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しっぽや(No.44~57)

子犬であった私が籠に入れられ列車に乗せられたのは、明治と呼ばれた時代が始まり暫く経った、まだ寒い時期のこと。
急に親兄弟から引き離され、私は籠の中でずっと震えていた。
寒くて怖くてたまらなかった。
自分はこの先どうなってしまうのだろうと不安に怯えていた。
列車から降ろされても籠の蓋が開くことはなく、どれくらい長い時間、籠の中に居たのかわからない。
気が付くと、人の匂いより緑の匂いが色濃い場所に出たが、籠の中の私には場所の見当など全くつかなかった。

「お父様、やっと来たのね」
鈴を転がすような可愛らしい女の子の声が聞こえる。
「うむ、可愛い撫子(なでしこ)の10歳の誕生日プレゼントだよ」
威厳に満ちた男の声も聞こえた。
「開けてみてもよろしいかしら」
待ちきれない、と言った感じの女の子の声に
「急に噛みついたりせんだろうな」
厳しい男の声が詰問する。
「へえ、大人しい子犬を選んできましたから、大丈夫です」
私の入った籠を移動させてきた男が、卑屈な感じで答えた。
籠の上部に隙間が出来たが、怯えた私は縮こまってしまった。

「何て愛らしい子犬なのでしょう!
 お父様、ありがとうございます
 うんと可愛がりますわ」
完全に開いた籠の上部に、赤いリボンが似合っている、髪の長い女の子の笑顔が覗く。
彼女は私を抱き上げ、籠から出してくれた。
しかし、小さな彼女に私は重かったらしく、少しよろけてしまう。
父親らしき男が彼女を支えようとして私を見るや
「おい!白い子犬を、と言ったはずだぞ
 これは黒白の斑じゃないか」
不機嫌な声を張り上げた。
「あ、あの、大人しい雄犬を、とだけ聞いておりまして」
私を連れてきた男がしどろもどろに答えると
「大人しい白い雌犬、と注文したのだ
 代えてこい!」
父親は居丈高に怒鳴る。
私は、自分が歓迎されていない気配に、ますます縮こまってしまった。

「お父様、私、この子犬がとっても気に入りましたの
 代えてしまうなんてダメです」
女の子が私をしっかりと抱きしめながら、不満そうな声を出す。
「しかし、撫子…
 雄犬は獰猛だし、こんな斑の汚い色では」
父親の言葉にかまわず
「こうすれば、うんと可愛くなりますわ」
彼女は自分のリボンを外し、私の首に巻いてくれた。
「赤が似合うのね、とても華やかよ
 そうだ、名前は『華(はな)』にしましょう
 よろしくね、華ちゃん
 私たち、仲良くできるわよね」
私の頭を優しく撫でてくれる温かい手の持ち主。
私はこのとき、彼女を一生お守りしようと胸に誓ったのだ。
これが、私とあのお方、撫子お嬢様との出会いである。
私のご主人様は、『華族』と呼ばれていた方々であった。


旦那様は、私を飼うことを渋々ながら了承してくれた。
彼の機嫌を損ねると、この家を追い出されてしまうと思った私は、彼の言葉にも忠実に従った。
撫子お嬢様を引っ張ったりしないよう散歩の際は常に気を配り、呼ばれたらすぐに駆け戻るよう努めていた。
屋敷には複数の使用人がいたが、私はすぐに彼らの匂いを覚え、それ以外の人間が近づくのを吠えて知らせるようになる。
屋敷に入り込もうとした怪しい人間を追い払ってから旦那様も私を番犬と認め、可愛がってくれるようになった。

私は大きなお屋敷の中や広大な庭を、自由に歩き回る特権を手に入れていた。
もちろん、庭からお屋敷に戻る際は、使用人に足の泥を落としてもらうのを忘れなかった。
週に1度風呂に入れてもらった後は、特別にお嬢様のお部屋で寝ることを許された。
「お母様が生きてらっしゃったら、きっと華ちゃんのこと気に入ったと思うわ
 お母様も、犬がお好きでらしたのよ
 私、弟が欲しかったの
 華ちゃんは、私の可愛い弟だわ」
ベッドの中からお嬢様が語りかけてくれる声に耳を傾けながら眠りに落ちるのは、私にとって至福の時であった。


大きなテーブルのある食堂で、お嬢様と旦那様がお食事をなさるのを見守るのも、私の仕事である。
良い匂いの料理に心引かれるが、慌てなくてもこの後必ず、お嬢様がご飯を用意してくださるので、私は大人しく座って待っていた。
「ね、お父様、華ちゃんは本当にお利口さんでしょ
 他の子に代えてもらわなくて良かったわ」
美しい少女に成長したお嬢様が、それでも子供の時のようにあどけない笑顔を見せる。
「うむ、すぐにこの屋敷の人間とそうでない者を区別出来たしな
 良い番犬だ
 狆(ちん)などをありがたがっていた、田舎大名上がりの気がしれんわ」
旦那様も満足げな表情を見せた。

「ところで、撫子…
 あー、その、何だ、この間、少し話したと思うが…」
珍しく、旦那様が口ごもりながらお嬢様に話しかけた。
「…婚約のお話?
 私、まだ結婚なんてしたくありませんわ
 だって、うんと年上の方じゃありませんか」
お嬢様は頬を膨らませてみせた。

