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しっぽや(No.32~43)

「俺、本当に犬なんだ
 それでも飼ってくれる?」
確認するように聞くと
「ああ、犬を飼うのは初めてだから拙い飼い主だが、新郷を飼いたい」
彼はきっぱりと答えた。
「俺のこと怖くない?」
重ねて聞く俺に
「新郷は俺のこと噛まないんだろう?
 自分に懐いてる犬というのは、その、何だ…
 けっこう、可愛いものだな」
桜ちゃんは照れたようにそう答えた。
俺は桜ちゃんを強く抱きしめる。
その鼓動が感じられるほど強く強く抱きしめると、胸の穴に何かが満ちていくような気がした。

安心する俺は、やっとその感覚に気が付いた。
桜ちゃんに触れている指先から、ビリビリと甘いしびれが広がっていく。
『ああ、これがそうか』
俺は、彼に対して発情していた。
今まで緊張しすぎていて、そんな感覚を感じている余裕が無かったのだ。
自分の体が変化していくのがわかる。
「…新郷?お前、ちょっと、おい…」
それを感じたのか桜ちゃんがモジモジと身を動かし、俺から離れようとした。
「俺達化生は、飼い主と契る事が誉れなんです」
俺の言葉に
「ち、契る…」
桜ちゃんが固まった。
「今日日(きょうび)の犬は、『待て』や『おあずけ』が出来ないと勤まらないからね
 俺、桜ちゃんが『よし』って言うまで待ってるよ
 でも、ちょっとだけ味見させて」
俺は彼の唇に自分の唇を重ねる。
海水でずぶ濡れの俺達のファーストキスの味は、しょっぱかった。
桜ちゃんは俺にキスされても、抵抗しなかった。


気が付くと、空が白々と明るくなっている。
長い長い孤独の夜が明けたのだと、夜明けの光に心の中まで照らされているような気がして、俺は充足感でいっぱいになった。
もう俺は独りじゃない、守るべき飼い主がいる。
今までと同じ世界にいるのに、その時の俺には全てが輝いて見えた。


それから俺達は朝ご飯用の爆弾おにぎりで腹ごしらえをし、荷物をまとめ家路についた。
びしょ濡れの服や長靴ははどうしようもなく、早朝から営業していた釣り具屋で一式買い直すこととなった。
親切な店のオジサンが海に落ちた俺達に同情し、店の外水道を使わせてくれたため真水で体や髪を洗い、服の海水も洗い流した。
しかし新しい服に着替え直してもどことなく磯くさく、俺達は電車の中で小さくなっていた。

「帰ったら、シャワー浴びないとだめだな」
小声で囁く桜ちゃんに
「一緒に?」
俺は期待に満ちた目で問いかける。
「うちの風呂場はそんなに広くないだろうが
 それに、まだお預け中だ」
彼は仏頂面で答えるが、その頬はほんのり桜色にそまっていた。
「はいはい、俺、良い子にしてちゃんと待ってます!」
ニヒッっと笑う俺に
「『はい』は1回!」
桜ちゃんがピシリと言う。
「はい!」
早速命令に従う事ができて、俺は誇らかな気持ちになった。


桜ちゃんの家に帰りシャワーを浴びると、やっとサッパリした気分になる。
先にシャワーを浴びて着替えた桜ちゃんが、腰にバスタオルをまいただけの俺を見て
「新郷って、着やせしてたんだな」
少し驚いたように呟いた。
「んー、柴犬ってけっこう太りやすいから、一応気を使って運動とかしてるんだよ
 白久なんて俺より動いてないのにムキムキしてて理不尽
 あ、うちの事務所、大型犬多いから桜ちゃん来なくて良いからね
 怖いでしょ?」
俺が言うと
「新郷が他の犬から守ってくれるんだろ?」
彼は笑って答えた。
「もちろん!」
俺は彼を抱きしめて誇らかに答えた。

「今日は仕事休み?疲れただろ、少し寝ていきなよ」
俺の腕の中で桜ちゃんが言った。
「はい」
俺はその命令に素直に従った。
「俺の部屋で、寝て良いから…」
桜ちゃんは消え入りそうな声で言った後
「よし…」
もっと小さな声で囁いた。
俺は返事をする代わりに、彼と唇を重ねる。
そして彼の部屋の彼のベッドで、俺達は何度も体を重ねた。

人と契るということがどんなことか、その時まで俺にはよくわからなかった。
しかし、桜ちゃんを前にすると体が自然に動いていた。
味わうように彼の首筋から胸、腹へと舌を這わせていく。
そのたびに桜ちゃんの口からは
「あっ…、んん…、新…郷…」
そんな甘い言葉が漏れ出した。
その声は、更に俺の欲望に火をつける。

俺の刺激に合わせ、彼の肌が上気し桜色に染まっていく。
あのお方と春によく山桜を見に行ったことを思い起こさせた。
犬の身であった頃は色の識別など出来なかったが、化生してからあのお方が何を美しいと思っていたのか知りたくて、俺は注意して桜を見るようにしていたのだ。
それで、俺は桜が好きになった。
桜ちゃんは俺の知っているどんな桜より、美しく可憐だった。

彼は俺の欲望を受け止めてくれた。
俺も彼の欲望を飲み干した。
行為の後、桜ちゃんのベッドで一緒に眠る俺達の胸に、もうあの虚ろな穴は空いていなかった。

穴の代わりに、そこには暖かな光が満ちているばかりであった。
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