しっぽや(No.44~57)
『何かこの医学書、ずいぶん専門的だな』
家にある家庭の医学事典などより立派で、何冊も揃っているそれを手に取ってみた。
パラパラとめくると赤線が引いてあったり、付箋が張ってあったり、書き込みがなされている。
古めかしい言葉が多く使われているので発行年を確認すると、戦前のものであった。
達筆な文字で『秩父 貴弘』と署名がしてある。
『こんな専門書、古本屋とかで買えるの?』
そんな疑問が浮かんでしまった。
「いかがなさいましたか?」
白久の声にハッとして振り向くと、暖め直したおでんの鍋を持った白久が部屋に戻ってきていた。
「え、いや、白久ってこんな難しい本読むんだね
ずいぶん古い本だけど、古本屋で買ったの?」
そう聞くと
「そちらは譲り受けたものです
新しい物を買うから不要になったと言われたので
今となっては『形見』のような物ですね」
白久は少し懐かしそうな顔になって答えた。
「ここに書いてある『秩父』って人の?」
俺は、その人と白久の関係が気になってしょうがなかった。
「以前、消滅した化生の名前を教えたことがありましたね
秩父先生はその化生、親鼻の飼い主だったのですよ」
白久の言葉に、俺は息を飲んだ。
「とても良いお医者様で、いつも私たちの健康を気にかけてくださってました
親鼻は秩父先生に飼っていただけて本当に幸せそうで、飼い主のいなかった私に、あの2人の姿は羨ましかったものです
今なら親鼻と、飼い主のいる喜ばしさを共有できたのですけどね」
白久は寂しそうに微笑んだ。
その後、食事をしながら白久は親鼻と秩父先生の話を聞かせてくれた。
「そんな人が居てくれたんだ」
今も白久が健康でいられるのはその人のおかげなんだと、俺は『秩父先生』に感謝の念がわいてきた。
「薬箱の中身の選択も、応急手当の仕方も教えてくださったので、私たちは病院に行かなくて済んでいるのです
幸い、今まで大きな事故にあった化生はいませんから
年1回、秩父診療所に健康診断に行くくらいですかね」
食後のお茶を飲みながら、白久はそう教えてくれた。
「でも、秩父先生って亡くなったんだよね
その甥っ子のお医者さんって、化生の飼い主なの?」
俺は少し不安になって聞いてみた。
「カズ先生は化生の飼い主ではありませんが、親鼻と長く接していたせいか、私たちが人間とは違うということを察しているようです
それでも、私たちを気味悪がる訳でなく、健康でいられるよう気を配ってくださいます
親鼻に頼まれた、自分にしかできない仕事だと
カズ先生は、親鼻のことが好きだったようですね」
白久の言葉に、俺はドキリとする。
飼い主がいる化生に想いを寄せても、それが成就する確率は0だろう。
いや、0であって欲しいと思うのは、俺が化生の飼い主だからだろうか。
俺はその『カズ先生』なる人が、どんな人物なのか気になってきた。
「荒木、明日はどちらへ参りましょうか?
