空翔けるうた~03~

「うー…ん…」
雀の囀りが聞こえ、柳宿は目を覚ました。
「頭…いたーい」
その後すぐに襲われた頭痛で、すぐに昨夜もやってしまった事を悟る。

いつまで経っても、朝にならないと気付かない酒癖。それは時にとんでもない事態を招くというのに、不思議と彼女はこの日まで何のトラブルに巻き込まれる事もなかった。
そう。今日、この日までは。

「おはよう。柳宿」
「え…?」
隣からは、男性の低い声。
まだ空ろな目で振り返ると、そこには昨日共演した男性アーティストの姿がある。
シーツから覗くのは、彼の色気のある肌。
そして、自分の体は…

「―――――っ!!!!」

無防備なキャミソール一枚。
慌てて、起き上がった。
そこは、高級ホテルのスイートルーム。
二人は、今、豪華な天蓋ベッドに寝ていたのだ。

「ほ…星宿さん!?あ、あたし…何で…!?」
「昨日は、君、荒れに荒れてね。このままじゃ帰せないと思って、僕がここに連れてきたんだよ」
「そ、それは…申し訳ありませんでした…でも!でも、これって…」
そこで、星宿は柳宿の両肩を掴む。
「大丈夫だよ…何もしていない。汗をかくだろうと思って服は脱がせてもらったけど、あんなにぐっすり眠ってる君には手を出せないよ」
「で、でも…」
明らかに解放してくれないだろう体制になり、身を竦めながら相手を見上げる。
彼もその気はないようで、憂いを帯びた瞳で自分を見下ろしている。
「でも…君のこれからの返事次第では、この先を続けさせてほしい」
「な………!!」

「空翔宿星の活動時から、好きだったんだよ。君の事が…今回、君がソロ活動すると聞いて、僕も内密にリリースを合わせたんだ」

「星宿さん…」
「君と翼宿の関係には、気付いていた。だけど、今回の分裂騒動、君の曲の歌詞、そして昨日の君の荒れ様で、彼は君に酷い事をしたんだと分かったよ」
「…………っ」
「僕は、そんな事はしないよ。ずっと、君の傍にいる。絶対に、君を一人にはしないから」
まっすぐに愛を訴えかけてくる雰囲気…柳宿は、この雰囲気が一番苦手だ。
それでも、今の自分に他の男を見る気は毛頭ない。
それを伝えようと、口を開きかけた時。
ドサ…
そのまま、再び寝台に体を沈められた。
「星宿さん!?」
「柳宿…愛してるよ」
「待って…話を聞いて…」
星宿のしなやかな指がキャミソールの隙間から入り込み、思わず身をよじる。
彼の吐息が耳にかかり、鳥肌が立った。
「忘れさせてあげるよ…僕が…」
「…………嫌っ!!」
自分にむしゃぶりついてくる相手の肩を強く押した時、柳宿の頬には涙が伝っていた。
「あ…」
「星宿さん…ごめんなさい!こんな事になって…だけど、あたし、まだあの人が好きなんです!忘れたくないんです!」
「なぜ!?彼は、もう戻ってこないかもしれないのに…」
乱れたキャミソールを両手で押さえ、息を整えながらこう告げる。

「それでも…好きなんです」

他の男に肌を触られて、気がついた。
忘れられない。
忘れられる訳がない。
たくさん迷惑をかけても、それでも愛してくれたあの人を。
仕事に私情を挟まないと約束したのに、優しく抱いてくれたあの人を。
いつもいつも自分を励ましてくれた、太陽のような笑顔を持つあの人を。

その強い意思に、星宿は再び彼女を押し倒す事が出来ない。
呆然とする彼の横で、柳宿は素早く着替えと鞄を手に取り。
「…ごめんなさい」
足早に、その部屋を後にした。

「何なんだろうな…あの二人の間にあるものは…」

取り残された星宿は、自嘲の笑みと共にそんな言葉をこぼした。


「はあ…はあ…」
ホテルのロビーの壁に凭れ、鞄を両手で抱きしめる。

あたし…何て事を…

今の状況を振り切ってきたところで、柳宿の中の女としてのプライドは少なからず傷付いていた。
無防備で思わせぶりで危なっかしい自分を、叱咤しても叱咤しきれない。
こんな時、ソロ活動は何て孤独なのだろうと思った。
昔は、自分を励まして叱って支えてくれた二人の仲間がいたのに…
夜遅くなると、必ず一緒に帰ってくれたあの人がいたのに…

「…柳宿!?」

その時、誰かに声をかけられた。
顔をあげて相手を確認して、思わず顔が歪んだ。
「たま…」
そう。それは、かつての一人目の仲間の姿。
相手は、慌てて駆け寄ってくる。
「おま…!何してたんだ!?連絡もつかない状態で!真夜さんから連絡受けて、俺ら、今まで必死で探してて…」
穏やかな彼には珍しい強めの声で、柳宿を叱りつける。
その反動で、我慢していた涙がポロポロと零れ落ちた。
「ぬ…柳宿!?お、おいおい…」
「ごめん…ごめんなさい…たま…」
ホテルの目の前で、大泣きする女とそれに戸惑う男。
明らかに不自然なこの状況に気付き、鬼宿は慌てて柳宿を自分の車に誘導した。


