空翔けるうた~01~

「ただいま~…」
翼宿のライブの日、柳宿は大学を終えて帰宅していた。
ライブに行こうかはまだ迷っていたので、荷物を一旦置いてから…と考えたのだ。
「柳宿!ちょうどよかったわ。あなた宛に郵便が届いてね…」
自室に入ろうとしたところで母親に声をかけられ、咄嗟に嫌な予感がした。
「こないだ送ったあなたの履歴書!書類選考通過したのよ!母さん、これであなたがまたひとつ夢に近づいたと思うと嬉しくって…」
「………お母さん。もう、その話やめてよ」
「柳宿………まだ、諦めていないの?ピアノ」
柳宿は外出の準備をしていて、母親の方を向こうとしない。
「お母さん…忘れちゃったの?お父さんの事。あたしにピアノを教えてくれた、お父さん。あたしは、お父さんのお陰でどんどんピアノが好きになったの…お母さんだって、その時はあたしがピアニストになる夢、応援してくれてたじゃない。なのにお父さんが死んで今のお父さんと再婚したら、女優に育て上げる?あたしの人生…何だと思ってるの?」
振り向かない柳宿の隣に座った母親は、宥めるように声をかける。
「柳宿!そんな事、言わないのよ?お父さん…柳宿がとても綺麗だから…って認めてくれて、女優業を薦めてくれてるの。いい話じゃない。ピアノを弾くよりもたくさんの人と出会えるしあなた自身が成長するって思えたから、お母さんも…」
「それでも!!」
言葉の続きを遮るように振り向いた柳宿は、母親を強く睨みつける。

「あたしは、ピアノを弾きたいの…!お父さんとの思い出を、忘れたくない…!だから…!」

そこまで吐き捨てて立ち上がると、そのまま玄関へ走っていく。
「柳宿!また、出かけるの?そういえば、最近、あなた帰りも遅いわよね?外で一体何して…」
バタン!
ドアを思いきり閉めた後、ため息をついて空を見上げた。

柳宿がピアノにここまで執着する理由は、もうひとつあった。
幼い頃、大好きだった父親にピアノを教わった思い出を消したくないから。
あの時に父親と約束したピアニストになる夢を、どうしても叶えたかったから。

それでも、時の流れは残酷だ。
そんな父親が病死し、程なくして母親は新しい再婚相手を見つけた。
大人になるにつれて容姿が整ってきたと言われてきた自分を女優にさせたいと言われたのは、本当に突然の事だった。

あたしの夢…本当に、ここで潰されちゃうのかな…?

唇を噛んで瞳の端に滲んだ涙を堪えると、柳宿は駅の方向へと歩き出した。


ザワザワ…
午後6時。翼宿のバンド「FIRE BLESS」ラストライブの開場の時間。
ライブハウスには、メンバーと同年代の客ですっかり溢れ返っていた。
こっそりと会場に入った柳宿は、その人だかりの最後尾に落ち着く。
(結局、来ちゃった…いいよね?せっかく、誘われたんだし…)

「勿体ないよね~FIRE BLESS!せっかく波に乗ってきて、もうすぐインディーズデビュー出来たかもしれないんでしょ?」
「最近、転入してきたボーカルが、いい声してるんだよな。あいつの希望で、解散らしいぜ?」
目の前で繰り広げられるているのは、例のバンドの噂話のようだ。
翼宿の希望で解散…就職先でも決まったのだろうか?
メンバーと同じ大学の人が多いらしく誘ってくれた青年もいるのではないかと辺りを見渡したが、それらしき姿はない。
そうこうしている間に、バンドメンバーのスタンバイが始まった。
暗闇の中でよく見えないが、その中央にあの橙頭が微かに見える。
柳宿の鼓動が鳴り…そして、スポットライトが辺りを照らした。


♪虹が見える空を目指し、いつも夢だけ追いかけてた。
君を歌う僕の声が、今聞こえますか―――?

(あっ…)

翼宿のボーカルから始まる曲が流れると、一瞬、耳を疑った。
男性が出しているとは思えないほど、澄んだ美しい声…
そこから演奏は激しくなり、ライブがスタートした。
観客は拳を振り上げて、盛り上がる。

その中で、柳宿だけ時間が止まったようだった。

♪この空の向こうに
過去も未来も重ねて 一緒に行こう…

夢だけをただがむしゃらに追いかけている自分に、自信がなくなる時だって何度もあった。
それでも夢を追い続けている人は、みんな仲間だよ。一緒に行こうと。
赤の他人が書いた詞だったとしても彼の口から紡ぎ出されるその歌詞は、彼のメッセージとなって柳宿の胸に訴えかけてきているようだった。

会場の興奮がピークに達している中、柳宿はただその場に立ち竦んでいた。
頬を流れている涙にも気付かずに…



『本日は、ご来場ありがとうございました。一部のメンバーの皆さんが、会場出口で皆さまをお待ちです。どうぞ、速やかにお進みになり…』
気がつけば演奏は終わり、会場内には閉演のアナウンスが流れていた。
(やだ、あたし…全然気付かなかった。いつ、終わってたんだろう)
時間が経つのも忘れて彼らの世界に浸っていた柳宿は、やっと我に返る。
慌てて涙を拭き出口を目指すが、そこで足を止めた。
(まだ、いっか…もう少し、いさせてもらおう。人混みも、あんまり得意じゃないし…)
側にあったカウンターの椅子に腰掛ける。
あっという間に観客はいなくなり、撤収のスタッフも出払った。
恐らく外は大変な騒ぎになるだろうと、スタッフも全員出ているのだろう。
まだ片付いていないステージの上を、柳宿は眺める。

