ハルジオン
コツコツコツ…
屋敷の長い廊下を渡りながら、凛はある人物の部屋へ向かっていた。
徳利と杯をのせた盆を手にしたその面持ちには、どこか緊張が走っている。
角を曲がった先の頭の大部屋の扉の前に、彼はいた。
柵に寄り掛かり、ぼんやりと外の景色を眺めている。
「翼宿さん」
名を呼べば、彼は穏やかな微笑みを浮かべながらこちらを向く。
「お待たせしました…」
「おう」
今日は、彼との約束の夜―――
「乾杯」
カチン
二つの杯をかち合わせた二人は、注がれた酒を喉に流し込む。
「………くうう。相変わらず、きつい酒やなあ」
「さっきも浴びるように飲んだんですから…少しだけにしてくださいよ?」
「お前こそ飲んだら更に暴走するとか、あらへんよな?」
「大丈夫です。お酒だけは、大得意なので!」
東の部族とのやり合いは無事に厲閣山の勝利となり、先程まで山賊をあげての打ち上げが行われていた。
飲むわ食べるわ騒ぐわのお祭り騒ぎの中でも、使用人達は忙しなく動かされていた。
そして山賊のほとんどが酔いつぶれてきた頃に、漸く二人が晩酌に抜け出す機会が巡ってきたのだ。
何よりも、頭直々の初めての指名でのお世話。嬉しさと緊張が、半々の気分である。
「でも…落ち着きます。こうして静かな場所で、二人でお酒が飲めるなんて」
だからなのだろうか?凛の口からは、思わず正直な言葉が飛び出していた。
慌てて口を押さえて隣を見るが、彼は特に驚いた様子を見せていない。
「………ん。せやな。俺もや」
それどころか思ってもみなかった同調の言葉を返されて、馬鹿正直に頬が染まった。
山賊の仲間とワイワイ語りながら笑っている彼も好きだが、二人きりになる時にふと見せる落ち着き払った表情を見せる彼もまた好きだ。
何だか、自分に心を許してくれているみたいで…
しかしそこまで考えて、ブンブンと頭を振る。
この山の掟を侵す「好き」という感情を自然と認めているなんて、自分は何をしているんだろう?
きっとこんな事を知られたら、隣の彼は怒るに違いない。きっと、クビだ。
「いきなり黙って、何、考えとんねん」
「い、いえ!お酒が、美味しくて…」
翼宿の言葉にひゅっと肩を竦めて、誤魔化すようにぐいとお酒を飲み干すと。
「………お前、恋人とかいた事あるんか?」
「………ぐっ!?」
突然飛んできた突拍子もない質問に、流し込んだ酒が気管支に詰まった。
「何しとんねん、お前は~」
「た、翼宿さんのせいですよ!………どうしたんですか!?いきなり、そんな質問…」
「東の部族とのやり合いの前にな、一人解雇したんや。その理由が、外に女が出来て真剣に将来を考えたいからって事やったから」
そういえばそれなりに歳を重ねていたらしき男の姿が、先日からなくなっていた。
厲閣山山賊はそんなに稼げる仕事ではないため、ときたま将来を考えて離脱する者もいるのであろう。
「俺には恋人っていう存在がよく分からないんやけど、そんなにええもんなんかなって思って」
「ふふ…羨ましいんですか?」
「そんな事は…!」
ちょっとからかってみると、今度は翼宿が少し頬を紅潮させて反論した。
「わたしには、一人だけお付き合いさせていただいた方がいました。だけど身分違いの恋で周りには反対されていて、一年足らずでその交際は終わりました」
「………そか」
「だけど、当時はとても楽しかったのを覚えています。もちろん涙もたくさん流しましたけど、嬉しい時も悲しい時も愛する人のために泣ける事がとても幸せに感じていて…」
お酒の力のせいか自然と口数が多くなっていた事に気付き、凛はそこで言葉を止めた。
「すみません。せっかくの晩酌なのに、わたしばかりが喋ってしまって…」
しかし横を向くと、翼宿は驚きの目をこちらに向けている。
首を傾げていると、彼はその理由を口にした。
「俺の巫女も、同じ事言うてたんや…」
「え…っ!?」
「俺がまだまだ餓鬼で恋愛のれの字も分からなかった時、巫女に言われた。お前と同じ事を………、………」
「………翼宿さん?」
不自然に言葉が途切れた事でますます首を捻っていると、翼宿は杯の酒をぐいと飲み干した。
「俺な。その時、巫女を無理矢理抱こうとしたんや」
「え………?」
「もちろん、シラフではないで?俺の心に出来た隙を、敵に利用されたんや。巫女と七星が恋仲だった時に男がいつも女を泣かせてて、何でそんなに泣かせるんやろうって疑問に思ってた。俺なら、女をあんなに悲しませる事はせえへんのにって…」
普段の彼からは考えられない真摯な言葉の数々に、徐々に胸が高鳴っていくのが分かった。
ああ。この人は、本当に…
「優しいんですね…」
「えっ…?」
「翼宿さんの恋人になるお方は、とても幸せだと思います。相手を泣かせたくないというその気持ちは、とても大事です」
「凛…」
そこで、手元の徳利が空になっている事に気付く。
話し込んで気付かなかったが、夜もだいぶ深くなっている。
「すっかり、遅くなっちゃいましたね…翼宿さんも、そろそろ休んでください!今夜は、疲れたでしょうから…」
片付けをして、おいとましようとしたその時だった。
ド………ン!
