TSUBASA
朝露の中、朱雀学園の陸上部は朝練を始めている。
フェンスの向こう側には、その様子を眺めるかつてのOBの姿があった。
三年ぶりに見る練習風景は、あの頃と何も変わらない。
各々が各々を励まし合いながら、ランニングしている。
吐いた煙草の煙が、長く伸びた。
『あんたも…三年前…こんなに悔しい思い…してたんだよね………』
ガア…ン!
ふいにあの女の声が頭を過り、翼宿はフェンスを殴ってそれを打ち払った。
「何しとんねん…俺は…こんなトコで…」
昨夜、柳宿を襲った時から感じた体のだるさも相変わらず引かないというのに。
煙草を乱暴に投げ捨てると、背後に停めてあったバイクのエンジンを吹かした。
「…………、…………」
カーテンから差し込む朝日に、柳宿はそっと目を開けた。
上品なルームフレグランスの香りが、徐々に意識を引き戻していく。
「………ん」
隣から寝言が聞こえ、ふとそちらを見やると…
「………っ!」
一瞬、女性と見まごう程に整った容姿と透き通る肌の星宿が自分の枕元で眠っていたのだ。
ここは、星宿の部屋。なぜ自分がここにいるのか、全く覚えていない。
覚えているのは、確か、あの男に拒絶されたところまでで…
「柳宿?」
程なくして星宿の瞼が開き、柳宿は慌てて起き上がる。
「先生…おはようございます。あの…」
「ああ…あれから、お前、気を失ってしまってね。あのまま家に送り届けるのも気が引けたから、わたしの家に連れてきたのだ」
「っ!それは…申し訳ありませんでした!」
すると星宿の手が、柳宿の頭にポンと置かれる。
「よいのだ。わたしも、一度、助けて貰ったではないか」
「先生…」
見上げた笑顔はとても優しいもので、思わず鼓動が鳴ってしまう。
慌てて目を反らすと、少しぶかぶかの男物のスエットを着ている事に気付いた。
「ああ…着替えるか?制服なら、昨日の内に洗濯してきちんと着られるように直しておいたよ」
星宿は立ち上がり、背後にある綺麗に制服がかけられたハンガーを手に取った。
全く記憶がないのに、自分の服が着替えられているという事は…
「…って、ええ!?まさか、脱がせてくれたんですか?」
「………すまない」
「あ、いえ!そういう訳では…」
教師の部屋で自分が知らない内に行われていた行為を想像すると、真っ赤になる顔を隠さずにはいられない。
それでも、今、彼にして貰えた事には素直に感謝すべきなのではあるが。
おずおずと受け取った制服は綺麗になっており、ほのかに柔軟剤の香りもする。
「………あれ?元通りになってる」
「見てみたらボタンが解れただけだったから、わたしが直したのだ」
「先生…何者?」
「細かい作業は、嫌いではないからな。そこを使って、着替えなさい」
微笑みながら星宿が指差した先には、パーテーションが立て掛けてある。
拝借して着替えを始めるが、途中でキッチンで珈琲を準備する星宿の後ろ姿をチラと見やった。
(じゃあ、先生…あんまり寝てないんだ)
自分の為にここまでしてくれる彼の行為には、さすがに胸が熱くなる。
しかし綺麗に修繕されたブラウスのボタンを最後まで留めた時に、思い出されたのは。
『てめえ…もう二度と、俺の前に現れるな………!!次に現れたら………殺す………!!』
狼のあの咆哮。怨みを込めた三白眼。そして、辱しめられた行為の数々。
「………っ」
ボタンから離した手が微かに震えて、柳宿はそっとそれを押さえる。
怖かった。本当に怖かった。だけど、恐怖以上に沸き起こっている感情は。
「柳宿。大丈夫…なのか?」
そこに星宿の声が聞こえて、思わず振り向いた。
二人分のコーヒーカップを持ち、こちらを心配そうに見つめている。
「………先生は、何も気になさらないでください。わたしの勝手で、こうなっただけの事ですから」