いいなあ…あたしも、あんなキラキラした場所に立ってみたいな…

お嬢様のように大切に育てられてきて、通っている大学も女子大で。
そんな自分がきらびやかなバンドの世界に興味を持つなんて、思いもしなかったが…
街の片隅の飲み屋でこっそりピアノを弾いているだけの柳宿にとって、全身で音楽を表現出来るこの世界がとても大きくて偉大なものに感じた。
もう少し…このまま余韻に浸っていたい。

カタン…
すると、入口の扉が開いた。
スタッフだろうかと、慌てて帰る準備を始めると…

「あれ…お前…」

どこかで聞いた事のある声に顔をあげると、そこにはあのベースボーカルが立っていた。
「あ…こ、こんばんは…」
「もしかして、来てたんか?」
「はっ…はい!あの…お疲れさまでした!」
翼宿の他に、入ってくるメンバーはいなかった。
「あの…?他の方は…?」
「ああ…出口で、客にサービス中や」
翼宿は苦笑いしながら、カウンターに肘をかけ煙草に火をつけた。
「翼宿さんは…行かないんですか?」
「俺は、ファン作る為にバンドやってる訳じゃないからな…今日の客も、ほとんど他のメンバーのダチや」
「あ…あの日、一緒にいた方は…?」
「たまの事か。あいつの妹が急に高熱出したらしくてな、今日は来られなかったみたいや」
「そ、そうなんですか…」
彼が煙を大きく吐いた事で暫しの沈黙が訪れ、その中で柳宿はまたぼっと翼宿の姿を見つめる。
橙色の髪の毛を悪戯に散らし、耳にはピアス、首には厳ついネックレスをしていて、旗から見れば近寄りがたいオーラを醸し出している筈なのに。
端正な横顔に切れ長の瞳、がっしりとした腕に細い指先。すらりとした長い足は、まるでモデルのようだ。
男性とマトモに接してきた事がない自分にとっては、翼宿はまさにキラキラ輝くスターのように見えた。
「すまんな。あの日は、あいつが勝手な事して…いきなりで、ビビったやろ?」
暫しその姿に見惚れていた自分にかけられた言葉に、ハッと我に返る。
「い、いえ!嬉しかったです!あそこのお店は中年のお客様しか来ないと思っていたので、同い年くらいの方と知り合えるなんて思わなくて…」
「………それ、簡単にナンパに引っ掛かるタイプやで」
「………っ!」
「…冗談や。せやけど、あんたみたいな人にはこんなチャラい世界合わんかったんちゃうか?」

「そんな事ないです!!」

柳宿はそこで大声をあげて、突然、翼宿の前に立った。翼宿は驚いて、たじろぐ。
「凄かったです!あなたのボーカルもベースも、全身にじんじん伝わってきて…あたし、こんな感覚初めてでした。いつ演奏終わったのか分からなかったくらい、引き込まれちゃって…」
早口で感想を述べられてポカンとする翼宿に気付き、そこで柳宿は頬を染めた。
「ご、ごめんなさい…!あたし、一人で興奮しちゃって…」
「ふっ…」
すると、途端に翼宿は小さく笑い出す。

笑った…

「いや。すまん…そんなに目の前で興奮されたの初めてで…ありがとな」

初めて見る彼の笑顔に、また心臓が早鐘を打つ。
(な、何…?こないだから、変よ?あたし…)
「まあ、あんたも頑張れや。あんたのピアノ、たまが絶賛しとったで」
翼宿は、側の灰皿で煙草の火を消す。
途端に頭を過るのは、夕方の母親との口論だった。
「ほな、気をつけて帰れや。ここら辺暗いし、それこそナンパに引っ掛からんようにな…」

「………帰りたくないな」
「えっ?」

その場を去ろうとした翼宿の足が、止まる。
「あたし…もうすぐ、親に夢を奪われちゃうの」
「…………?」
「両親は、あたしを女優にしたいんです。ピアノを続ける事を許してくれなくて…あそこでバイトしてるのも、両親には内緒なんですよ」
先程の顔つきとは裏腹に急に寂しげに瞳を伏せる柳宿の姿に、翼宿は何も言えないでいた。
「あなたが羨ましい。音楽を愛して楽しんでいる気持ちが、素人のあたしにも伝わってきました…」
暫く流れる沈黙に気付き、柳宿は顔をあげる。
「すみません、こんなお話!今日は、ありがとうございました!誘ってくれたお友達にも、よろしくお伝えください!」
そのまま無理に笑うと、柳宿はその場を立ち去った。


翼宿は壁に寄りかかり、そんな彼女の後ろ姿を見送る。

『…にしても、あの柳宿って子。いい子そうだしピアノ上手かったし、まさかって事ねえかなあ?』

鬼宿のあの日の言葉が、頭を過るが。

「いや…女はあかんやろ…」

それを振り払うように、翼宿はまた呟く。


彼女が、もし自分達の世界に心揺れ動いたとしても…
どこかに連れ出してほしいというような瞳を向けていたとしても…
今の翼宿には、その願いを叶えてやれる自信がなかった。
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