カラン…
翼宿の手が強めに自分の肩を掴んだ拍子に、手にしていた徳利が床に落ちる音がした。
驚き見上げると、翼宿の顔がすぐ近くにある。
壁に片手を突いた状態で、追い詰められていたのだ。
「翼宿…さん?」
「ほんなら、お前がここで教えてくれるか?その愛っちゅー奴を………」
「…………っ!!」
言葉を失っていると、彼の手が自分の顎をくいと掴む。
ほんの少し引き寄せられる互いの唇…吐息を感じたところで、ぐっと目を瞑る。
本当は、今すぐにでも彼がほしい。
けれど…けれど、こんな彼は…
「ダメです…翼宿さん」
小さく抵抗すると、翼宿は動きを止めた。
体が離れていくのが分かり、そっと目を開く。
そこには深く項垂れ、橙色の前髪で瞳を隠す彼の姿があった。
「あの…」
「すまん」
「え…?」
「これじゃあ、あん時と同じやな」
その言葉に、喉の奥がかあっと熱くなるのが分かる。
「俺は…優しくない。自分勝手なだけや」
「違うんです…そういう事では…」
慌ててフォローを入れようとするも、翼宿はもう自分の目を見る事はなかった。
「気にせんでくれ。飲みすぎただけや。俺、もう寝るから、お前も早く休め」
「………はい。では…おやすみなさい」
「おやすみ」
パタン…
扉を閉めたところで、脱力したように壁に背中を預ける。
もちろん、嫌ではなかった。本来ならば、彼とすぐに唇を重ねてしまいたい。
今の行為で彼のプライドが少なからず傷付いたのも、分かる。
だけど、自分はあの時、こう言っていた彼が好きだった。
『見て見ぬフリなんて、一番したらあかん。この山の掟を汚す奴に出入りされるんは、まっぴらや』
山の掟に忠誠を誓っていた彼が、気の迷いで自分と禁忌を犯す事が何よりも嫌だったから。だから。
彼を拒絶してしまった申し訳なさと行き場のない想いを胸にしながら、凛はその場を後にした。
屋敷の長い廊下を渡りながら、凛はある人物の部屋へ向かっていた。
徳利と杯をのせた盆を手にしたその面持ちには、どこか緊張が走っている。
角を曲がった先の頭の大部屋の扉の前に、彼はいた。
柵に寄り掛かり、ぼんやりと外の景色を眺めている。
「翼宿さん」
名を呼べば、彼は穏やかな微笑みを浮かべながらこちらを向く。
「お待たせしました…」
「おう」
今日は、彼との約束の夜―――
「乾杯」
カチン
二つの杯をかち合わせた二人は、注がれた酒を喉に流し込む。
「………くうう。相変わらず、きつい酒やなあ」
「さっきも浴びるように飲んだんですから…少しだけにしてくださいよ?」
「お前こそ飲んだら更に暴走するとか、あらへんよな?」
「大丈夫です。お酒だけは、大得意なので!」
東の部族とのやり合いは無事に厲閣山の勝利となり、先程まで山賊をあげての打ち上げが行われていた。
飲むわ食べるわ騒ぐわのお祭り騒ぎの中でも、使用人達は忙しなく動かされていた。
そして山賊のほとんどが酔いつぶれてきた頃に、漸く二人が晩酌に抜け出す機会が巡ってきたのだ。
何よりも、頭直々の初めての指名でのお世話。嬉しさと緊張が、半々の気分である。
「でも…落ち着きます。こうして静かな場所で、二人でお酒が飲めるなんて」
だからなのだろうか?凛の口からは、思わず正直な言葉が飛び出していた。
慌てて口を押さえて隣を見るが、彼は特に驚いた様子を見せていない。
「………ん。せやな。俺もや」
それどころか思ってもみなかった同調の言葉を返されて、馬鹿正直に頬が染まった。
山賊の仲間とワイワイ語りながら笑っている彼も好きだが、二人きりになる時にふと見せる落ち着き払った表情を見せる彼もまた好きだ。
何だか、自分に心を許してくれているみたいで…
しかしそこまで考えて、ブンブンと頭を振る。
この山の掟を侵す「好き」という感情を自然と認めているなんて、自分は何をしているんだろう?