荒木の行きたいところ、どこへでもお供しますよ」
白久にそう尋ねられた俺は
「秩父診療所に行ってみたい」
咄嗟にそう答えてしまった。
「あ、いや、場所とか知っておけば、白久に何かあったとき安心かなー、って」
言い訳するように言葉を続ける俺に
「明日は診療所の休診日なので、先生のご都合が付けば大丈夫だと思います
一応、他の患者さんと会わないよう、私たちは休診日に特別に入れていただいてるのです」
白久は頷いてくれた。
白久が電話すると『来ても良い』という返事をもらえたので、俺達は久しぶりのデートで診療所に行くことになった。
眠りにつく前に再び白久に抱いてもらい、彼と居られる幸せを感じながら俺は意識を手放していった。
翌日、朝食をとった後、俺達は秩父診療所に向かう。
そこは電車を乗り継いで1時間ほど移動した住宅街の中にあっった。
『診療所』なので、すごくこじんまりした場所を予想していたのだが、2階建てのけっこう立派な建物でビックリしてしまう。
『本日休診日』のプレートがかかっていたが、白久はかまわずにドアを開けて入っていった。
鍵は予め開けておいてくれたようだ。
俺も後に続いて入ると白久は手慣れた様子でドアに鍵をかけ、診察室のドアをノックする。
「どうぞ」
中から落ち着いた感じの男性の声が聞こえてきた。
白久に続いて診察室に入ると、イスに座っている白衣の男の人が目に入る。
初老、と言った感じで、口ひげをはやし、サングラスというか色の付いた眼鏡をかけている。
白髪の多い髪はきちんと撫でつけられていた。
「おや、こんにちは、ボクは秩父和弘と言います
君もカズ先生と呼んでください」
彼は俺を見て少し驚いた顔で挨拶する。
「こんにちは、あの、野上荒木と言います
すいません、休診日に押し掛けちゃって」
あわてて挨拶を返すと
「良いんだよ、休診日の方が気兼ねなく診れるからね」
カズ先生は朗らかに笑ってくれた。
「白久が誰かを連れてくるなんてねえ
ボクが生きてるうちは、そんなこと無いと思っていたんだが
やっぱり、長生きしてみるもんだ」
カズ先生にそう言われ、白久は困った顔になる。
「君は彼に選ばれたんだね、羨ましい限りだよ」
俺を見てカズ先生は微笑んだ。
化生のことをどこまで知っているのか判断がつかず、俺も困った顔になってしまう。
オロオロする俺達を前に
「ほらほら、突っ立てないで腰掛けて
お茶でも煎れようか?
若い子は炭酸が良いかな?」
カズ先生は診察室の丸いイスを勧めてきた。
俺と白久は顔を見合わせて、そのイスに腰掛ける。
「あの、白久が昨日火傷しちゃって…それを診てもらいたいんです」
俺がオズオズと切り出すと
「何?診察しにきたの?
早く言いなさい、ほら、患部を見せて」
カズ先生は急に医者の顔になってキビキビと命令した。
白久の腕の包帯を外し火傷した部分を診ると
「うん、完璧な応急処置だ、ケロイドも残らないだろう
どれ、うちでも薬を塗っとくか」
カズ先生は薬を塗って新しいガーゼを当て、包帯を巻いてくれる。
「ついでに検診もしていきなさい」
手当を終えると先生は白久の目の下や口の中を診た。
胸をはだけさせ聴診器を当てると悪戯っぽい顔になって
「荒木君だっけ、君、ちょっと白久の頭を撫でてみて」
そんなことを言い出した。
躊躇いながら白久の頭を撫でると
「やっぱり鼓動が早くなる、ボクが撫でても何ともなかったのに
荒木君は白久の『特別』なんだね」
カズ先生はしみじみとそう言った。
お医者さんに『白久の特別』なんてお墨付きをもらうとは思っていなかったので、俺は何だか面はゆくなる。
「あの、よろしければ荒木のことも診てもらえないでしょうか」
衣服を整えながら、白久がそう切り出すと
「長瀞と同じ事言うんだね
あの子、ゲンを連れてきたとき『彼の主治医になってくれないか』なんて言ってさ
彼の病気の再発を心配してるんだ
君達は本当に、選んだ相手の事が大切なんだね」
カズ先生は優しく微笑んだ。
「荒木君は大きな病歴はあるの?
あ、こっち向いて座ってね」
そう聞かれ俺は首を振るとカズ先生と向かい合う形で座り、白久と同じ検査を受ける。
「うん、健康だ!何なら、血液検査も受けていくかい?」
その問いに、俺は慌てて首を振った。
「何だ、中学生にもなって血を抜かれるのは怖いのか?」
クスクス笑う先生に
「あの、俺、高校生です…」
俺は力なく訴えた。
「こりゃ失礼、今年中学に上がった孫と同じくらいかと思ったよ」
先生の言葉に、俺はガックリと肩を落とした。
その後、先生がお茶を煎れてくれて、沢山のお茶菓子を出してくれた。
「うちはね、お茶の時間を大事にしてるんだ
忙しくても、10分はリラックスしながら飲食して気持ちを切り替えよう、って
救急病院じゃないから、急患来ないしさ
実際、10分以上お茶しちゃってることも多いんだけどね
でも、現場の情報交換の場でもあるんだよ」
先生はクッキーをつまんでそう言った。
「ハナちゃんと一緒にお茶を飲める時間は、ボクには宝物だった
たとえ、ハナちゃんがタカ叔父さんしか見ていなくともね」
俺を見ながら言う先生の瞳は、少し寂しそうだった。
俺は何と言っていいのかわからず、黙るしかなかった。
「子供の頃からハナちゃんには可愛がってもらったけど…
彼は自分が選んだ、ただ1人の者以外を愛さなかった
ボクはどうしても、そう言う風にはハナちゃんに振り向いてもらえなかったよ」
自虐的な先生の言葉に、俺は俯いた。
先生は俺達に起こった夏休みの事件を知らない。
どうしようもなく飼い主を求める、化生の心を知らないのだ。
「ボクとハナちゃんの話は聞いてるんだろ?