すぐに向き直り、カーディガンを羽織って全体を整える。
「本当に、ご迷惑をおかけしました。わたし、もう大丈夫ですので!今日も、普通に学校に…」
しかし、言葉は続けられなかった。
星宿の腕が肩に回されて、そのまま静かに引き寄せられたから。
「翼宿の事が………好きなんだろう?」
「星宿…先生!?」
「すまない。お前がその気なら、わたしは教師としてお前を引き留める事が出来ない…だから」
「………え?」
意を解せずに首を傾げると、耳元に唇が寄せられそっと囁かれた。
「わたしも、お前の事が好きなのだ」
「………っっ!!」
「だから、わたしは男としてお前を引き留めたい」
「せん…せい」
「わたしは、お前の相手として翼宿だけは認める事は出来ない。彼を好きになってしまったところで誰も君を応援出来ないし、報われる確率は極めて低い。そんな辛い思いをしてまで、彼を好きになる理由があるのか?」
何も答えられず、そのまま俯いた。
あんな目に遭ってショックだったし怖かったけれど未だに自分の心の中にいるのは翼宿だけだという事に、星宿は気付いている。
程なくして、星宿は柳宿の体をそっと解放した。
「驚かせてしまって、すまない。ただ、わたしの気持ちも分かってほしい。昨日のようなお前を、もう見たくはないから…」
「ごめん…なさい」
「…今回の件は、公にはしない事にした。お前も、学園にいづらくなるだろう?」
「はい…ありがとうございます」
「ご両親への言い訳は、考えておくんだぞ。もちろん何かあれば、わたしがいつでも力になるからな」
「分かりました…」
数刻後、柳宿は、一人、星宿のアパートを出た。
学園までは、徒歩10分。教えられた道順を辿っていくと、多くのランナーが行き交う公園を通り掛かる。
そこには大きな広場があり、中央の池からは噴水が噴き出していた。
水しぶきの傍らにぼんやり浮かぶ虹を見つけて、柳宿はふと立ち止まった。
『わたしも、お前の事が好きなのだ』
そこに浮かんだのは、星宿の笑顔。
真面目で、優しくて、暖かくて、懐が広い人。
立場上強く出られないからだろうが、返事を強要しないその姿勢にも惹かれるものがあった。
いつか彼と一緒にいる事を選べば、真っ白で幸せな関係を築けるかもしれない。
だけど。
「あたしは…やっぱり」
そこで、鞄の中の携帯電話を取り出した。
どんなに酷い目に遭わされても、あの人ともう一度繋がりたかった…
コンコン
放課後、とある部屋の扉がノックされた。
訪ね人がドアを開けると、中で待っていた人物は怪訝そうな顔をする。
「星宿先生。どうしたんですか?わたし、もうすぐ帰るところでして…」
「その前に、少しお時間いただけませんか?尾宿先生」
職員会議があったこの日、在宅勤務の尾宿教頭も珍しく出勤していた。
会議が終わり即帰宅しようとしていたところを、星宿が透かさず訪ねたのだ。
面倒そうに大きくため息をつくと、尾宿はどっかと椅子に座る。
「そういえば、君。TSUBASAに襲われたそうだね?入学式の日に目をつけられるような事をしたとも、聞いた。新任だから色々と首を突っ込みたいのも分かるが、少し自粛したらどうだい?」
「はい。連日の彼らの襲撃は、わたしの責任もあるかもしれません。…ただ」
そこで相手を一睨みして、星宿は続けた。
「あなたも無関係ではないんじゃないでしょうか?尾宿先生」
「………なに?」
「全て知りました。TSUBASAの団長・翼宿は、この学園のOB。そして彼は部活動中に当時顧問だったあなたに、酷い暴力を受けていた。その腹いせに喫煙をして退学となり、以降彼は暴走族の長としてこの学園に復讐するようになった」
「…………………」
「違いますか?」
尾宿は口を真一文字にしたまま沈黙していたが、次には嘲るような笑みを浮かべた。