きっとこんな事を知られたら、隣の彼は怒るに違いない。きっと、クビだ。
「いきなり黙って、何、考えとんねん」
「い、いえ!お酒が、美味しくて…」
翼宿の言葉にひゅっと肩を竦めて、誤魔化すようにぐいとお酒を飲み干すと。
「………お前、恋人とかいた事あるんか?」
「………ぐっ!?」
突然飛んできた突拍子もない質問に、流し込んだ酒が気管支に詰まった。
「何しとんねん、お前は~」
「た、翼宿さんのせいですよ!………どうしたんですか!?いきなり、そんな質問…」
「東の部族とのやり合いの前にな、一人解雇したんや。その理由が、外に女が出来て真剣に将来を考えたいからって事やったから」
そういえばそれなりに歳を重ねていたらしき男の姿が、先日からなくなっていた。
厲閣山山賊はそんなに稼げる仕事ではないため、ときたま将来を考えて離脱する者もいるのであろう。
「俺には恋人っていう存在がよく分からないんやけど、そんなにええもんなんかなって思って」
「ふふ…羨ましいんですか?」
「そんな事は…!」
ちょっとからかってみると、今度は翼宿が少し頬を紅潮させて反論した。
「わたしには、一人だけお付き合いさせていただいた方がいました。だけど身分違いの恋で周りには反対されていて、一年足らずでその交際は終わりました」
「………そか」
「だけど、当時はとても楽しかったのを覚えています。もちろん涙もたくさん流しましたけど、嬉しい時も悲しい時も愛する人のために泣ける事がとても幸せに感じていて…」
お酒の力のせいか自然と口数が多くなっていた事に気付き、凛はそこで言葉を止めた。
「すみません。せっかくの晩酌なのに、わたしばかりが喋ってしまって…」
しかし横を向くと、翼宿は驚きの目をこちらに向けている。
首を傾げていると、彼はその理由を口にした。
「俺の巫女も、同じ事言うてたんや…」
「え…っ!?」
「俺がまだまだ餓鬼で恋愛のれの字も分からなかった時、巫女に言われた。お前と同じ事を………、………」
「………翼宿さん?」
不自然に言葉が途切れた事でますます首を捻っていると、翼宿は杯の酒をぐいと飲み干した。
「俺な。その時、巫女を無理矢理抱こうとしたんや」
「え………?」
「もちろん、シラフではないで?俺の心に出来た隙を、敵に利用されたんや。巫女と七星が恋仲だった時に男がいつも女を泣かせてて、何でそんなに泣かせるんやろうって疑問に思ってた。俺なら、女をあんなに悲しませる事はせえへんのにって…」
普段の彼からは考えられない真摯な言葉の数々に、徐々に胸が高鳴っていくのが分かった。
ああ。この人は、本当に…
「優しいんですね…」
「えっ…?」
「翼宿さんの恋人になるお方は、とても幸せだと思います。相手を泣かせたくないというその気持ちは、とても大事です」
「凛…」
そこで、手元の徳利が空になっている事に気付く。
話し込んで気付かなかったが、夜もだいぶ深くなっている。
「すっかり、遅くなっちゃいましたね…翼宿さんも、そろそろ休んでください!今夜は、疲れたでしょうから…」
片付けをして、おいとましようとしたその時だった。
ド………ン!
カラン…
翼宿の手が強めに自分の肩を掴んだ拍子に、手にしていた徳利が床に落ちる音がした。
驚き見上げると、翼宿の顔がすぐ近くにある。
壁に片手を突いた状態で、追い詰められていたのだ。
「翼宿…さん?」
「ほんなら、お前がここで教えてくれるか?その愛っちゅー奴を………」
「…………っ!!」
言葉を失っていると、彼の手が自分の顎をくいと掴む。
ほんの少し引き寄せられる互いの唇…吐息を感じたところで、ぐっと目を瞑る。
本当は、今すぐにでも彼がほしい。
けれど…けれど、こんな彼は…
「ダメです…翼宿さん」
小さく抵抗すると、翼宿は動きを止めた。
体が離れていくのが分かり、そっと目を開く。
そこには深く項垂れ、橙色の前髪で瞳を隠す彼の姿があった。
「あの…」
「すまん」
「え…?」
「これじゃあ、あん時と同じやな」
その言葉に、喉の奥がかあっと熱くなるのが分かる。
「俺は…優しくない。自分勝手なだけや」
「違うんです…そういう事では…」
慌ててフォローを入れようとするも、翼宿はもう自分の目を見る事はなかった。
「気にせんでくれ。飲みすぎただけや。俺、もう寝るから、お前も早く休め」
「………はい。では…おやすみなさい」
「おやすみ」
パタン…
扉を閉めたところで、脱力したように壁に背中を預ける。
もちろん、嫌ではなかった。本来ならば、彼とすぐに唇を重ねてしまいたい。
今の行為で彼のプライドが少なからず傷付いたのも、分かる。
だけど、自分はあの時、こう言っていた彼が好きだった。
『見て見ぬフリなんて、一番したらあかん。この山の掟を汚す奴に出入りされるんは、まっぴらや』
山の掟に忠誠を誓っていた彼が、気の迷いで自分と禁忌を犯す事が何よりも嫌だったから。だから。
彼を拒絶してしまった申し訳なさと行き場のない想いを胸にしながら、凛はその場を後にした。