選ばれた君が、そんな不安そうな顔しないの」
先生はポンポンと優しく俺の頭を叩く。
「荒木、私には荒木が1番愛おしい存在です
荒木だけが、唯一のお方です」
白久が俺の手をギュッと握ってきた。
「白久…」
その熱い眼差しに、俺の不安が和らいでいった。
あの試練をくぐり抜けた俺達の絆は強固なものになったのだ、と改めて確信する。
熱く見つめ合う俺達に
「あー、何だね、君達はハナちゃんに振られたボクに、見せつけに来たのかね?」
咳払いをしながら先生はそう言った。
「あ、いや、あの、すいません」
「いえ、けっしてそのようなことでは…」
ハッとしてオロオロする俺達を前に、先生はまた朗らかに笑った。
「先生みたいな人が、彼らを診てくれるお医者さんで良かったです
これからもよろしくお願いします」
俺は心から先生に頭を下げた。
化生を好きになってくれた人になら、安心して彼らを任せられると、そう感じたのだ。
「それは光栄だね、これはハナちゃんがボクに託してくれた仕事だ
誰かに譲る気はないよ」
先生は誇らかに言った後、ふと表情を曇らせた。
「ただ、ボクも歳をとってきたからね
亡くなったタカ叔父さんの年齢を、とっくに越えちゃったよ」
そう言ってため息を付く。
家にある家庭の医学事典などより立派で、何冊も揃っているそれを手に取ってみた。
パラパラとめくると赤線が引いてあったり、付箋が張ってあったり、書き込みがなされている。
古めかしい言葉が多く使われているので発行年を確認すると、戦前のものであった。
達筆な文字で『秩父 貴弘』と署名がしてある。
『こんな専門書、古本屋とかで買えるの?』
そんな疑問が浮かんでしまった。
「いかがなさいましたか?」
白久の声にハッとして振り向くと、暖め直したおでんの鍋を持った白久が部屋に戻ってきていた。
「え、いや、白久ってこんな難しい本読むんだね
ずいぶん古い本だけど、古本屋で買ったの?」
そう聞くと
「そちらは譲り受けたものです
新しい物を買うから不要になったと言われたので
今となっては『形見』のような物ですね」
白久は少し懐かしそうな顔になって答えた。
「ここに書いてある『秩父』って人の?」
俺は、その人と白久の関係が気になってしょうがなかった。
「以前、消滅した化生の名前を教えたことがありましたね
秩父先生はその化生、親鼻の飼い主だったのですよ」
白久の言葉に、俺は息を飲んだ。
「とても良いお医者様で、いつも私たちの健康を気にかけてくださってました
親鼻は秩父先生に飼っていただけて本当に幸せそうで、飼い主のいなかった私に、あの2人の姿は羨ましかったものです
今なら親鼻と、飼い主のいる喜ばしさを共有できたのですけどね」
白久は寂しそうに微笑んだ。
その後、食事をしながら白久は親鼻と秩父先生の話を聞かせてくれた。
「そんな人が居てくれたんだ」
今も白久が健康でいられるのはその人のおかげなんだと、俺は『秩父先生』に感謝の念がわいてきた。
「薬箱の中身の選択も、応急手当の仕方も教えてくださったので、私たちは病院に行かなくて済んでいるのです
幸い、今まで大きな事故にあった化生はいませんから
年1回、秩父診療所に健康診断に行くくらいですかね」
食後のお茶を飲みながら、白久はそう教えてくれた。
「でも、秩父先生って亡くなったんだよね
その甥っ子のお医者さんって、化生の飼い主なの?」
俺は少し不安になって聞いてみた。
「カズ先生は化生の飼い主ではありませんが、親鼻と長く接していたせいか、私たちが人間とは違うということを察しているようです
それでも、私たちを気味悪がる訳でなく、健康でいられるよう気を配ってくださいます
親鼻に頼まれた、自分にしかできない仕事だと
カズ先生は、親鼻のことが好きだったようですね」
白久の言葉に、俺はドキリとする。
飼い主がいる化生に想いを寄せても、それが成就する確率は0だろう。
いや、0であって欲しいと思うのは、俺が化生の飼い主だからだろうか。
俺はその『カズ先生』なる人が、どんな人物なのか気になってきた。
「荒木、明日はどちらへ参りましょうか?