「う、まあ、15歳のお前から見れば年寄りかもしれないが
 まだ28歳の若造だ
 成り上がり財閥の三男坊で、華族の名が欲しいのは目に見えているが
 あそこと縁を結んでおくのも、悪い話ではなくてだな
 婿に入ってくれると言うし…」
お嬢様には甘い旦那様が、しどろもどろに弁解する。
「お家の経済状況…思わしくないのでしょうか…」
暗い顔を見せるお嬢様に
「子供がそんなことを気にするものではない」
旦那様が不機嫌な声を上げた。
「とにかく、週末の夜会に招待してあるから、1度会ってみなさい」
そんな旦那様の言葉で重苦しい空気の中、この日の夕食は終了した。


週末、新しくしつらえたドレスを身に纏ったお嬢様は、大層美しかった。
客の多い夜会中は、いつも別室に閉じこめられていたが
「一人で知らない殿方に会うなんて、絶対いや!」
そんなお嬢様の希望で、その日は特別に私も会場に入れていただけた。
客が次々とお嬢様に声をかけていく傍らで、私は大人しく座っていた。
「撫子、こちらが件の公彦君だ」
旦那様が連れてきた男は、背が高く、端正な顔立ち、立派な身なりで爽やかな感じの好青年であった。
「初めまして、撫子お嬢様」
彼が優雅に一礼するのを、お嬢様は頬を赤らめて呆然と見ていた。
「やあ、そちらが噂に名高い『華号』ですね
 なんでも、3度も物取りを追い払ったとか
 頼もしい番犬だ」
彼はそう言いながら、私の頭を撫でた。
『客に吠えかかったり噛みついてはいけない』
そう言われていた私は大人しく撫でられていたが、胸の内は不快感で一杯だった。

「犬、お好きですの?」
お嬢様がおずおずと問いかける。
「ええ!お嬢様もですか?
 僕たち、気が合いそうだと思いませんか?」
白い歯を見せながら微笑む彼の顔を見るお嬢様の瞳は、恋する者のそれだった。

「あの、お父様、婚約のお話…
 進めていただいても、かまいません」
翌日、夕飯を食べながらのお嬢様の言葉を、私は不吉な思いで聞いていた。
その後すぐ、お嬢様は件の青年と婚約し、17歳のお誕生日を迎えた後、結婚する。


「華ちゃん、今度から公彦様も屋敷の『旦那様』になったのだから、言うことを聞かなければダメよ」
お嬢様が楽しそうに私に話しかけた。
心の中は不満で一杯だったが、私はおとなしくお嬢様に撫でられていた。
何をされた訳でもないが、私はどうにもあの『公彦』とやらが気にくわなかった。
お嬢様があまりにも彼に夢中になってしまったため、嫉妬していたのだろう。
彼が次期当主として屋敷に入った後、私は洗ってもらった後に撫子お嬢様と一緒に寝れなくなってしまった。


お嬢様と寝れないのなら、と私は夜間、屋敷内を巡回することにした。
使用人の姿もまばらな深夜、炊事場から人の気配がする。
料理番の気配ではなかった。
駆けつけた私が吠え立てると、相手は公彦だった。
「驚いた、華じゃないか、僕だ、公彦だ」
慌てる彼を見て、私は自分の失態に気が付いた。
『旦那様に吠えかかってしまった』
7歳を過ぎ、視覚や聴覚、嗅覚が鈍ってきたことを自覚していた私はうろたえてしまう。

「最近、大旦那様の寝付きが悪いから、寝酒代わりのお茶をと思ってね
 特別に英国から紅茶とウイスキーを取り寄せたのさ」
公彦は、犬である私に弁解するよう、どこか卑屈に説明し始めた。
彼が持っているお盆の上に乗ったカップから、ツンと刺激臭が漂ってくる。
大旦那様の寝室に入る彼を見届け、私はまた巡回に戻るのであった。


公彦が屋敷にやってきてすぐ、大旦那様は体調を崩されてしまう。
床につくことが多くなった大旦那様が久し振りに食堂に姿を見せ
「公彦君が婿に来てくれて、私も少し気が抜けてしまったのかな」
食卓を囲みながら力なく笑う。
大旦那様は、すっかり老け込んでしまわれた。
「まだまだお義父上にはお元気でいてもらわないと
 孫の顔も見せていないのですから
 でも、近いうちにきっと、ね」
公彦はお嬢様に顔を向け爽やかに笑う。
「ま、まあ、公彦様ったら」
お嬢様は真っ赤になって、あらぬ方を向いてしまった。
大旦那様はそんなお嬢様を愛おしそうに眺め
「公彦君、撫子と、この家を頼んだぞ
 華も、撫子を守っておくれ」
弱々しくそう言った。
そこには、往年の雄々しい大旦那様の姿は感じられなかった。


相変わらず、公彦は夜中に大旦那様に『寝酒代わりのお茶』なる刺激臭のする飲み物を持って行っていた。
大旦那様の容態は悪化の一途をたどり、すぐに寝たきりになってしまう。
公彦が婿入りし、半年も経たないうちに、大旦那様は亡くなってしまわれた。

「華ちゃん、お父様に最後のお別れを」
泣きはらした顔のお嬢様に促され、私は亡くなったばかりの大旦那様が眠るベッドに近づいた。
ここで私は大旦那様のお体から、あの『寝酒代わりのお茶』の刺激臭を嗅ぎ取った。
大旦那様の死は、公彦に関係があると私は直感的に感じたのだ。
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