「はい…見つかりました。大丈夫です。ご心配おかけして、すみませんでした…」
泣き止まない柳宿を車の助手席に乗せて、鬼宿はやっと社長に保護の連絡を入れた。
電話を切ると、俯いたままの彼女に今度は優しく声をかける。
「柳宿。飲むか?」
「………うん」
「さっきは、ごめんな?ちょっと…言いすぎた」
「ううん…当然だよ」
手渡された缶コーヒーを握り締めたまま、柳宿は、依然、相手の顔が見られないでいる。
「それにしても、お前、何であんなところから一人で出てきたんだ?」
「………星宿さんに、連れ込まれたの」
「ぶっ!!」
自分の分の珈琲を口にしたところでその返答を聞き、鬼宿は大袈裟に珈琲を噴き出した。
「お、お前!何、やってんだよ!」
「ごめん!でも…昨日、星宿さんとご飯食べた時に、あたしスゴく酔ってたみたいで…それを見かねて、彼がホテルに運んでくれたみたいなの。記憶にはないんだけど、朝に目が覚めるまでは何もしてないって」
何もしていないと知り、とりあえずは安堵する。
だが、その後は恐らく逃げてきたんだろうと察した。
そうでもしなければ、きっと彼女は、今、ここにはいない。
「………柳宿」
「…ん?」
「お前、会ったんだろ?あれから、翼宿に」
あれから…それは、三人が再会したあの日から。
鬼宿と柳宿は、柳宿の活動が始まってから中々会う事が出来ないでいた。
なので、あの日以降のお互いの動きを彼らは知らない。
「会見の日、会場まで会いに行ったの。そこで、派手にフラれた」
「…何で、俺に言わないんだよ?」
「だって…あんたも、今はあの会社の社員じゃない。余計な事して、ペース乱したくなかったから」
「…それで?お前自身、それで踏ん切りはついたのかよ?」
その言葉には、柳宿は素直に首を横に振る。
「翼宿が、LAに残って心変わりしたならいいの。あたしも仕事があったし、それなりに忘れようとしてた。だけど…今回、星宿さんに抱かれそうになって浮かんだのは、やっぱりあいつの顔だったんだ」
「……………」
「あたし、往生際悪いよね…」
「いや…あんなに好きだったんだから…仕方ねえだろ」
その言葉に顔をあげると、また涙が頬を伝った。
鬼宿が、優しい目でこちらを向いている。

「簡単に吹っ切れられたら、俺らが拍子抜けするよ」

「たま…」
再び俯いた柳宿の頭を、彼の手がそっと撫でた。
「辛いだろ?俺も、同じだよ。俺だけじゃない。あの会社の人間は、今でも翼宿の事を引きずってる。…一人で抱えるなよ、柳宿。お前は、今も、yukimusicの家族だろ?」
「……………っく」
ソロ活動をしたって、自分は一人ではないんだ。
社長がいて、真夜がいて、鬼宿がいて、あの人がいない以外は何も変わらないのに。
「ごめんなさい…たま…ごめんなさい」
「まあ、俺もどこまでお前を支えてやれるか分かんないけど…他の男よりはお前の事分かってるつもりだから。何かあれば、頼れよ。な?」
頷くと、手元の缶コーヒーを少し含んだ。
「だけど…本当に、あいつ…全部が全部変わっちまったのかなあ」
「え?」
「こないだ、マイケルの日本の慰霊碑に墓参りに行ってきたんだ。その時、あいつ…一人で、来てたんだよ」
鬼宿は、思い返す。数日前の出来事を…


「ったく…社長も、相変わらずお気楽だよな。今日がマイケルの月命日だったの、すっかり忘れてただなんて…」
本当は取締役が訪れるべき墓参りに派遣されていたのは、なぜか鬼宿。
いつも通りのパシりという訳だ。
すると霊園の階段の向こうから、覚えのある香の香りが風に乗って流れてきた。
「あれ…?」
それは、親友がいつも好んで吸っていた煙草の香り。
見えてきたマイケルの慰霊碑の前には、屈んで一人煙草をしている翼宿の姿があった。
「翼宿…」
瞬間、声をかけるのをためらったが、その横顔はとても寂しそうに見えて。
活動中も見た事がないような、そんな表情だった。
だから、次にはゆっくりと彼に近寄る自分がいた。

「お前も、覚えてたんだな。マイケルの月命日」

何ともないように声をかけると、翼宿は顔をあげた。
特に驚きもせず、くわえていた煙草を焼香と共に並べる。
「夕城社長は、相変わらずだよ。俺が声をかけるまで、忘れててさ」
手元の柄杓に水を掬って、空いている花挿しに注ぐ。
花を供えるために自分も彼と同じ高さに屈んで、そして横にいる親友を見やった。
「お前も、こういう義理深いところは変わってなかったんだな」
相変わらず、彼は黙ったままだ。
それは意図してなのか、動揺しているだけなのか。
そこまで探るつもりもなく、鬼宿は線香に火をつけて手を合わせた。

