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しっぽや(No.32~43)

side〈SHINGOU〉

『友達』としての関係を壊すのが嫌で、俺は桜ちゃんに『飼ってくれ』と言い出せない日々を送っていた。
たとえ飼ってもらえていなくとも、彼の側にいて、彼のために何か出来る事は、俺に満足感を与えてくれていた。



「夏休みだし、週末は泊まりで海釣りに行くんだ
 泊まりと言っても、夕方出かけて夜通し釣って朝に帰ってくるんだけどさ
 釣果は干物にしといてやるよ
 陰干し用のネットに入れて干しとくと、けっこう上手い具合に出来るんだ
 新郷、来週まで来なくて良いからな」
桜ちゃんの言葉を聞いて、俺は何となく嫌な予感を覚えていた。
危険信号が点滅しているように、胸の中がモヤモヤする。
その感覚は初めてのことではなかった。
あのお方と最後に別れたときの感覚にとてもよく似ていたので、俺は居てもたってもいられなくなる。

「あの、俺も一緒に行って良いかな?
 釣りはやったことないけど…
 邪魔しないから、一緒に居させて?
 あ、俺、お弁当作るよ!釣りしながらだと、おにぎりが良い?」
必死で言う俺に
「でも、居るだけだと退屈だぞ?」
彼は困った顔を向けてくる。
「じゃあ、教えて?俺もマグロとかカジキとか釣ってみたい」
「船で行く訳じゃないから、というか、素人にはそんな大物無理だってば
 ボラでもかかれば御の字で、目当てはアジだぞ?
 それでも良いのか?」
確認する桜ちゃんに、俺は頷いて答えた。
「それから…本当に釣りするだけだからな
 変なことしてくんなよ」
警戒も露わに念を押すように確認する彼に
「大人しくしてる!」
俺は神妙に答えるのであった。



週末、しっぽやの仕事は2日ほど休みをもらい、俺ははりきってお弁当を作り、桜ちゃんの家に向かう。
釣りの時に着るベストや服、長靴等、桜ちゃんの父親の物を借りた。
「俺にはちょっと大きかったんだが、処分する気にはなれなくて取っておいたんだ
 新郷に使ってもらえるなら良かったよ」
彼は父親の服を着た俺を見て、懐かしそうな顔になった。
「クーラーボックスと竿はこれで、バケツやタモ網はこっち
 餌は向こうで調達して、と
 飲み物も重いから向こうで買うか
 新郷の弁当、楽しみだな」
いつになく楽しそうな桜ちゃんの様子に、俺は自分の不安が気のせいだったのではないかと思い始めていた。
しかし彼と一緒に出かけられることは俺にとっても楽しいことで、強引について行くことにして良かった、と浮かれた気分になっていた。


何度か乗り換えながら電車で移動し、空気に潮の香りが混ざる場所が近付くと、俺達と同じような格好をした人間の姿が多くなってきた。
「けっこう人が多そうだね、場所あるのかな」
ちょっと不安になった俺が聞くと
「あまり人が利用しない場所は車がないと行けないが、俺、免許持ってないから…
 でも、俺しか知らない穴場があるんで大丈夫だ」
桜ちゃんは得意げに笑って答えた。
電車を降りて駅の近くのコンビニで飲み物を買い込んだ。
釣具屋で餌を調達し、俺達は桜ちゃんの秘密の穴場に向かった。

「あれ?」
眼下に海を見下ろす崖の側で、桜ちゃんの顔が曇る。
「おかしいな、ここ、もっと緩やかに海に向かって降りていける場所があったのに
 この前の台風で崩れたのか?
 ここを当てにしてたんだが…」
彼は防波堤にでも戻ろうか、と逡巡していた。
「あそこまで降りられれば、荷物とか置ける場所に行けそうだよね
 あっちなら椅子も置けそうだし
 行ってみる?」
俺が指さすと
「ああ、あそこは前のままみたいだ」
桜ちゃんはホッとした顔になった。
俺達は慎重に崖を降り、海に突きだした自然の防波堤のような場所に到着する。

「完全に日が暮れると真っ暗になるから、地形をよく覚えておいてくれ
 ランプと懐中電灯は持ってきてあるし、今日は月明かりが期待できるから、ある程度の判別はつくがな」
桜ちゃんの言葉に従い、俺は周りの風景を脳裏に焼き付けた。
それから準備を整えて、釣り糸を垂らす。
『入れ食い』などという言葉にはほど遠い、ゆったりと獲物を待つ時間が始まった。
しかし、桜ちゃんと一緒に居られるだけで、俺の心は浮き立っていた。

「超力作爆弾おにぎり!これなら釣りしながら食べやすいかな、と思って
 ほうれん草入り卵焼き、ウインナー、焼き鳥、梅干し、鮭、沢庵入り!
 はい、桜ちゃんの分」
俺が渡した大きなおにぎりを、彼は驚いた顔で受け取った。
「すごい大きさだ、食べきれるかな」
苦笑する彼に
「朝ご飯に、もう1っこあるからね」
俺は笑ってそう告げるのであった。

「次々に色んな具が出てくるな、美味しくて楽しいおにぎりだ」
桜ちゃんが満足そうに俺の作ったおにぎりを食べてくれる。
『飼ってもらえなくても、こうやって桜ちゃんを陰から支えよう』
そう考えると、サバサバとした気分になってくる。
俺もおにぎりにかぶりつき、暫くは食事の時間を楽しんだ。


