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しっぽや(No.44~57)

side〈OYAHANA〉

ついに私は、秩父先生に飼っていただけることになった。
しかし、その関係が壊れるのを恐れ、私は自分が獣であるという事を伝えられずにいた。

診療所の休診日、夕方から仕事に行く前、秩父先生との逢瀬は私にとって特別な時間だ。
飼い主と契る誉れと喜び。
想いを解放しあった後、私の腕の中でまどろむ彼を見つめるのは至福の時であった。



その日も、私は秩父先生と肌を合わせ、彼を腕に抱きながら幸せな眠りに落ちていた。
工事が終盤になっていたため深夜まで働きづめだった私は、いつもより深く眠ってしまったようだった。
ふと、腕の中の温もりが無い事に気が付いた。
私は目を開けると、愛しい飼い主の姿を探す。
彼は私の寝ている姿を、少し離れた場所でのぞき込んでいた。
『部屋に居てくれた』
ホッとしたのもつかの間で、彼の様子がおかしいことに私はすぐに気が付いた。
彼が私を見る瞳の中に、怯えを見いだしてしまったのだ。
今まで、そんな目で見られたことはない。
『私は、何か過ちを犯してしまったのだろうか?』
不安が急激に胸の内に膨れ上がった。

私が布団の上に起きあがると、彼の肩がビクリと震えた。
瞳の中の恐怖が膨れ上がるのが感じられる。
その身体は、カタカタと小さく震えていた。
「親鼻…君は、一体……何なんだ…?」
彼の口から掠れる声が絞り出される。
その言葉で、私が『人外の者』であると彼が気付いてしまったことが伺えた。
『自分の正体を明かし、過去を転写して見せれば…』
今までにも何度もそれを考えた。
けれども、『拒絶されるのでは』という恐怖に、私は勝つことが出来なかったのだ。
正体を隠したまま飼ってもらい、契ってもらっていた時間は、やはり仮初めのものでしかなかったのか…

私が立ち上がると、彼は後ずさる。
壁に背を付け震える彼を、これ以上怖がらせたくはなかった。
なるべく小さな動作で衣服を身につける。
話しかけるとさらに怖がらせそうな気がしたし、自分も泣いてしまいそうだったので、私はありったけの想いをこめ彼に対して一礼する。
『今まで、ありがとうございました
 わずかな期間でも、貴方に飼っていただけて、愛していただけて、私は本当に幸福でした』
言葉に出来ない想いを胸に、私は静かに部屋を立ち去った。
私に出来る最後のことは、これ以上彼を怯えさせないことであった。
私はゆっくりと思い出深い診療所内を歩き、扉を開けて外に出た。

まだ日は高く、いつもなら2人で近所の定食屋に昼食を食べに出る時間であろうか。
もう2度と戻らない時間を想い、私の目から涙があふれ出た。
『何故、飼っていただけるとなったとき、きちんと正体を明かさなかったのか
 その時に拒絶されていた方が、マシだったのではないか』
深い後悔を胸に抱え、私は宿への道を駆け抜けるのであった。


宿に戻ると驚いた顔の黒谷が
「あれ、今日は早いね、ご飯は食べてきたの?」
そう聞いてくる。
しかし、すぐに私の涙に気が付き
「何があった、親鼻」
優しく抱きしめてくれた。
自分より背の低い黒谷の肩に顔を埋め
「申し訳有りません、私が人外の者だと、秩父先生に悟られてしまいました…」
嗚咽を漏らしながら、私は何とかそう告げた。
白久と新郷が息を呑む気配が伝わってくる。
「正体を、明かしてなかったのか…」
辛そうな声で抱きしめてくれる黒谷に、私は頷くことしか出来なかった。

「秩父先生は、私に恐怖しておりました
 もう、私を飼犬とは思ってくださらないでしょう」
言葉に出して言ってしまうと物凄い絶望感に襲われる。
あまりの寂しさに、消滅してしまいたいと思った。
「親鼻、ダメだ!きっとまた、次のお方が見つかるから!」
黒谷の強い声で、私の意識は引き戻される。
黒谷もまた、1度は得たはずの飼い主を失ったのだ。
この絶望がわかるのは、彼だけなのだ。
「黒谷…」
飼い主を失ってもなお化生であり続ける強い仲間にすがって、私は慟哭するしかなかった。
黒谷は、そんな私をいつまでも抱きしめていてくれた。

「これは、教訓になるね」
静かな声で黒谷が告げる。
「飼っていただくには、正体を明かした方が良いということだ
 シロと新郷も、覚えておくと良い
 正体を明かすのは、とても勇気がいるけどさ」
黒谷は和銅に飼ってもらう際、記憶の転写をしたと言っていた。
それがどんなに勇気ある行動だったのか、私は今更ながらに思い知った。
「今の仕事が終わったら、この町を出ようか
 催しが開催されるまで、働く場所はあちこち有りそうだもんね」
黒谷が優しく言うと
「そうだね、それにこの辺には『飼って欲しい』って思える人、居ないしな」
新郷がそう言って私の背中に顔を埋めた。
「私もですよ、次の街に期待しましょう」
白久がそっと私の肩に手を置いた。