「何を言っているんですか?そんな作り話どこから聞きつけたか知りませんが、証拠はあるんですか?わたしが、その団長に暴行を加えた証拠は」
「………それは」
「どうせわたしの事が気に入らない生徒が、ある事ない事でっちあげたんでしょう。それにそんな大変な事を起こせば、わたしはこのポストにはいない筈。そうでしょう?」
柳宿から聞かされた事や今まで見てきた翼宿の荒れ様が、嘘偽りとは思えない。
だが学生名簿にも退学の旨しか記されておらず、当然証拠もない。
不敵に微笑む尾宿の表情に、星宿は唇を噛み締めながら黙って教頭室を退室した。
ピシャン
ドアを閉めた後、窓から見える真っ青な空を仰いだ。
翼宿は自分の恋敵だが、それ以前に自分の教え子同然に心配な存在である事も変わりはない。
このまま放っておく事も出来ず、尾宿に事実を認めさせようとした。
当人が素直に口を割るとも思っていなかったが、あそこまでしらを切られてしまえば、最早、これまで。
今更、自分が動いても翼宿にとって納得がいく結果など得られないかもしれない。
だがあのような教員をこのまま居座らせておくのは許せない事態であるし、この学園から彼を追い出す事が出来れば多少なりとも翼宿への罪の償いになるかもしれない。
「証拠…か」
一言ポツリと呟いて、星宿は職員室へ向かって歩き出した。
「………ここね」
その夜、柳宿はまっすぐに家に帰らず、とある場所へ足を向けていた。
右手には、数刻前に受信したメール画面を映した携帯が握られている。
着信相手は玲麗からで、彼女からのメッセージの中にこの場所を指し示す地図のアドレスが載っていた。
そこには、こんなコメントも添えられている。
『TSUBASAの件で、警察が動いたんだね?陸上部の友達がたまたま知ってたみたいだから、TSUBASAが隠れ家に使ってるビルを教えるね。でも、柳宿ちゃん。まさかとは思うけど、絶対に一人で行っちゃダメだよ!』
翼宿に会いたくて、会いたくて…咄嗟に連絡したのが今の知り合いの中で彼と最も近い人物である玲麗だった。
運よく、彼女の情報網で翼宿の居場所が分かったのだ。
しかし、その居場所の前に立っているのは自分一人。
この中には、翼宿のたくさんの仲間がいるかもしれない。
今度は、もっと怖い目に遭うかもしれない。
彼に…殺されるかもしれない。
それでも、昨夜に見た翼宿の苦痛に満ちた表情と震えていた肩が気になるのだ。
きっと、あの人は、今、体調を崩している。
彼の事だから、そんな事など気にも留めずに無理を押してでも今日もここに来ている筈だ。
玲麗さん…ごめんなさい。
やっと自分の気持ちを認めたところで、星宿に言われた通り、この恋を応援してくれる人がいる訳がない。
今の自分には、彼に会う為には嘘をつくのも辞さない状況。
心の中で十字を切り、柳宿は意を決してビルの寂れた階段に歩を進めた。
カン…カン…カン
階段から既に酒の匂いが充満しており、思わず口許を押さえる。
程なくして階段を登りきったところにある扉の前に辿り着くが、宴会並の騒ぎ声などは聞こえず、中は不気味な程に静かだ。
緊張と恐怖で止まらない鼓動を必死で押さえて、柳宿は扉のノブに手をかけた。
カタン…
部屋の中には疎らにソファとテーブルが配置されており、壁には破れたビールの広告ポスターも貼られている。
本来は、バーか何かに使われていたような雰囲気の部屋だ。
団員はいないようでとりあえず胸を撫で下ろすが、階段まで流れていた酒の匂いの正体はすぐに分かる。
カン…
「………翼宿」
中央にはバーカウンターのようなスペースがあり、そこに彼はいた。
こちらに背中を向け、たった今、飲み干したのであろう缶ビールの空き缶を足元に投げ捨てている。
そこには、他にも目を見張る程の大量の空き缶が転がっていた。
「え…っ!?ちょっと…これ、一人で!?」
