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しっぽや(No.32~43)

桜ちゃんを引き上げる際、俺は彼の竿が岩場に引っかかってるのを確認したのだ。
糸の先はまだ動いている。
そこに、憎い魚がいることは間違いなかった。
体力を消耗しきって動きが鈍くなった魚を、俺は何とか捕まえる。
『この姿で人に噛みついちゃいけない、って言われてるけど
 魚なら、良いよな』
犬だったときは、魚のあら煮をもらっていたのだ。
バリバリと魚の頭を食べていた。
それを思い出し、俺はその魚の頭に噛みついてやった。
それで、奴の命はつきた。
『犬の時みたく食いちぎるのは無理だったか』
少し不満に思いながら、俺は魚と竿を持って桜ちゃんの元に戻る。
「桜ちゃん、凄いよ、ほら、大物!」
魚を見せる俺に、彼は泣きながら抱きついてきた。

「魚なんかより、お前に何かあったらどうする
 無茶しないでくれ、心配するだろう」
桜ちゃんに泣きつかれ、俺はうろたえてしまった。
「あ、ごめん、俺の事は心配しなくても大丈夫だから
 俺、丈夫だし、泳ぎ上手いんだ」
体が何でもないことをアピールしようと、俺は明るくそう言ってみる。
それでも、彼は俺の胸にすがって泣いていた。
「また、俺だけ置いていかれるのかと思った
 もう嫌なんだ、誰かに置いていかれるのは
 大事な人に置いていかれるのは
 だから、誰も好きになりたくなかったんだ」
子供のように泣き続ける彼を安心させようと、俺はその体を抱きしめて
「大丈夫、俺はここにいるよ
 どこにも行かない、桜ちゃんと一緒に居たいから
 ずっと、桜ちゃんのそばに居させて」
そう、繰り返し囁いていた。

やがて桜ちゃんの嗚咽が小さくなっていく。
「新郷には命を助けてもらったな…
 ありがとう、何か、お礼しなきゃな
 ……いいよ、プレイに付き合うよ
 何だっけ、お前を飼ってやれば良いんだっけ」
彼の言葉に、俺は耳を疑った。
「飼う…?俺のこと、飼ってくれるの…?」
信じられない思いで呟く俺に
「ああ、飼ってやるよ
 で、何をして欲しい?
 お前は犬って設定だったか
 首輪でも付けて鎖で引かれたいのか?」
桜ちゃんは少しぶっきらぼうに言った。
「飼い主…」
桜ちゃんが俺を飼うと言ってくれた。
俺の飼い主になると言ってくれた!
その言葉は歓喜の衝撃となって、俺の胸に轟いた。

『俺だけの飼い主を再び手に入れた!』
俺の目から涙があふれ出す。
「守らせてください…貴方を守らせてください
 飼い主を守りたい
 それが俺の最大の願いです」
新たな飼い主を抱きしめながら、俺は激しく泣いていた。

「新郷…?それならもうやっているだろう?
 お前は俺を助けてくれたじゃないか
 俺はお前に守ってもらったんだぞ」
その言葉に、俺はハッとする。
「助けた…?俺が、飼い主を?
 そうか、助けられたんだ、今度こそ助けられたんだ!
 守れたんだ、飼い主を守れたんだ!」
あのお方を守れなかった後悔が、溶けるように消えていく。
あのお方を失ってから、心がこんなに晴れたのは初めてであった。

泣きじゃくる俺を、今度は桜ちゃんが抱きしめてくれる。
「すまない
 何というか、俺が思っていたのとは違うプレイのようだな…」
彼は少し困ったように謝ってくれた。
俺は首を振ると
「桜ちゃん、柴犬嫌いだから、俺も嫌われてると思ってた
 俺のこと怖がってたでしょ」
涙を拭いてそう聞いてみる。
「いや、それは…
 確かに、ちょっと柴犬っぽい顔立ちだな、とは思ったけど
 どちらかというと、俺に『一目惚れした』なんてゲンが言ってたから、それを警戒したと言うか…」
弁解を始めた桜ちゃんに自分の過去を見せるかどうか、俺の胸に新たな葛藤が始まった。

化け物だと知れたら、今度こそ彼は俺を嫌悪し、側に寄らせてはくれないだろう。
せっかく飼うと言ってもらえたのに、すぐに飼い主を失うことは俺に大きな恐怖をもたらした。
けれど正体を隠して飼ってもらっていても、自分の心が真実満たされないであろうことは、容易に想像がついた。
俺の全てを知ってもらえなければ、きっとこの関係は長続きしないだろうことも…

「新郷は、何でこんな忠犬ごっこがしたかったんだ?
 おかげで変な趣味の持ち主だと、いらぬ警戒をしたじゃないか」
桜ちゃんは不思議そうな瞳で問いかけてくる。
「失った者を、取り戻したかった
 桜ちゃんがあのお方、俺の以前の飼い主が亡くなった時、魂に空いた穴を塞いでくれるんじゃないか、って思ったんだ
 忠犬ごっこなんかじゃなく、俺、犬なんだよ」
彼の問いに、俺は自然にそう答えていた。
「犬って、お前、まだふざけてるのか?」
桜ちゃんは、とたんに不愉快そうな顔になる。

「桜ちゃんには、俺の姿が怖いかも
 でも、俺のことちゃんと見ておいて欲しいんだ
 俺が何を無くしてしまったか、知って欲しいんだ」
俺はそう言うと、桜ちゃんの額に自分の額を押しつけた。