「………たま」

目を開くと、隣の親友が自分の愛称を呼んだ気がした。
「え…?」
「いや…」
しかし、次には彼はそれを振り切るように立ち上がる。
コートに手を突っ込んで、その場を離れようとした。
「…翼宿!」
「…………」
呼び掛けると、翼宿は立ち止まる。

「俺は、お前の事、今でも親友だと思ってるよ!どんなに煙たがられても…さ。だから、お前も何かあったらいつでも相談しろよ?待ってるからな!」

その言葉を聞くと、彼はまた歩き出した。


「…悩んでたように、見えたんだよ。大体、マイケルとポールが対立していたのは結構有名な話でさ。今、ポール側についてるあいつが、マイケルの墓を参るなんて考えにくいよなって」
「うん…」
翼宿に、何かあったのだろうか?
そして、今、彼の気持ちはどこに?
鬼宿も柳宿も、考えを巡らせる事しか出来なかった。


ちょうどその頃、こちらも頭を抱えている人物が一人。
「………来週のMUSIC FAIRの共演者が、翼宿か」
昨夜の内に届いていたFAXの内容に、夕城社長は深くため息をついた。
不覚にも、今まで避けて通ってきた翼宿と柳宿の共演が決定したのだ。
これも、グローバルミュージックの計らいなのか。
「柳宿が見つかったと思ったら…早速、これだもんな」
「今の彼女を追い詰める事にならなければいいですけどね…」
彼の前に立っているのは、柳宿のマネージャーの真夜だった。
「社長…今回は、すみませんでした。わたしが彼女から目を離したばかりに、こんな事態に…」
「まあ詳細は分からないけど、鬼宿がついてるし、今回の件は大丈夫だろう」
「だけど…これからは、わたしが責任を持って送り迎えまで担当します」
「そうだな…そこは、頼む」
今までは、翼宿がいたから柳宿の身辺は特に心配していなかった。
しかし詳細は聞かずとも、今回の件で女性の柳宿が危険な目に遭っていた事は否めない。
だからこそ、真夜の存在は彼女にとって今後重要になる存在なのだ。
「けど、君の頑張りには感謝しているよ!真面目だし勤勉だし…入社一年目なのに、よくやってくれてるな」
その言葉に、真夜はほんの少し頬を染めた。
「そんな…わたしはただ…頑張ってる社長に協力したいだけですよ」
「………へっ!?」
「い、いえ!何でもないです…失礼します!」
心の声が漏れていた事に気付き両手をブンブンと振ると、彼女は慌てて退室した。
残された社長は、閉められたドアをポカンと見つめる。
「あんな若い子に…?いやいや!遂に、耳からおかしくなっただけだろ…」
一人突っ込みで締めた後も、動揺した手元は覚束なく気付けは目の前の書類の山を豪快に取り崩していた。


コツコツ…
「言えないよね…社長に一目惚れしてこの会社に入社したなんて…言えない。言えない…」
真夜は独りごちしながら、階段を早足で駆け下りていた。
年齢差はあるが、彼女があの社長を見初めているのは事実のようだ。
だから、背後にある人の気配には気付く事もなく…
『真夜さん』
英語で名前を呼ばれ、一瞬、反応が遅れた。
「え…?」
『余所見は、いけませんよ』

ドン…

足下にまだ十分段差が残っている状態で、軽く押された真夜の体は宙を舞った…


ドサドサ…
「ん?」
階段の物音など、社長室には聞こえる筈がないのだが。
この時の社長には、何かが聞こえたような気がした。
だから、自然と部屋の扉を開けていて…
「………真夜?」
今しがた、出ていった人物の名前を呼ぶ。
階段の踊り場は、しんと静まり返っている。
「気のせいかな…」
それでも気になり、そのまま階段を下りて下まで様子を見に行く事にした。
いくつかのフロアを下り、二階と一階の間のフロアに差し掛かった時。

「………真夜!?」

階下に、彼女が倒れている姿が見えた。
慌てて駆け寄ると、後頭部からは止め処なく血が流れている。
「おい、真夜!どうした!?しっかりしろ…」
「社長…」
「何してるんだよ!お前…落ちたのか?」
「気をつけて…社長…」
「え?」
今にも意識を失いそうな瞳で、彼女は自分をまっすぐに見てそう訴えかける。
「もしかしたら…柳宿さんが…彼らに…グローバルミュージックに…狙われてるかも…」
「何だって!?まさか…お前、誰かに突き落とされて…!?」
しかし、そこで真夜の意識は途絶えた。
「お、おい!真夜!真夜!!」

カタン…バタバタ…

すると、前方で誰かの足音が聞こえた。
顔をあげると、来客用玄関へ向けてスーツ姿の男が去っていくのが見えた。
その髪の毛は、銀髪。日本人がするようなヘアスタイルではなかった。

「………ポール」

唇を噛み締めながら、社長は今回の首謀者の名前を呟いた。
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