思わず声をあげてしまい、振り返った翼宿と目が合ってしまう。
「…っ…あ…」
「…何や。お前か」
しかし、その声には昨日のような気迫はない。
手にした新しい缶を開けて、ぐいと飲み干した。
「また、人の事つけ回しとんのか…懲りない女やな」
「あんた…具合、悪いんじゃないの!?…こんなに、お酒飲んで…何かあったら…」
「…じゃかあし。誰かさんのせいで…こっちは、苛ついとんのや」
「…それは…」
一旦、缶を置き、もう一度、彼はこちらをチラと見やる。
「何や…今日は、あの先コーは一緒やないんか」
「…え?」
「恋人困らせるような事、あんまりせん方がええんやないか?」
「恋人…って…違うわよ!?あたしと先生は、そういう関係じゃ…」
「あれだけ鉢合わせれば、誰かてそう思うわ」
今朝の告白が頭を過るが、柳宿はブンブンと頭を振った。
今、星宿の事は関係ない。ここには、自分の意思で来たのだから。
両手で抱えていた鞄をぐっと握り、翼宿の隣に駆け寄る。
「…あたし一人で来た。この場所は、誰も知らない」
「…何しに来たんや」
「あなたが、心配で…様子が見たくて」
「何を寝ぼけた事を…もう二度と、俺に顔見せるな言うたやろが…」
「…やっぱり、顔色悪くなってる。ねえ…もう飲むのやめて、とりあえず診せて…」
バンッ
近寄ろうとした瞬間、早くも空になった彼の手元の空き缶が床に投げ付けられてひしゃげた。
「帰れ!!また、昨日みたいにされたいんか!?」
凄い形相で立ち上がる翼宿にびくつくが、力尽きたようにその体がグラリと傾いた。
自分の意思で立て直す事が出来ない大きな体が、柳宿に覆い被さるように寄りかかってくる。
「翼宿!?」
支えた肩は、昨日よりも更に熱い。慌てて、額に手をあてる。
「凄い…熱…早く、寝かせなきゃ…」
こんな行為は無意味なものかもしれないけれど、それでも。
あなたはあたしにとって最愛の人だから、どんなに拒まれたって救いたい。
フェンスの向こう側には、その様子を眺めるかつてのOBの姿があった。
三年ぶりに見る練習風景は、あの頃と何も変わらない。
各々が各々を励まし合いながら、ランニングしている。
吐いた煙草の煙が、長く伸びた。
『あんたも…三年前…こんなに悔しい思い…してたんだよね………』
ガア…ン!
ふいにあの女の声が頭を過り、翼宿はフェンスを殴ってそれを打ち払った。
「何しとんねん…俺は…こんなトコで…」
昨夜、柳宿を襲った時から感じた体のだるさも相変わらず引かないというのに。
煙草を乱暴に投げ捨てると、背後に停めてあったバイクのエンジンを吹かした。
「…………、…………」
カーテンから差し込む朝日に、柳宿はそっと目を開けた。
上品なルームフレグランスの香りが、徐々に意識を引き戻していく。
「………ん」
隣から寝言が聞こえ、ふとそちらを見やると…
「………っ!」
一瞬、女性と見まごう程に整った容姿と透き通る肌の星宿が自分の枕元で眠っていたのだ。
ここは、星宿の部屋。なぜ自分がここにいるのか、全く覚えていない。
覚えているのは、確か、あの男に拒絶されたところまでで…
「柳宿?」
程なくして星宿の瞼が開き、柳宿は慌てて起き上がる。
「先生…おはようございます。あの…」
「ああ…あれから、お前、気を失ってしまってね。あのまま家に送り届けるのも気が引けたから、わたしの家に連れてきたのだ」
「っ!それは…申し訳ありませんでした!」
すると星宿の手が、柳宿の頭にポンと置かれる。
「よいのだ。わたしも、一度、助けて貰ったではないか」
「先生…」
見上げた笑顔はとても優しいもので、思わず鼓動が鳴ってしまう。
慌てて目を反らすと、少しぶかぶかの男物のスエットを着ている事に気付いた。
「ああ…着替えるか?制服なら、昨日の内に洗濯してきちんと着られるように直しておいたよ」
