TSUBASA

「あ…んた…」
「………………」
見上げた相手は、朱雀街の極悪人。
至近距離で見るその迫力に、柳宿の体は凍ったように動かない。
すると彼の手が顎にかかり、そのままぐいと持ち上げられた。
「………へえ。結構、綺麗な顔してるんやな。あの時は遠目やったから、気付かんかったわ」
「…………っ」
獲物を射るような凄まじい三白眼に睨まれれば、全身に鳥肌が立った。
今まで調べ上げてきた人物を目の前にしている筈なのに、こみ上げるのは恐怖という名の感情だけ。

怖い。

初めてそう思った時、それを察したかのように翼宿の口角が歪んだ。
「もしかして、俺が怖いんか?」
「……………………」

「だったら、勝手に調べんなや。人の事」

そう呟いた瞬間、自分の体はコンクリート塀に打ち付けられていた。
翼宿の怒りが、全身に痺れとなって伝わってくる。
「てめえ…何、企んでるんや?この俺を警察にでも突き出すつもりか?」
「…………違う」
「何が、どう違うねん」
「………………」
言いたい。だけど、言えない。
あなたを救いたかったから、ただそれだけのために気付いたらここまで来てしまっていただなんて…

「まあ、ええ。これ以上下手な事出来んように、お仕置きしたるさかい」

「や…だ…離して…!」
あっという間に持ち上げられた体は、翼宿の肩に担がれる。
まるで用意でもされていたかのように側にそびえ建っていたプレハブ倉庫の扉を、翼宿は片手で乱暴に開けた。

ドサリ…
土嚢袋の上に投げ出された事で、行われる事は既に把握出来た。
ドン…
「………っく」
すぐさま馬乗りになってきたかと思えば腹を殴られ、体の自由は完全に奪われる。
ぐったりとした腕は後ろ手に回され、彼の首に巻かれていたストールできつく締め上げられた。
暴れる女を押さえ付ける手口が手慣れているのも、彼がその道のプロの証。
「翼…宿」
朦朧とした意識で名を呼べば、彼の掠れた声が耳元で聞こえた。

「そそる声やなあ…ええ女や。もっと、俺を興奮させてみろや」

目をぎゅっと瞑ると、ブラウスが一気に引きちぎられる音がした。



『下校の時間になりました。部活動中の学生の皆さんも、速やかに片付けを…』
閉門の時間になると流れるアナウンスが耳に届き、星宿は日誌から顔をあげる。
気付けば、職員室の中は自分一人だけになっていた。
まるで、翼宿に襲われたあの日の夜のように。
これからは早めに帰るようにと柳宿に言われていたのに、ついつい癖で長居してしまっていたようだ。
そこまで考えたところで、深いため息をつく。

翼宿と柳宿。
自分が怪我をしてから、二人の距離がそこまで近くなってしまっていたなんて思わなかった。
気付けなかったのは仕方がないが、柳宿の気持ちの変化を見抜けなかった自分を悔やむ。
だが、あれだけ釘を刺しておけば大丈夫であろう。
翼宿に勘付かれる可能性も、極めて低い筈だ。
今ならまだ間に合うと思い直して、鞄を手に取ったその時。

Pllllllll

そんな思考を覆す、電話のコール音が響いた。



「……………っぁ……………」
冷たい空気に晒された肌に犬歯が食い込んだ事で、小さく悲鳴があがる。
生まれて初めて受ける愛撫は優しいものではなく、寧ろ痛みを伴うものだった。
「まさか、初めてなんか?身なりだけ着飾ってガードは固いなんぞ、男には酷やで」
額を撫でながら問うてくるその姿に、瞬時に顔が赤くなる。
それに構わず、舌先が首筋を這う。声にならない声が、出る。
「せや。その声や…恥ずかしがらんと、もっと声出してええんやで」
そのまま下に降りた舌は胸元を捕らえ、刺激を繰り返す。
「………何で………こんな事………」
薄ぼんやりとした思考で紡がれたのは、彼の哀しい行為への疑念の言葉。
男でも女でもなりふり構わず、罰を与えて満たされていく。
この人は、本来、こんな男ではない。こんな男ではないのに。

「………罪を犯したら、人は罰を受けなあかん。そうやろ?」

その言葉に、柳宿はハッとなる。
そうか。翼宿は過去に自分が酷い目に遭った事で、周りの人間にも同じような思いをさせ続けているのだ。
やり方は間違っているけれど、この男はそうして自分の弱さを振りかざしている。

「ええ…眺めやな」
既に翼宿の手は腿を持ち上げていて、そこから覗く卑猥な光景を眺めている。
片方の下着の紐を口にくわえて、解きにかかっていく。

あたしは、受け止めなければいけない。吠える事しか出来ないでいるこの人を。


「………っ…そっか。あんたも…三年前…こんなに悔しい思い…してたんだね………」


「………あ?」
振り絞るように呟いた言葉に、翼宿は顔をあげた。
顔を背けたくなるような体制をさせられていたけれど、目を反らさずにそのまま言葉を続ける。
「あたし…分かったの。三年前の…あんたは、星宿先生みたいに…まっすぐでいい奴だったんだって…」
「…………っ!」
「明るくて強くてホントは優しくて…クラスの人気者だったって、同級生の人が言ってた。あたしも、そう思ってたんだ…だから過去の事件からあんたを救える糸口があるならって…もっともっとあんたの事が知りたくなったの…だから」
予想してなかったのであろう言葉に、相手の目に明らかに動揺が見える。
「だけどね。翼宿…あんたが尾宿と同じ事を繰り返したって、何も変わらない!そんなの結局は自分を苦しめてるだけで、気付いた時にはあんたはもっとボロボロになってるのよ!」
最後の望みにすがりつくように、彼に向かって叫んだ。
次には、翼宿の手が腿から離れた。が、安堵したのも束の間。
その両手は、ゆっくりと柳宿の首にかかって…
「たすき…!」
「………じゃかあしい…」