お目当てのアジがポツリポツリと釣れていく。
「干物にしたら、ゲンのお父さんにもお裾分けするよ
 オジサン、アジ好きだからさ
 新郷、帰りに家でご飯食べてくか?
 大きいのが釣れたら刺身にしよう
 捌くときウロコが散るのが難だが、釣りたての魚は新鮮で美味いからな」
桜ちゃんはいつになく饒舌だった。
「ゲンにさ、釣りを教えるって約束してたんだ
 色々あって、未だに叶ってないけど…」
彼はポツリと呟くと
「誰かと一緒に釣るのは久しぶりなんだ
 ここ、父さんが見つけた穴場だったんだ
 今日は一緒に来てくれてありがとう」
そう言って優しく微笑んだ。
「桜ちゃんと一緒に居られるの、楽しいよ」
俺も笑うと、彼は複雑な顔をする。

「俺、新郷の気持ちに全然応えてやってないのに…
 新郷は優しすぎるよ」
彼はうつむいてしまった。
「桜ちゃんだって優しいよ
 俺、あれから前ほど雷怖くなくなったんだ
 雷鳴ったら、桜ちゃんの鼓動を思い出すようにしてるから
 雷克服できたの、桜ちゃんのおかげ」
俺がへヘッと笑ってみせると、彼の顔に笑みが戻り
「良かったな」
そう言ってくれた。

「おっと、引いてるぞ」
彼の指摘で、竿が微かに揺れていることに気が付いた俺は、慎重に竿を引いてみる。
確かに、何かがかかっている手応えを感じた。
糸を巻いていくと手応えがどんどん重くなる。
「大物だ!」
俺は張り切って糸を巻いていった。
が、釣り上げてみると俺の期待より遙かに小さいアジが姿を現した。
「40cm超の大物だと思ったのに半分くらいか…」
ガックリとうなだれる俺を
「真アジでそのサイズなら立派なものだよ」
桜ちゃんは慰めてくれた。

それからも、桜ちゃんとのゆったりとした時間が流れていく。
電灯が無いため辺りは真っ暗だが、月明かりとランプや懐中電灯の明かりで周りを認識することは可能だった。
『桜ちゃんと一緒なら、釣りって楽しいな』
獲物を捕る、という行為の興奮も相まって、俺はすっかり釣りが気に入ってしまった。
「釣りって楽しいね、また連れてきて」
俺が頼むと
「そうだな」
彼は笑って答えてくれた。

「デカい」
糸を巻いていた桜ちゃんが緊張した声を上げる。
「かなりの手応えだ、流木じゃないだろうな
 竿が折れてしまう」
糸の先を確かめるように竿を動かす桜ちゃんを、俺はハラハラしながら見守った。
ツツツっと糸が動いていく。
それは生き物が抵抗する動きに他ならなかった。
「こんどこそ本当の大物だ!」
俺はゴクリと唾を飲む。
桜ちゃんと魚、無言の戦いが始まった。

糸を巻いては抵抗され戻される。
その地道な戦いが30分以上続いていた。
俺はそれを見守ることしか出来なかった。
それでもジリジリと糸が近付いてくる。
魚が疲れ始めている事が伺えた。
『タモですくえないか』
俺がそれを試そうと網を探すため桜ちゃんから目を離した瞬間、ザザッと何かが滑る音に続きドボンと重い物が水に落ちる音がした。
振り返ると、桜ちゃんの姿がどこにもなかった。
桜ちゃんの立っていた場所が大きくえぐれている。
ここは台風で崖が抉れたと、先ほど彼が言っていた。
『足場がモロくなってたんだ!』
俺はすぐさま、桜ちゃんを追って暗い海に飛び込んだ。

夜の海は真っ暗で、何が何だかわからなかった。
それでも俺は、彼の気配をキャッチする。
『くそっ、服ってやつは泳ぐのには邪魔だ』
水を吸った衣服が、重く俺の体にまとわりついた。
犬だったときは、よく川に連れて行ってもらい泳いだものだ。
『シンは泳ぐのが上手だな』
あのお方は、いつも俺のことを誉めてくださった。

『そうだ、俺は泳ぐのが上手いんだ!』
自分を奮い立たせると、俺は桜ちゃんの気配に向かい懸命に泳ぎ始める。
気配は水中に没していた。
暗すぎて、自分がどこに向かい泳いでいるのか定かでなくなってくる。
しかし、桜ちゃんの気配は微かな明かりのように、俺の心に届いていた。
指先に桜ちゃんの衣服が触れる。
俺はそれを必死で自分の方に引き寄せた。
月明かりに向かい、俺は上昇する。
海面から顔を出すと、今度はランプの明かりを目指して泳いでいく。
俺は、何とか桜ちゃんを元居た場所に引き上げることが出来た。

桜ちゃんはゲホゲホと咽せながら海水を吐き出した。
奇跡のように、耳には彼の眼鏡が引っかかっていた。
意識があるようなので、俺はホッとする。
「桜ちゃん、大丈夫?」
俺が聞くと彼はギクシャクと頷いて
「しん…ご…、ありが…と…」
何とか言葉を発しようとしていた。
大丈夫そうな彼の様子を確認すると
「俺、ちょっと行ってくるわ」
そう言い残し、俺は再び暗い海に舞い戻る。
桜ちゃんを海に引きずり込んだ魚に一撃くれてやらないことには、腹の虫が収まらなかったのだ。
海に飛び込んだ俺の耳に
「新郷…?新郷!
 行かないでくれ!新郷ー!!」
桜ちゃんの絶叫が響きわたっていた。
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