私はゆっくりと頷き、仲間が居てくれることに感謝するのであった。



彼の元を去った翌日以降、私は秩父診療所に出勤しなかった。
『無断欠勤…靖代さんも清美さんも怒るだろうな』
そう考えると寂しくなったが、私は2度と秩父先生に会おうとは思わなかった。
また再び、あの怯えた瞳で見られることに耐えられそうにはなかったからだ。


診療所のことは忘れようと思っていても、私の目は気が付くとカレンダーを追っていた。
『今日は休診日だな』
そんな事を考えている自分に気が付き、私は頭を振る。
『もう、私には関係のないことなのだ…』
これが最後の逢瀬になるとも知らず幸せな思いで出かけた前回の休診日は、遙か彼方の過去であった。


トントン

私たちが借りている部屋の扉が叩かれる。
その気配に、私の心臓は早鐘のように鳴っていた。
『何故ここに?まさか、私たちを狩るため…?』
身構える私を余所に
「誰だろ、こんな時間に、岩さんかな?」
黒谷が軽い調子で扉を開けた。

「あの、すいません、この宿に『親鼻』と言う人は居ませんか」
扉の向こうには、懐かしく愛おしい秩父先生の姿があった。
最後に会ったときより、少し痩せてしまっただろうか。
大きな瞳の下にはうっすらと隈が出来ていて、ヤツレた印象だった。

「ハナちゃん!」
先生は私に気が付くと黒谷を押しのけて強引に部屋に入ってきた。
そのまま、私の胸の中に駆け込んでくる。
「ハナちゃん、ハナちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい」
子供のように泣きじゃくる彼の肩を抱いて良いものか躊躇する私に、黒谷は笑顔で頷いてくれた。
怖がらせないよう、そっと震える彼の肩を抱くと
「ハナちゃん、ハナちゃんが何でもかまわない!
 帰ってきて、僕の側に居て、ずっとずっと側にいて!」
秩父先生は涙をこぼしながら私の顔を見上げ、懇願した。
彼に対する愛おしさが溢れ、私はその身体を強く抱きしめた。

「今度は、ちゃんと記憶の転写しなね」
黒谷は私に向かい悪戯っぽく笑った後
「シロ、新郷、仕事までその辺ブラブラしてこよう」
白久と新郷を伴い部屋を出ていった。


部屋の中には私と秩父先生が残される。
取り敢えず座ってもらおうと思ったが、彼は私から離れなかった。
私は彼の身体を抱きながら座り込む。
そして、腕の中の彼の温もりを堪能する。
落ち着いてきたのか、彼は少しずつここに来るまでのいきさつを語り始めた。

「ハナちゃんに謝りたくて、ハナちゃんに会いたくて、ずっと探してたんだ
 うちで雇っていたのに居場所も知らないなんて、間抜けな話だね
 診療時間が終わってから、あちこちの木賃宿を尋ね歩いたよ
 ここ、入り口にジョンが繋がれてたからもしかして、と思ったんだ
 会えて良かった」
彼が私の胸に頬ずりする。
それは、行為の後に私の胸の中で彼がいつもやっていたことであった。

「私のこと、怖くはありませんか?」
そっと聞いてみると、彼は小さく首を振る。
「ハナちゃんに2度と会えない方が、怖かった
 ハナちゃんを傷つけてしまったことが、辛かった
 君の事を怖がってしまうなんて…、本当にごめん」
先生は私の背に回した腕に力を込め、しっかりと抱きしめてくれた。
「何度も打ち明けようと思っていたのですが、その勇気が出なくて
 怖い思いをさせてしまい、申し訳有りませんでした」
私も、彼を抱く腕に力を込める。
もう2度と、この身体を離したくなかった。

「私は、犬なのです」
やっとの思いでそう告白した私に
「虎毛の、秋田犬だろう?
 犬の図鑑を何度も見返して気が付いたよ
 秋田犬は天然記念物に指定されてる日本犬種、唯一の大型犬だ
 なる程、背が高いはずだよ」
彼は微笑みながら頷いた。
「飼い主に忠実で、勇気があり、番犬に適している
 まさに、ハナちゃんだね」
彼が私の髪を撫でてくれる。
その優しい感触に私の目から涙がこぼれてしまった。
「一緒に暮らそう、もうハナちゃんと離れるのは嫌だ
 お給料もちゃんと出すから、日雇いの仕事は辞めても大丈夫
 2人暮らしにあの診療所の2階じゃちょっと狭いけど…
 布団は1組で済むもんね」
彼は笑って、唇を合わせてくれた。

「ずっと、ずっと貴方のお側におります
 けれど、暫く工事の仕事は辞めません」
私がキッパリと口にすると、彼は悲しそうな顔になった。
「まだ、怒ってる…?」
私は彼を安心させるよう、自分からも唇を重ねた。
「診療所の運営には、お金が必要です
 私では診察に携わる仕事を大して手伝えない
 貴方の理想とする診療所を支える資金を、工事で稼いで少しでも捻出いたします」
私の言葉に、彼は驚いた顔を見せる。
「犬に資金繰りを心配されるなんて…
 情けない飼い主だ」
苦笑する彼に
「私は、地位や名誉以外に、人間には『お金』が必要なことを知っています
 お見せしましょう、犬であった時の私を
 これが私の過去です」
私は意を決し、額を押しつけた。


華やかな栄光と没落の過去に、私の意識は落ちていった。
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