星宿は立ち上がり、背後にある綺麗に制服がかけられたハンガーを手に取った。
全く記憶がないのに、自分の服が着替えられているという事は…
「…って、ええ!?まさか、脱がせてくれたんですか?」
「………すまない」
「あ、いえ!そういう訳では…」
教師の部屋で自分が知らない内に行われていた行為を想像すると、真っ赤になる顔を隠さずにはいられない。
それでも、今、彼にして貰えた事には素直に感謝すべきなのではあるが。
おずおずと受け取った制服は綺麗になっており、ほのかに柔軟剤の香りもする。
「………あれ?元通りになってる」
「見てみたらボタンが解れただけだったから、わたしが直したのだ」
「先生…何者?」
「細かい作業は、嫌いではないからな。そこを使って、着替えなさい」
微笑みながら星宿が指差した先には、パーテーションが立て掛けてある。
拝借して着替えを始めるが、途中でキッチンで珈琲を準備する星宿の後ろ姿をチラと見やった。
(じゃあ、先生…あんまり寝てないんだ)
自分の為にここまでしてくれる彼の行為には、さすがに胸が熱くなる。
しかし綺麗に修繕されたブラウスのボタンを最後まで留めた時に、思い出されたのは。
『てめえ…もう二度と、俺の前に現れるな………!!次に現れたら………殺す………!!』
狼のあの咆哮。怨みを込めた三白眼。そして、辱しめられた行為の数々。
「………っ」
ボタンから離した手が微かに震えて、柳宿はそっとそれを押さえる。
怖かった。本当に怖かった。だけど、恐怖以上に沸き起こっている感情は。
「柳宿。大丈夫…なのか?」
そこに星宿の声が聞こえて、思わず振り向いた。
二人分のコーヒーカップを持ち、こちらを心配そうに見つめている。
「………先生は、何も気になさらないでください。わたしの勝手で、こうなっただけの事ですから」
すぐに向き直り、カーディガンを羽織って全体を整える。
「本当に、ご迷惑をおかけしました。わたし、もう大丈夫ですので!今日も、普通に学校に…」
しかし、言葉は続けられなかった。
星宿の腕が肩に回されて、そのまま静かに引き寄せられたから。
「翼宿の事が………好きなんだろう?」
「星宿…先生!?」
「すまない。お前がその気なら、わたしは教師としてお前を引き留める事が出来ない…だから」
「………え?」
意を解せずに首を傾げると、耳元に唇が寄せられそっと囁かれた。
「わたしも、お前の事が好きなのだ」
「………っっ!!」
「だから、わたしは男としてお前を引き留めたい」
「せん…せい」
「わたしは、お前の相手として翼宿だけは認める事は出来ない。彼を好きになってしまったところで誰も君を応援出来ないし、報われる確率は極めて低い。そんな辛い思いをしてまで、彼を好きになる理由があるのか?」
何も答えられず、そのまま俯いた。
あんな目に遭ってショックだったし怖かったけれど未だに自分の心の中にいるのは翼宿だけだという事に、星宿は気付いている。
程なくして、星宿は柳宿の体をそっと解放した。
「驚かせてしまって、すまない。ただ、わたしの気持ちも分かってほしい。昨日のようなお前を、もう見たくはないから…」
「ごめん…なさい」
「…今回の件は、公にはしない事にした。お前も、学園にいづらくなるだろう?」
「はい…ありがとうございます」
「ご両親への言い訳は、考えておくんだぞ。もちろん何かあれば、わたしがいつでも力になるからな」
「分かりました…」
数刻後、柳宿は、一人、星宿のアパートを出た。
学園までは、徒歩10分。教えられた道順を辿っていくと、多くのランナーが行き交う公園を通り掛かる。
そこには大きな広場があり、中央の池からは噴水が噴き出していた。
水しぶきの傍らにぼんやり浮かぶ虹を見つけて、柳宿はふと立ち止まった。
『わたしも、お前の事が好きなのだ』
