TSUBASA

カタカタカタ…
土曜日の昼下がりにも関わらず、教頭室からはパソコンを叩く音が聞こえる。
文書をまとめている男の形相は狼にも似たもので、ギョロリとした瞳にはディスプレイの明かりが映っている。
コンコン
「…失礼します、尾宿教頭。いらしていたんですね?」
尾宿…そう呼ばれた男は、その目を訪ねてきた警備員に向ける。
「やあやあ…久しぶりだね。今年も不在がちで、すまない」
「いいえ。ですが、休日出勤ですか?どうせなら、生徒の皆さんともお顔を合わせればよいのに」
「そんな必要は、ないよ。どうせ教頭なんて、出来る仕事は限られている」
言葉をそこで止めて、一旦パソコンのエンターキーを叩く。
「そういえば、今年の入学式も来たのか?」
「ああ…TSUBASAですか。来ましたよ…しかも今年は星宿先生が彼らにもの言いしてしまったもので、それからも迷惑行為が止まらないんですよ」
「…ああ。やけに生き生きしたあの男か。余計な事をしてくれたな」
傍らの茶をすすった後、尾宿はチッと舌打ちをする。
「なら、わたしはもう少し在宅勤務に徹する事にしよう」
「はあ?」

「わたしは、あいつらに…特に団長に会う事だけは避けなければいけないんだよ…だって、恐ろしいじゃないか」

今も在籍している尾宿は、教育委員会の権力によって教頭の座までに登り詰めていた。
そして彼はTSUBASAとは、翼宿とは、顔を合わせる事を避けている。
彼らがこの学園を襲撃する理由を、全て知っているのだから………


カランカラン
「いらっしゃいませー」
柳宿は、ある人物に会うために喫茶店に来ていた。
相手は、2002年入学のOG…翼宿のクラスメイトの女性。
名簿で彼の経歴を確認してからの5日間、知り合いの伝を使ってやっと辿り着いた人物だった。
何もなければ、それでよい。校則を破って退学させられた腹いせに学園を襲っているだけの、ただの身勝手な男なのだと諦められる。
だけど、それだけではない気がしていた。
翼宿があの学園を恨む理由は、きっと他にあると思うのだ。

「柳宿…ちゃん?」

そんな思考を遮るように声をかけてきたのは、携帯を片手にした女性だった。
お団子頭に小柄な体型の、可愛らしい出で立ちをしている。
「ごめんね。待たせちゃって…あたし、玲麗です」
「…いいえ。今日は、突然、すみませんでした」
「いいのいいの!色々と、学園の事大変みたいだね」
「…はい」
玲麗は柳宿の向かい側に座ると、水を運んできたウェイターに注文をした。
「あいつの話が…聞きたいんだっけ?」
そして切り出されたその質問に、柳宿は黙って頷く。
「何か、知りませんか?彼が学園に恨みを持つきっかけになったような事…学生名簿には煙草に手を出して退学処分って書いてあったんですけど、あたし、それだけで彼が学園を襲撃するとは思えなくて」
そこで珈琲が運ばれ、二人の会話は一旦途絶える。
目の前に置かれた珈琲の湯気を眺めながら、玲麗は口を開いた。
「翼宿は、ホントは明るくて優しい奴だったわ。確かにワルな部分もあったけどそんなの可愛い方で、クラスでも人気者だったの」
「………じゃあ、どうして?」

「3年に赴任してきた尾宿って教師が陸上部の顧問になった時に、目をつけられてね…翼宿は、あいつに日常的に暴行を受けていたのよ」

「え………っ!?」
予想していなかった事実に、一瞬、周りの音が消えたような気がした。
「…尾…宿が…?」
「ああ。まだ、学園にいるんだ?」
「はい。今は教頭ですけど、ほとんど学校には来ていません。わたしも、オリエンテーションで見かけただけです。でも教員の日常的な暴行は、立派な退職処分になるんじゃ…」
「あいつの親父、教育委員会の理事長やってるの。だから誰も逆らえなかったし、事態ももみ消された。それどころか、そんな奴が今は教頭だなんて…バカにしてるわよね」
「そんな…」
今はあんなに冷酷な翼宿が、過去に酷い暴行を受けていたというのか。
「翼宿の成績が落ちたのも、尾宿の体罰のような指導で靭帯痛めたからなの。それでもあいつ、誰にもこぼさずにたった一人で耐えてた…強い奴だった。煙草に手を出したのは確かにいけないけど、その理由は誰しもが理解できたわ」
そこで玲麗の瞳に涙が浮かび、そっと目頭をハンカチで押さえる。
「なのに尾宿は退学にしたその後も、翼宿をめちゃめちゃに傷付けたの。ホント最低よ…」
「玲麗さん…」
何となく、分かる。この人は、翼宿が好きだったんだ。
自分は、今、ずっと閉じ込めてきた彼女の気持ちを吐き出させてしまった。
彼と突然に別れて誰よりもショックだったのは、彼女だった筈なのに。
申し訳なさに、柳宿は思わず瞳を伏せる。
「………すみません」
「いいの…突然、ごめんね。でもあいつが暴走族に入って、あたしもびっくりした。街中であいつを見た時は、とても声なんてかけられるもんじゃなかったわ」
「…………っ」
もう一度涙をぐいと拭いて顔をあげた玲麗の瞳は、真剣なものに戻っていた。
そして次にかけられるのは、まさに一般人からかけられるには当然の言葉で。