荒木の行きたいところ、どこへでもお供しますよ」
白久にそう尋ねられた俺は
「秩父診療所に行ってみたい」
咄嗟にそう答えてしまった。
「あ、いや、場所とか知っておけば、白久に何かあったとき安心かなー、って」
言い訳するように言葉を続ける俺に
「明日は診療所の休診日なので、先生のご都合が付けば大丈夫だと思います
一応、他の患者さんと会わないよう、私たちは休診日に特別に入れていただいてるのです」
白久は頷いてくれた。
白久が電話すると『来ても良い』という返事をもらえたので、俺達は久しぶりのデートで診療所に行くことになった。
眠りにつく前に再び白久に抱いてもらい、彼と居られる幸せを感じながら俺は意識を手放していった。
翌日、朝食をとった後、俺達は秩父診療所に向かう。
そこは電車を乗り継いで1時間ほど移動した住宅街の中にあっった。
『診療所』なので、すごくこじんまりした場所を予想していたのだが、2階建てのけっこう立派な建物でビックリしてしまう。
『本日休診日』のプレートがかかっていたが、白久はかまわずにドアを開けて入っていった。
鍵は予め開けておいてくれたようだ。
俺も後に続いて入ると白久は手慣れた様子でドアに鍵をかけ、診察室のドアをノックする。
「どうぞ」
中から落ち着いた感じの男性の声が聞こえてきた。
白久に続いて診察室に入ると、イスに座っている白衣の男の人が目に入る。
初老、と言った感じで、口ひげをはやし、サングラスというか色の付いた眼鏡をかけている。
白髪の多い髪はきちんと撫でつけられていた。
「おや、こんにちは、ボクは秩父和弘と言います
君もカズ先生と呼んでください」
彼は俺を見て少し驚いた顔で挨拶する。
「こんにちは、あの、野上荒木と言います
すいません、休診日に押し掛けちゃって」
あわてて挨拶を返すと
「良いんだよ、休診日の方が気兼ねなく診れるからね」
カズ先生は朗らかに笑ってくれた。
「白久が誰かを連れてくるなんてねえ
ボクが生きてるうちは、そんなこと無いと思っていたんだが
やっぱり、長生きしてみるもんだ」
カズ先生にそう言われ、白久は困った顔になる。
「君は彼に選ばれたんだね、羨ましい限りだよ」
俺を見てカズ先生は微笑んだ。
化生のことをどこまで知っているのか判断がつかず、俺も困った顔になってしまう。
オロオロする俺達を前に
「ほらほら、突っ立てないで腰掛けて
お茶でも煎れようか?
若い子は炭酸が良いかな?」
カズ先生は診察室の丸いイスを勧めてきた。
俺と白久は顔を見合わせて、そのイスに腰掛ける。
「あの、白久が昨日火傷しちゃって…それを診てもらいたいんです」
俺がオズオズと切り出すと
「何?診察しにきたの?
