谷、もっと呼んで…
 もっと、もっと、俺のこと呼んで」
『和銅』ではなく、『日野』として愛されたかった。
「日野、日野、お慕いしています」
黒谷は唇を合わせながら、何度も俺の名前を呼んでくれる。
寝る前にしてもらっていたが、俺はまた黒谷を感じたくなっていた。
俺のものも黒谷のものも、とっくに激しく反応している。

「して…」
荒い息の元そう懇願すると、彼は体勢を入れ替えた。
俺を見つめる彼の瞳には、俺の姿だけが映っていた。
「日野、誰よりも愛しい、僕の飼い主」
黒谷の唇が体中を移動する。
自分の体の全てが彼のものである満足感に興奮が増していく。
何度も激しく繋がりあい、再び眠りにつく頃には空が白々と明けかけていた。

『今日も、ずっと一緒に居られるんだ』
昨夜から泊まりに来ていた俺は、その事に安らぎを感じていた。
時々泊まりに来ていたものの、時間に追われながらの逢瀬は以前の和銅と黒谷を思い起こさせて切ない気分にさせられたのだ。
「冬休みになったら、また…ゆっくり…泊まりに来るから…」
夢うつつで言う俺に
「はい、いつまでもお待ちしております」
黒谷の優しい返事が答える。
『俺って、黒谷を待たせてばっかりだな』
そんなチクリとする痛みと共に、俺は意識を手放していった。




次に目が覚めたとき、部屋の中はかなり明るくなっていた。
カーテン越しにも既に日が高いことが伺える。
黒谷は愛おしそうに俺の顔を見つめていてくれた。
「おはよ、盛大に寝坊しちゃったね」
俺が舌を出すと
「おはようございます
 今日は休みです、ゆっくりしましょう」
黒谷は優しい笑みを浮かべる。
幸せな朝に俺の心は夜中の不安を忘れ、暖かい気持ちで満たされていった。
俺は黒谷と唇を合わせると
「おはようのキス」
そう、エヘヘッと笑ってみせた。
黒谷もキスを返してくれて幸せそうに微笑んだ。

デジタル時計は、10:15と表示されている。
「うーん、朝定食べに行こうと思ってたけど、ビミョーな時間だな」
考え込む俺に
「冷凍庫に食パンがありますので、とりあえずそれを召し上がりますか?
 手作りのリンゴジャムがまだ残っています
 ツナサラダ、ハムエッグ、ウインナーも作りましょう
 ヨーグルトもありますよ」
黒谷がそう提案してくれる。
「うん、黒谷が作ってくれるご飯、食べたい」
そう頼むと、彼は嬉しそうに頷いてくれた。

それから2人でシャワーを浴び、手分けしてご飯の用意をする。
と言っても、俺はパンを焼いたぐらいで後は黒谷が作ってくれた。
それでも、俺が焼いたパンにマーガリンとジャムを塗って渡すと
「日野の手作りですね」
黒谷は笑顔で受け取ってくれた。

俺達は食事をしながら今日の事を話し合った。
「本日は何処に行きますか?
 日野の行きたいところ、何処にでもお供しますよ」
黒谷に尋ねられ、俺は考え込む。
昨日、荒木から来たメールが気になっていたのだ。

『今日は秩父診療所に行ってきた。
 カズ先生って、一途な感じで良い人だったよ
 あの人になら、安心して化生を診てもらえると思う
 機会があれば、お前も一度は挨拶に行っといた方が良いぜ
 でも、行くなら休診日に
 他の患者さんにあんまり見られない方がいいからさ
 あそこ、医者の数を増やしてからは、休診日は日曜日だけなんだって
 診療所だけど、頑張ってる感じだった
 じゃ、明日は黒谷と楽しんでこいな!』

今日は祝日だけど月曜日だ。
秩父診療所には行ってみたいが、無理そうであった。
せっかく黒谷と出かけられるのだから単なる買い物などではなく、有意義に過ごせる場所に行きたかった。
しかしどうにも、『これ!』と言った場所が思い浮かばない。
しばらく考え込んでいたが、俺の答えを待っている黒谷の顔を見て思いついた。

「黒谷は?黒谷はどこか行きたいとこはないの?
 俺も黒谷の行きたいとこ、付き合うよ
 前に荒木が、白久にファミレスの入り方教えてあげたって言ってたし
 俺で教えてあげられる店、あるかな?
 高そうな店とかは無理だけどさ」
俺も、黒谷のために何かしてあげたかった。

「え?僕の行きたい所ですか?」
黒谷は戸惑った顔を向けてくる。
しかし、その戸惑いの中に期待が込められている事に気が付いた。
「あると言えばありますが…
 でも…、急すぎますし…」
モジモジとする黒谷が可愛くて、俺はつい笑ってしまう。
日頃しっぽやの所長として、所長のイスで悠然と構えている彼の姿とはほど遠かった。
「遠いとこ?今からだと間に合わない?」
促すように問いかけると彼は首を振る。
「いえ、近い場所です、近いのですが…」
黒谷はまだ言葉を濁して迷っている風であった。

「俺と一緒だと行きにくいとこ?」
少し意地悪く聞くと
「いえ、日野と一緒でなければ行けないところです」
黒谷は慌ててそう言った。
それから観念したように
「あの…ご迷惑でなければ、日野のお家に行ってみたいのです」
黒谷は小さな声で答える。
それは思いもよらなかった場所なので
「…俺ん家?」
呆然と呟いてしまった。

「シロは荒木の家に何度も行ったことがあって、お部屋にも入れてもらっているし、お父様に挨拶もしています
 …それが、ちょっと羨ましくて…」
黒谷は俯いて言い訳のようにそんなことを言っていた。
俺が荒木を羨ましいと思うように、黒谷も白久のことを羨ましがっているとわかると、彼のことが身近に感じられた。
「僕も、日野がどんな所で暮らしているか知りたいな、って…
 保護者の方にも、きちんと挨拶したいし」
伺いをたてるように俺の顔を見てくる黒谷に
「婆ちゃん、今日はずっと家にいるって言ってたな
 母さんは夕方には仕事から帰ってくるから、夜なら2人とも家にいるよ」
俺は笑顔で答えてみせた。

「どうせ来るなら、うちで夕飯食べてってよ!
 婆ちゃんの料理美味しいんだ
 お客さん連れてくって連絡しとけば、腕振るってくれるよ」
「急に押し掛けては、ご迷惑なのでは…」
黒谷は慌てた表情を向けてくる。
「俺も、婆ちゃんに黒谷のこと紹介して『格好いい上司だ』って自慢したい
 めかし込んで行ってね」
俺の言葉に、黒谷は頬を紅潮させて力強く頷いた。
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