そこに浮かんだのは、星宿の笑顔。
真面目で、優しくて、暖かくて、懐が広い人。
立場上強く出られないからだろうが、返事を強要しないその姿勢にも惹かれるものがあった。
いつか彼と一緒にいる事を選べば、真っ白で幸せな関係を築けるかもしれない。
だけど。
「あたしは…やっぱり」
そこで、鞄の中の携帯電話を取り出した。
どんなに酷い目に遭わされても、あの人ともう一度繋がりたかった…
コンコン
放課後、とある部屋の扉がノックされた。
訪ね人がドアを開けると、中で待っていた人物は怪訝そうな顔をする。
「星宿先生。どうしたんですか?わたし、もうすぐ帰るところでして…」
「その前に、少しお時間いただけませんか?尾宿先生」
職員会議があったこの日、在宅勤務の尾宿教頭も珍しく出勤していた。
会議が終わり即帰宅しようとしていたところを、星宿が透かさず訪ねたのだ。
面倒そうに大きくため息をつくと、尾宿はどっかと椅子に座る。
「そういえば、君。TSUBASAに襲われたそうだね?入学式の日に目をつけられるような事をしたとも、聞いた。新任だから色々と首を突っ込みたいのも分かるが、少し自粛したらどうだい?」
「はい。連日の彼らの襲撃は、わたしの責任もあるかもしれません。…ただ」
そこで相手を一睨みして、星宿は続けた。
「あなたも無関係ではないんじゃないでしょうか?尾宿先生」
「………なに?」
「全て知りました。TSUBASAの団長・翼宿は、この学園のOB。そして彼は部活動中に当時顧問だったあなたに、酷い暴力を受けていた。その腹いせに喫煙をして退学となり、以降彼は暴走族の長としてこの学園に復讐するようになった」
「…………………」
「違いますか?」
尾宿は口を真一文字にしたまま沈黙していたが、次には嘲るような笑みを浮かべた。
「何を言っているんですか?そんな作り話どこから聞きつけたか知りませんが、証拠はあるんですか?わたしが、その団長に暴行を加えた証拠は」
「………それは」
「どうせわたしの事が気に入らない生徒が、ある事ない事でっちあげたんでしょう。それにそんな大変な事を起こせば、わたしはこのポストにはいない筈。そうでしょう?」
柳宿から聞かされた事や今まで見てきた翼宿の荒れ様が、嘘偽りとは思えない。
だが学生名簿にも退学の旨しか記されておらず、当然証拠もない。
不敵に微笑む尾宿の表情に、星宿は唇を噛み締めながら黙って教頭室を退室した。
ピシャン
ドアを閉めた後、窓から見える真っ青な空を仰いだ。
翼宿は自分の恋敵だが、それ以前に自分の教え子同然に心配な存在である事も変わりはない。
このまま放っておく事も出来ず、尾宿に事実を認めさせようとした。
当人が素直に口を割るとも思っていなかったが、あそこまでしらを切られてしまえば、最早、これまで。
今更、自分が動いても翼宿にとって納得がいく結果など得られないかもしれない。
だがあのような教員をこのまま居座らせておくのは許せない事態であるし、この学園から彼を追い出す事が出来れば多少なりとも翼宿への罪の償いになるかもしれない。
「証拠…か」
一言ポツリと呟いて、星宿は職員室へ向かって歩き出した。
「………ここね」
その夜、柳宿はまっすぐに家に帰らず、とある場所へ足を向けていた。
右手には、数刻前に受信したメール画面を映した携帯が握られている。
着信相手は玲麗からで、彼女からのメッセージの中にこの場所を指し示す地図のアドレスが載っていた。
そこには、こんなコメントも添えられている。
『TSUBASAの件で、警察が動いたんだね?陸上部の友達がたまたま知ってたみたいだから、TSUBASAが隠れ家に使ってるビルを教えるね。でも、柳宿ちゃん。まさかとは思うけど、絶対に一人で行っちゃダメだよ!』
