しっぽや(No.44~57)
一度疑念が湧いてしまうと、次々と彼のことが気になってきた。
改めて見れば、そろそろ30になろうかという僕よりも彼の肉体は若々しく感じられる。
20代中盤といった体つきだろうか。
けれども彼は戦時中、親と死に別れ、お世話になっていた村で農作業等を手伝って、同じ境遇の仲間と共に細々と生活していたと言っていた。
『今、20代中盤なら戦時中は小さな子供じゃないか
そんな小さな子に、生活出来るほどの農作業がこなせるのか?』
僕の中でさらに嫌な疑念が膨らんでいく。
親鼻は苦労した過去のせいか若白髪が酷かった。
それもあって、彼は若いけれど自分よりは年上だと思い込んでいたのだ。
しかし間近でその髪をよくよく見てみると
『あれ?これは…白髪、じゃない?』
僕は初めてそれに気が付いた。
白髪にしては、彼の頭髪の白と黒の色合いは乱雑ながら規則正しいきれいな模様を描いている。
それはまるで『虎毛』と呼ばれる犬の毛色にそっくりであった。
そういえば彼は、自分を『犬』と呼ばれることに固執していた。
『そもそも、親鼻という名前は本名なのだろうか』
過去を語りたがらない者の来院も多いため、あまり患者の過去を詮索してこなかったので、これも特に気にしたことがなかった。
彼に関しては『親鼻は親鼻だ』そんな認識の元、今まで付き合ってきた。
僕だって、過去の全てを彼に話した訳ではない。
それでも僕たちが愛し合うには、そんな事は必要ないと思っていた。
『彼は、本当に人間なのか?』
ふいに、子供の頃に聞いた昔話が蘇る。
人に恩を受けた動物や、人をとり殺そうという獣が人間に化けて人に近づく話が多々あった。
『異類婚姻譚とも呼ばれる民話伝承…』
ゾクリ、と背筋に恐怖が走り抜ける。
僕の愛した彼は、一体何者なのだろう。
いや、僕は『何』と肌を合わせていたのだろう。
思考が激しく混乱しているのがわかった。
その時、親鼻が身じろぎした。
薄く目を開けると、布団から抜け出し固まっている僕に視線を向ける。
優しく僕を見ていた瞳が、徐々に曇っていく。
僕の表情を読んだせいだろう。
布団の上に起きあがった親鼻の動作で、僕の肩はビクリと震えてしまった。
襲いかかられるのでは、という恐怖で身体が小刻みに震えだす。
「親鼻…君は、一体……何なんだ…?」
掠れる声で絞り出した言葉は、自分のもののようには聞こえなかった。
親鼻は何か言いたそうな素振りを見せたが、顔をうつむけ立ち上がった。
そんな親鼻から後ずさり、僕は壁に背中をつけて震えていた。
彼は衣服を身に纏うと泣きそうな顔で深々と一礼し、そっと部屋から出て行った。
僕はそれを呆然と見送った。
あまりにも突然で、あまりにも呆気ないその去り方に、徐々に僕の恐怖が薄れていく。
布団に近寄ると、親鼻の寝ていた場所に触れてみる。
彼の居た温もりは、もうほとんど残っていない。
彼に抱かれ、まどろんでいた時間が、遠く遠く感じられた。
また、肩に寒気が襲ってくる。
それは、親鼻の温もりを失ってしまった寒さだ。
そうだ、彼は僕に温もりをくれた。
彼といると、心まで温かくなっていた。
「親…鼻…」
名前を呼んでも、彼の穏やかな返事は返ってこない。
僕は肩を抱きながら、必死で今までのことを考えていた。
彼はいつだって僕に優しかった。
僕の側に居たいと、僕を守りたいと、いつも言っていた。
本当に人外の何かだったとしても、そんな彼が僕を襲うだろうか、とり殺そうとするだろうか。
昔話では本当の姿を見られた鶴は、助けてくれた男の元を去っていった。
あの鶴はただ、恩を受けた愛する男の側に居たかっただけなのだ。
「親鼻…?親鼻!」
服を着て部屋を出ると、彼の名前を呼びながら診察室に向かう。
彼の姿はどこにもなかった。
待合室にも事務室にも居ない。
「親鼻!親鼻!」
僕を見た、彼の絶望的な悲しい瞳を思い出す。
自分のしでかしてしまったことに憤り、深い悲しみが湧いてきた。
『僕は…、何というバカなことを…』
親鼻はただ、僕と共に有りたいと願っただけじゃないか。
僕だって、彼と共に有りたいと思っていたのに。
親鼻は時々、何か言いたそうな瞳で僕を見ていた。
何故、僕はそれをきちんと聞いてあげなかったのか。
『さっきだって、そうだったのに…
親鼻に、あんなに悲しい顔をさせてしまうなんて』
後悔しても、謝る相手はもう居ない。
診療所の扉を開け、通りを見渡しても親鼻の姿はどこにもなかった。
「親鼻…」
涙を流しながらその場にしゃがみ込む。
追いかけていこうにも、僕は親鼻がどこの木賃宿に投宿していたかすら知らないのだ。
彼のことを何も知らなくても、側に居てくれるのが当たり前だと思っていた傲慢な自分が呪わしい。
失ってみて初めてその大切さに気が付いた僕は、彼を想って慟哭するしかなかった。