「柳宿!どこだ!?」
ちょうどその頃、柳宿の通学路を辿って彼女を探していた星宿が、プレハブのすぐ近くまで来ていた。

『星宿先生!うちの柳宿が、この時間になっても帰らないんです!あの子、今日は夕食当番だから早く帰るって言っていたのに…』

数刻前に受けた電話で柳宿の母親から告げられた言葉は、こうだった。
翼宿に出くわしたとは、限らない。だが、胸騒ぎは止まらない。
もしも、ここ最近の柳宿の動きを翼宿に見られていたら?
頭で考えるより手が出るのが早い翼宿が起こす行動なんて、予想がつく。
柳宿を動かしていたのは、ただの好奇心ではなくそんな彼を救いたいという純粋な気持ちなのだけれど。
あんな無慈悲な男に、そんな想いが届く訳がない。
星宿は、強く強く唇を噛んだ。

柳宿…どうか、無事でいてくれ…!!

その時、路地の向こう側に落ちているものが目に留まった。
駆け寄って拾い上げると、学生鞄だった。
手提げ部分に付いているチャームには、見覚えがある。
「柳宿…!?」


「お前に、俺の何が分かるんや!!!」


そこに飛び込んできた怒号は、関西弁。嫌に聞き覚えがある、その声は…
側のプレハブ倉庫から、聞こえてきた。


「ゲホッ…翼…宿…」
翼宿の両手が、柳宿の首をきつく締め上げる。
薄れ行く意識の中、彼の悔しさが手の力を通して伝わってくる。
「みんなみんな、そうやって綺麗事だけ吐いて…俺を悪者扱いするがな…あの時、学校の連中は、誰も助けてくれなかった…あの時…俺を助けてくれたのは、TSUBASAだけだったんや…!!」
瞳を開けると、分かる。彼の表情が、苦痛に歪んでいる。
違う。あなたを責めたいんじゃない。そうじゃなくて、あたしはあんたの事が…
頭の中で必死に叫んでも、当然、彼の耳には届く筈がない。
「星宿や…お前みたいな奴が…俺は、一番嫌いなんや…!!あの学園におる者で俺に歯向かう奴は…絶対に許さへん…!!」

「翼宿!やめろ!!」
バキッ!

すると、背後から翼宿の肩が誰かに掴まれた。
骨が碎けるような音がした時には自分の首を掴んだ手が離れ、相手の体は袋の山から転落していて。
「柳宿!大丈夫か!?」
星宿が抱き起こしてくれた時、軌道が確保された事で涙がどっとこみ上げる。
眼下では、頬を腫らした翼宿が狼のような目でこちらを睨んでいる。
「翼宿…お前は…!!」
「せん…せい…まっ…て!」
星宿の怒りが腕を通して伝わってきた時、柳宿は慌ててそれを諌める。

こいつを、責めちゃいけない。
こいつは、誰よりも寂しくて悔しくて…

「ねえ…翼宿。あたしも…先生も…あんたを責めてる訳じゃないの…」
「………………」
息切れをしながらも、動けないでいる翼宿に近寄る。
反動で、後ろ手に縛られていたストールが外れた。
「あたしは…あんたに、これ以上罪を繰り返してほしくないのよ…あんたは…本当は、望んで…この世界にいたい訳じゃない筈よ…だから…」
彼と目線を合わせるように、その場に膝をついた。
目の前には、未だ何も言えないでいる翼宿の姿がある。

「ねえ…まだ、やり直せるよ…あんたは、一人じゃない!今は、先生も…あたしも…いるんだから…目を…覚まして…」

「………っ」
その瞬間、翼宿の体が大きく傾いた。
「翼宿!?」
柳宿の手によって支えられたその肩からは、異常な震えが伝わってきた。
その時、柳宿は分かった。
これは、動揺などではない。体の異変だ。
「翼宿…?あなた…」

バシッ!

しかし次には、翼宿の手が柳宿の手を強めに払い除けた。
「柳宿…!」
よろけた体は、背後に回った星宿の腕に抱かれる。
もう、ゲームオーバーだ。
光が戻ったように見えた瞳が再び陰り、強く強く自分を睨み付けているのが分かる。
「…………柳宿」
そして、彼は低い声で呟いた。


「てめえ…もう二度と、俺の前に現れるな………!!次に現れたら………殺す………!!」


「……………っ!」
それ以上、返す言葉は見つからなかった。
翼宿は側のドラム缶を蹴り上げると、よろよろとその場を後にした。


「柳宿…!お前、大丈夫か!?痛い場所があるなら、今すぐ病院に…!」
酷く破れたブラウスを隠すように、星宿は自分の上着を彼女にかける。
しかしその小さな肩は、異様な程に震えていて。
「怖かった…な?」
「…………………………」
「先生がいる。もう、大丈夫だよ」
「………っく。うっ…」

「お前は、頑張った。頑張ったよ」

俯いたままの頭にそっと手を添えて、そのまま引き寄せる。
大人しく自分の胸に身を預けた生徒は、糸が切れたように泣き出した。

星宿には、柳宿が涙を流す理由が分かっていた。
あの男に襲われた事が、怖かったんじゃない。
あの男に嫌われた事が、何よりも悲しかったのだ…
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