ハルジオン

凛は、ふっと瞳を開けた。目の前には、広い天井。
だがそれは、昨日まで自分が見上げていた屋敷の天井ではない。
薄暗くてどこか侘しさを感じる、草葺屋根の冷たい天井。
「目が覚めたかい?」
程なくして懐かしい声が聞こえ、顔を動かすと椀に粥を注ぐ老婆が座っていた。
「おばさま…また、お世話になってすみません」
「なあに…遠慮する事はないよ。使用人は、中々生きづらい世の中だからね。だから、お前も少し疲れたのだろう」
両親がいない凛にとって、この母方の叔母が唯一の身寄り。
前に使用人を辞めた時も、次の仕事が見つかるまで彼女の元で世話になった。
凛は厲閣山を飛び出した後、叔母の家に辿り着きそして倒れたのだった。
「まだ、少し微熱があるようだね」
「こんなの、平気です。早く元気になって、また畑を手伝いますね」
しかし凛のこの言葉に、叔母は悲しそうに顔を曇らせた。
「実はね…先日、畑荒らしにやられてしまって。作物を作れる畑が、もう残っていないのだよ」
「えっ…!?」
「まあ、わたしもこんな老いぼれだ。そろそろ土いじりはやめて、迎えが来るのを待てという暗示かもしれぬ」
「そんな…!おばさま、まだまだお元気じゃないですか。そんな悲しい事を言わないでください」
「ふふふ…ちょっと、都まで買い出しに行ってくるよ。そんなこんなで、畑の作物で夕食が作れないのでね」
優しく微笑んだ叔母は重たそうに腰を持ち上げると、玄関へ向かっていった。
年々、身体がきつくなってきているのは、本当のようだ。
凛はため息をつきながら起き上がり、枕元の粥に手を伸ばそうとした。
するとその横に自分の携行品を並べた漆器があり、その中には。
「………あ」
いつも肌身離さずつけていた、あの紅い首飾りがあった。
そっと伸ばした手に、それを取る。今も、朱色の宝石は美しく輝いている。

翼宿さん…これで、よかったんですよね。
あなたの立場を守るには、わたしから去らなければいけなかった。
どうか大切な厲閣山と大切なお仲間と、いつまでも楽しく暮らしてくださいませ―――

わたしは、また振り出しに戻るだけ。
そう自分に言い聞かせても、頬には自然と涙が流れていた。


「よいしょ…っと」
数日後、すっかり体調がよくなった凛は、一人庭に出ていた。
畑荒らしに遭ったばかりの庭は、農具や肥料が散乱していた。
今、まさに凛は田畑の再生を試みようと、ここにやってきたのだ。
叔母にはそんな事せずともよいと言われたが、自分が元々農作物作りに興味があるので再生した畑でもう一度農業をやりたいという理由もある。
傍らにあった鍬を手に取り、凛は一呼吸置いた。
考えてみたらこれまでは力仕事は全て叔母に任せていたため、このように鍬を持つ事もなかった。
ここは厲閣山ほど温暖な気候でもないため、苦手な昆虫にも出会わなかった。
鍬を持ったのは、苦手な昆虫に出くわしたのはあの日。あの時。初めて畑作当番という仕事を請け負った時。

『…そんな姿勢でやってたら、明日は一歩も動けへんで』

今も耳に残る、あの時にかけられた少し腑抜けたような関西弁。
少しだけ暖かい気持ちになった凛は微笑み、鍬を精一杯降り下ろした。

翼宿さん…わたし、忘れません。厲閣山で学んだ、たくさんの経験を。出会えたたくさんの笑顔を。
いつかあなたが本当に幸せになれるその日が来たら、その時は精一杯祝福を―――

「………せやから。腰の入れ方が、ちゃうねんなあ」

…………………………
「え?」
耳に届いたのは、あの日と同じ腑抜けた関西弁。
顔を横に動かすと、彼がいた。夕焼けに染まるオレンジ髪の彼が。
「…………翼宿さん!?えっ!何で!どうして!?」
慌てふためく凛の顎を、翼宿は間髪入れずに掴んだ。
「迎えに来たで、凛。今夜は、祝言なんや」
そしてその悪戯っぽい目で、自分を見下ろしてくる。
「はい?」
「せやから、祝言や!俺とお前の」
「ど、どうして!?わたし達は、もう…」
「何が、わたし達や!勝手に夜逃げみたいな事したんは、そっちやろが」
「で、でも…」
そこでひとつため息をつくと、翼宿は右手を凛の頭に置いた。
「強情なお前の事や。俺のために~とか考えて出てったんやろうから、俺もお前のために色々片付けるまで迎えには来んかった」
「片付けるまで…?」
「あの後、確かに数人は厲閣山を辞めていった。せやけど残りの奴等は、俺の幸せを考えて賛成してくれたんや」
「本当ですか…?」
「ああ。せやから女子禁制は廃止にして、まずはお前を嫁にもらう。それからは俺とお前で淫らな男女関係がないか、定期的に監査していこうか思うてな」
自信満々に求婚してくる翼宿の笑顔には、してやられてしまう。
凛はポカンとしていたが、次にはちょっと大袈裟に噴き出した。
「な、何やねん!何か、文句でもあるんか?」
「翼宿さんがそんなに先々の事まで考えていたなんて、何だか展開が早すぎて…」
「せやからそこまで決めへんと、またお前がな…とにかく!」
「えっ…ひゃあっ!」
言葉の続きで、翼宿は凛の体を高々と持ち上げた。
「嫌とは言わせへんで?俺は、お前をさらう!もう決めたんや!」
強引だけど本当は耳まで真っ赤な彼の顔を見つめ、凛も嬉しそうに腕を絡めた。
「…嫌だなんて、そんな事ありません!わたし、今でも翼宿さんが大好きです!」
「………っ。凛」
「翼宿さんがよければ、これからもあなたの力に…」
そこで自分の唇を、チュッと啄むものがあった。翼宿の可愛らしい口付け。
「………当たり前やろ。お前がええんや」
額と額を突き合わせ、共に満開の笑顔を咲かせた。が。
「あ。でも、翼宿さん」
「?」
「せめて、ここの畑…作ってからで」
その言葉で足元に乱雑に広がる田畑を目にして、翼宿は豪快にため息をつくと凛を降ろした。
「ほんなら、急ピッチで進めるぞ!お前に任せてたら、夜中になってまうからな!」
「はい!お願いします!!」
そんな二人の楽しそうな背中を、叔母は穏やかな目で見守っていた。


この後に待ち受けるのは、厲閣山の掟を変革する歴史的な祝言。そして、二人の新しいはじまり。
上手く行かない事だってあるだろうけど、もう二度と逃げない。
だってどこにいたって、あなたは必ずわたしを見つけ出してくれるのだから―――
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