親鼻は、翌日から診療所に姿をあらわさなくなった。
改めて見れば、そろそろ30になろうかという僕よりも彼の肉体は若々しく感じられる。
20代中盤といった体つきだろうか。
けれども彼は戦時中、親と死に別れ、お世話になっていた村で農作業等を手伝って、同じ境遇の仲間と共に細々と生活していたと言っていた。
『今、20代中盤なら戦時中は小さな子供じゃないか
そんな小さな子に、生活出来るほどの農作業がこなせるのか?』
僕の中でさらに嫌な疑念が膨らんでいく。
親鼻は苦労した過去のせいか若白髪が酷かった。
それもあって、彼は若いけれど自分よりは年上だと思い込んでいたのだ。
しかし間近でその髪をよくよく見てみると
『あれ?これは…白髪、じゃない?』
僕は初めてそれに気が付いた。
白髪にしては、彼の頭髪の白と黒の色合いは乱雑ながら規則正しいきれいな模様を描いている。
それはまるで『虎毛』と呼ばれる犬の毛色にそっくりであった。
そういえば彼は、自分を『犬』と呼ばれることに固執していた。
『そもそも、親鼻という名前は本名なのだろうか』
過去を語りたがらない者の来院も多いため、あまり患者の過去を詮索してこなかったので、これも特に気にしたことがなかった。
彼に関しては『親鼻は親鼻だ』そんな認識の元、今まで付き合ってきた。
僕だって、過去の全てを彼に話した訳ではない。
それでも僕たちが愛し合うには、そんな事は必要ないと思っていた。
『彼は、本当に人間なのか?』
ふいに、子供の頃に聞いた昔話が蘇る。
人に恩を受けた動物や、人をとり殺そうという獣が人間に化けて人に近づく話が多々あった。
『異類婚姻譚とも呼ばれる民話伝承…』
ゾクリ、と背筋に恐怖が走り抜ける。
僕の愛した彼は、一体何者なのだろう。
いや、僕は『何』と肌を合わせていたのだろう。
思考が激しく混乱しているのがわかった。
その時、親鼻が身じろぎした。
薄く目を開けると、布団から抜け出し固まっている僕に視線を向ける。
優しく僕を見ていた瞳が、徐々に曇っていく。
僕の表情を読んだせいだろう。
布団の上に起きあがった親鼻の動作で、僕の肩はビクリと震えてしまった。
襲いかかられるのでは、という恐怖で身体が小刻みに震えだす。
「親鼻…君は、一体……何なんだ…?」
掠れる声で絞り出した言葉は、自分のもののようには聞こえなかった。
親鼻は何か言いたそうな素振りを見せたが、顔をうつむけ立ち上がった。
そんな親鼻から後ずさり、僕は壁に背中をつけて震えていた。
彼は衣服を身に纏うと泣きそうな顔で深々と一礼し、そっと部屋から出て行った。
僕はそれを呆然と見送った。
あまりにも突然で、あまりにも呆気ないその去り方に、徐々に僕の恐怖が薄れていく。
布団に近寄ると、親鼻の寝ていた場所に触れてみる。
彼の居た温もりは、もうほとんど残っていない。
彼に抱かれ、まどろんでいた時間が、遠く遠く感じられた。
また、肩に寒気が襲ってくる。
それは、親鼻の温もりを失ってしまった寒さだ。
そうだ、彼は僕に温もりをくれた。
彼といると、心まで温かくなっていた。
「親…鼻…」
名前を呼んでも、彼の穏やかな返事は返ってこない。
僕は肩を抱きながら、必死で今までのことを考えていた。
彼はいつだって僕に優しかった。
僕の側に居たいと、僕を守りたいと、いつも言っていた。
本当に人外の何かだったとしても、そんな彼が僕を襲うだろうか、とり殺そうとするだろうか。
昔話では本当の姿を見られた鶴は、助けてくれた男の元を去っていった。
あの鶴はただ、恩を受けた愛する男の側に居たかっただけなのだ。
「親鼻…?親鼻!」
服を着て部屋を出ると、彼の名前を呼びながら診察室に向かう。
彼の姿はどこにもなかった。
待合室にも事務室にも居ない。
「親鼻!親鼻!」
僕を見た、彼の絶望的な悲しい瞳を思い出す。
自分のしでかしてしまったことに憤り、深い悲しみが湧いてきた。
『僕は…、何というバカなことを…』
親鼻はただ、僕と共に有りたいと願っただけじゃないか。
僕だって、彼と共に有りたいと思っていたのに。
親鼻は時々、何か言いたそうな瞳で僕を見ていた。
何故、僕はそれをきちんと聞いてあげなかったのか。
『さっきだって、そうだったのに…
親鼻に、あんなに悲しい顔をさせてしまうなんて』
後悔しても、謝る相手はもう居ない。
診療所の扉を開け、通りを見渡しても親鼻の姿はどこにもなかった。
「親鼻…」
涙を流しながらその場にしゃがみ込む。
追いかけていこうにも、僕は親鼻がどこの木賃宿に投宿していたかすら知らないのだ。
彼のことを何も知らなくても、側に居てくれるのが当たり前だと思っていた傲慢な自分が呪わしい。
失ってみて初めてその大切さに気が付いた僕は、彼を想って慟哭するしかなかった。
親鼻は、翌日から診療所に姿をあらわさなくなった。