早く言いなさい、ほら、患部を見せて」
カズ先生は急に医者の顔になってキビキビと命令した。
白久の腕の包帯を外し火傷した部分を診ると
「うん、完璧な応急処置だ、ケロイドも残らないだろう
どれ、うちでも薬を塗っとくか」
カズ先生は薬を塗って新しいガーゼを当て、包帯を巻いてくれる。
「ついでに検診もしていきなさい」
手当を終えると先生は白久の目の下や口の中を診た。
胸をはだけさせ聴診器を当てると悪戯っぽい顔になって
「荒木君だっけ、君、ちょっと白久の頭を撫でてみて」
そんなことを言い出した。
躊躇いながら白久の頭を撫でると
「やっぱり鼓動が早くなる、ボクが撫でても何ともなかったのに
荒木君は白久の『特別』なんだね」
カズ先生はしみじみとそう言った。
お医者さんに『白久の特別』なんてお墨付きをもらうとは思っていなかったので、俺は何だか面はゆくなる。
「あの、よろしければ荒木のことも診てもらえないでしょうか」
衣服を整えながら、白久がそう切り出すと
「長瀞と同じ事言うんだね
あの子、ゲンを連れてきたとき『彼の主治医になってくれないか』なんて言ってさ
彼の病気の再発を心配してるんだ
君達は本当に、選んだ相手の事が大切なんだね」
カズ先生は優しく微笑んだ。
「荒木君は大きな病歴はあるの?
あ、こっち向いて座ってね」
そう聞かれ俺は首を振るとカズ先生と向かい合う形で座り、白久と同じ検査を受ける。
「うん、健康だ!何なら、血液検査も受けていくかい?」
その問いに、俺は慌てて首を振った。
「何だ、中学生にもなって血を抜かれるのは怖いのか?」
クスクス笑う先生に
「あの、俺、高校生です…」
俺は力なく訴えた。
「こりゃ失礼、今年中学に上がった孫と同じくらいかと思ったよ」
先生の言葉に、俺はガックリと肩を落とした。
その後、先生がお茶を煎れてくれて、沢山のお茶菓子を出してくれた。
「うちはね、お茶の時間を大事にしてるんだ
忙しくても、10分はリラックスしながら飲食して気持ちを切り替えよう、って
救急病院じゃないから、急患来ないしさ
実際、10分以上お茶しちゃってることも多いんだけどね
でも、現場の情報交換の場でもあるんだよ」
先生はクッキーをつまんでそう言った。
「ハナちゃんと一緒にお茶を飲める時間は、ボクには宝物だった
たとえ、ハナちゃんがタカ叔父さんしか見ていなくともね」
俺を見ながら言う先生の瞳は、少し寂しそうだった。
俺は何と言っていいのかわからず、黙るしかなかった。
「子供の頃からハナちゃんには可愛がってもらったけど…
彼は自分が選んだ、ただ1人の者以外を愛さなかった
ボクはどうしても、そう言う風にはハナちゃんに振り向いてもらえなかったよ」
自虐的な先生の言葉に、俺は俯いた。
先生は俺達に起こった夏休みの事件を知らない。
どうしようもなく飼い主を求める、化生の心を知らないのだ。
「ボクとハナちゃんの話は聞いてるんだろ?
選ばれた君が、そんな不安そうな顔しないの」
先生はポンポンと優しく俺の頭を叩く。
「荒木、私には荒木が1番愛おしい存在です
荒木だけが、唯一のお方です」
白久が俺の手をギュッと握ってきた。
「白久…」
その熱い眼差しに、俺の不安が和らいでいった。
あの試練をくぐり抜けた俺達の絆は強固なものになったのだ、と改めて確信する。
熱く見つめ合う俺達に
「あー、何だね、君達はハナちゃんに振られたボクに、見せつけに来たのかね?」
咳払いをしながら先生はそう言った。
「あ、いや、あの、すいません」
「いえ、けっしてそのようなことでは…」
ハッとしてオロオロする俺達を前に、先生はまた朗らかに笑った。
「先生みたいな人が、彼らを診てくれるお医者さんで良かったです
これからもよろしくお願いします」
俺は心から先生に頭を下げた。
化生を好きになってくれた人になら、安心して彼らを任せられると、そう感じたのだ。
「それは光栄だね、これはハナちゃんがボクに託してくれた仕事だ
誰かに譲る気はないよ」
先生は誇らかに言った後、ふと表情を曇らせた。
「ただ、ボクも歳をとってきたからね
亡くなったタカ叔父さんの年齢を、とっくに越えちゃったよ」
そう言ってため息を付く。