その時にはもう、俺の全てを彼に見せる覚悟は固まっていた。





それは、黒谷の飼い主、和銅が命を落とした戦が始まる少し前の時代の話。

俺が暮らしていた場所は海と山に挟まれた、小さな漁村だった。
村は小さくとも山の恵みと海の恵み、両方の恩恵に与(あずか)る豊かな村だったのだ。
俺はどちらかというと山側で暮らしていた。
俺の飼い主夫婦は畑を耕し野菜を作ったり、山にキノコや山菜を採りに行くことを生業としていた。
飼い主の弟が漁師だったため、2人はよく獲物を交換していたのだ。
それで、俺の食事には魚が絶えたことがなかった。
子犬の時から可愛がってもらっていた俺は、彼にもよく懐いていた。
飼い主と弟、この2人は俺にとってかけがえのない存在であったのだ。


あのお方は山に入るとき、必ず俺を連れて行った。
山には熊や猪、野犬といった危険な動物がいる。
俺はそいつらの気配を察すると吠えて飼い主に知らせ、時には立ち向かって奴らを追い払ったものだ。
『兄貴んとこのシンは強い犬だな』
あのお方の弟が一緒に山に入った時、感心したように言うと
『シンは泳ぎも上手いんだ、そのうち川で鮎でも捕るようになるかもな』
あのお方は笑ってそう答えていた。
あのお方に誉められる事は、俺を何とも言えない誇らかな気持ちにさせるのであった。


弟はある日、あのお方以外の者と山に入り、そのまま戻って来なかった。
あのお方は大層心配し、近所の者達と俺を伴って行方不明になった彼らを探して回った。
しかし、俺は無事な姿で弟を発見することが出来なかった。

立ちこめる獣臭、むせかえるような血と死の臭い、俺がそれに気がついたときには何もかもが終わっていた。
激しく吠えたてながら俺があのお方を案内したのは、粗末な山小屋であった。
薄い木の壁に不吉な爪痕が沢山付いている。
小屋の中には、食い荒らされた3人の無惨な死骸が横たわっていた。
囲炉裏には火を使った痕跡があり、転がっている鍋からはキノコ汁の匂いがする。
『ここで休憩中、熊に襲われたんだ』
それは冬眠を前にした熊が、1番食料を欲している時期であったのだ。
俺は、大好きだった飼い主の弟を失った。

あのお方はとても怒り悲しんで、人食い熊を退治する山狩りに志願した。
『猟師さんが猟犬を連れてくるからな
 喧嘩になっちゃ困るんだ
 シンの代わりに、俺があいつの敵をとってやるぞ
 シンは家を守っててくれ、子供たちを頼んだぞ』
あのお方は明け方、俺にそう言い残し山に向かってしまう。
俺の胸の中はモヤモヤした危険信号でいっぱいだった。
あのお方に迫っている死の気配で、気がおかしくなってしまいそうだった。
しかし、人のようにそれを言葉であのお方に伝えることは出来なかった。
『このまま行かせてはいけない!』
激しく吠え狂う俺を置いて、あのお方は行ってしまったのだ。

人食い熊は無事に銃殺され、山に平和が戻った。
しかしあのお方は戻ってこなかった。
あのお方は山の中で足を滑らせ崖から転落し、帰らぬ人となってしまったのだ。
山に慣れていたあのお方らしからぬ最後であった。
弟の死は、それほどまでにあのお方に動揺をもたらしていたのだろう。


あのお方の姿を求め、俺も山に消えたかった。
けれどもあのお方の最後の命令を守らないわけにはいかなかった。
俺は胸に大きな穴をかかえたまま、その後の生を全うした。
あのお方の奥様も子供たちも俺を大層可愛がってくれたが、この胸の穴を埋めることは出来なかった。
あのお方の子供たちが学校に上がるのを見届けてから、俺はやっと、この家での役目を終えたのだ。

『もしも俺が人であったなら、あのお方の危機をきちんと伝えられたのではないか
 もしも俺が人であったなら、一緒に山狩りに行けたのではないか
 俺が一緒なら、あのお方が崖から落ちるのを止められたのではないか』
死を前にした俺は、そんな後悔ばかりを感じていた。


それで俺は化生したのだ。
今度こそ、飼い主を守るために。
この胸の穴を埋めるために…




過去の転写をした後
「ごめんね、俺の姿怖かった?
 俺、柴犬にしては体格良かったし、家族以外にあんまり懐いてなかったから近所の人にはちょっと怖がられてたんだ」
俺が伺うように聞くと、桜ちゃんは首を振った。
「新郷…新郷も大切な者を失っていたんだね…
 犬があんなに真摯な生き物だったとは、初めて知ったよ
 吠えるのには理由があったんだな」
彼は俺をキュッと抱きしめた。
桜ちゃんに拒絶されなかった安心感で、俺の体から力が抜けた。

「俺達はお互い大切な人を失った悲しみで、胸に大きな穴を抱えてたんだ
 新郷にはそれがわかってて、俺を選んでくれたのか?
 お互いの穴を埋められると思ったのか?」
優しく問いかけられても
「わかんない、野生の『カン』ってやつ?」
俺の中に確かな回答はなかった。

けれども『彼で間違いない』そんな確信は抱いていた。
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