翼宿に会いたくて、会いたくて…咄嗟に連絡したのが今の知り合いの中で彼と最も近い人物である玲麗だった。
運よく、彼女の情報網で翼宿の居場所が分かったのだ。
しかし、その居場所の前に立っているのは自分一人。
この中には、翼宿のたくさんの仲間がいるかもしれない。
今度は、もっと怖い目に遭うかもしれない。
彼に…殺されるかもしれない。
それでも、昨夜に見た翼宿の苦痛に満ちた表情と震えていた肩が気になるのだ。
きっと、あの人は、今、体調を崩している。
彼の事だから、そんな事など気にも留めずに無理を押してでも今日もここに来ている筈だ。
玲麗さん…ごめんなさい。
やっと自分の気持ちを認めたところで、星宿に言われた通り、この恋を応援してくれる人がいる訳がない。
今の自分には、彼に会う為には嘘をつくのも辞さない状況。
心の中で十字を切り、柳宿は意を決してビルの寂れた階段に歩を進めた。
カン…カン…カン
階段から既に酒の匂いが充満しており、思わず口許を押さえる。
程なくして階段を登りきったところにある扉の前に辿り着くが、宴会並の騒ぎ声などは聞こえず、中は不気味な程に静かだ。
緊張と恐怖で止まらない鼓動を必死で押さえて、柳宿は扉のノブに手をかけた。
カタン…
部屋の中には疎らにソファとテーブルが配置されており、壁には破れたビールの広告ポスターも貼られている。
本来は、バーか何かに使われていたような雰囲気の部屋だ。
団員はいないようでとりあえず胸を撫で下ろすが、階段まで流れていた酒の匂いの正体はすぐに分かる。
カン…
「………翼宿」
中央にはバーカウンターのようなスペースがあり、そこに彼はいた。
こちらに背中を向け、たった今、飲み干したのであろう缶ビールの空き缶を足元に投げ捨てている。
そこには、他にも目を見張る程の大量の空き缶が転がっていた。
「え…っ!?ちょっと…これ、一人で!?」
思わず声をあげてしまい、振り返った翼宿と目が合ってしまう。
「…っ…あ…」
「…何や。お前か」
しかし、その声には昨日のような気迫はない。
手にした新しい缶を開けて、ぐいと飲み干した。
「また、人の事つけ回しとんのか…懲りない女やな」
「あんた…具合、悪いんじゃないの!?…こんなに、お酒飲んで…何かあったら…」
「…じゃかあし。誰かさんのせいで…こっちは、苛ついとんのや」
「…それは…」
一旦、缶を置き、もう一度、彼はこちらをチラと見やる。
「何や…今日は、あの先コーは一緒やないんか」
「…え?」
「恋人困らせるような事、あんまりせん方がええんやないか?」
「恋人…って…違うわよ!?あたしと先生は、そういう関係じゃ…」
「あれだけ鉢合わせれば、誰かてそう思うわ」
今朝の告白が頭を過るが、柳宿はブンブンと頭を振った。
今、星宿の事は関係ない。ここには、自分の意思で来たのだから。
両手で抱えていた鞄をぐっと握り、翼宿の隣に駆け寄る。
「…あたし一人で来た。この場所は、誰も知らない」
「…何しに来たんや」
「あなたが、心配で…様子が見たくて」
「何を寝ぼけた事を…もう二度と、俺に顔見せるな言うたやろが…」
「…やっぱり、顔色悪くなってる。ねえ…もう飲むのやめて、とりあえず診せて…」
バンッ
近寄ろうとした瞬間、早くも空になった彼の手元の空き缶が床に投げ付けられてひしゃげた。
「帰れ!!また、昨日みたいにされたいんか!?」
凄い形相で立ち上がる翼宿にびくつくが、力尽きたようにその体がグラリと傾いた。
自分の意思で立て直す事が出来ない大きな体が、柳宿に覆い被さるように寄りかかってくる。
「翼宿!?」
支えた肩は、昨日よりも更に熱い。慌てて、額に手をあてる。
「凄い…熱…早く、寝かせなきゃ…」
こんな行為は無意味なものかもしれないけれど、それでも。
あなたはあたしにとって最愛の人だから、どんなに拒まれたって救いたい。