「柳宿ちゃん。どういうつもりかは分からないけど、あいつとはもう関わらない方がいいと思う」

昔の優しかった翼宿を知っている、そんな人物でもやはり、今、心配するのは柳宿の身の危険だ。
しかしここまで知ってしまった手前、素直に首を縦に振れない。
そんな自分の様子を見て、玲麗は言葉を続けた。

「もしかして…あなた、翼宿に何か特別な感情でも持ってるの?」

「そ、そんなんじゃありません!あたしは、ただ…」
いよいよ突きつけられた言葉に瞬時に顔が赤くなるが、それを隠すように全力で否定する。
「今の彼は、お薦めしないわ。酒だって煙草だって麻薬だって暴走だって…暴力だって女遊びするのだって…あいつは、十八番なんだから」
「…………」
「ここまで話しておいて何だけど、好奇心だけであいつの事調べてるならもうやめてね。翼宿にこの事がバレでもして、女の人生に傷が付いたら困るでしょ?」
「は…い」
これ以上、自分の考えを言える訳がなかった。
翼宿が過去の悲劇に苦しんでいるのなら、自分が救ってあげたいという考えを…

ドルンドルン
喫茶店の向かい側の路地で煙草を吸っていた男は、気が済んだようにバイクに跨がりエンジンを吹かす。
そしてもう一度、喫茶店の窓越しに見える紫色の髪の女をその三白眼で睨み付けた…



月曜日になり、またいつもと変わらぬ一週間が始まる。
柳宿は日誌を持って、職員室への廊下を歩いていた。
しかし、その表情は暗い。朝に、美朱に体調を心配される程に。

やはり翼宿には悲しい過去があり、それが今の冷酷な彼を作り上げた。
しかもそれは、一人の身勝手な教員の手によって行われた悲劇。
誰も止める事が出来なかった、誰も助ける事が出来なかった。
だから、彼は教師も生徒も誰も信用出来ない。
だから、彼はこの学園を襲う。
止めなければ、この先もずっとこの復讐は続いていく。
彼の心の傷を癒す事が出来る者が現れない限り、この先もずっと…

「柳宿?」
その時、誰かに声をかけられて、柳宿は顔をあげる。
目の前には、スーツに身を包んだ担任の姿があった。
「星宿先生!退院したんですか?」
「ああ。今日で、休暇も終わりだからな。明日からの為に、残務処理に来ていた」
「よかった…顔の傷も目立たなくなりましたね。先生、綺麗な顔してるから…心配していたんです!」
「ははは…おだてても、何も出ないぞ?」
満更でもない癖に…そんな事を考えながら、微笑む。
「みんなは?何も、変わりないか?」
「え…っ」
次にかけられた言葉に、ドキリとなった。
もちろん、クラスメイトに変わりはない。
あれ以来、TSUBASAの襲撃もない。
変わっているのは、自分の心の内。
「柳宿?」
「いえ!何も!じゃあ…先生!また、明日…」
星宿の横を、足早に通りすぎようとして。

カシャン

不運にも、ポケットから返しそびれていた「もの」が滑り落ちた。
そして星宿がそれを拾い上げ、目を見開いた。
「せん…せ。それ…は…」
「柳宿?…これは、どういう事だ?」

程なくして、星宿は柳宿を空き教室に連れ込んでいた。
机の上にのせた鍵を挟んで、二人、向かい合って座る。
そして、星宿は、今しがた、柳宿の口から全てを聞き終えた。
「………そんな事が」
「あたし、ここまで知ったら…いてもたってもいられなくなって…あの人は、自分から望んであの世界にいた訳じゃない。この学園に追い詰められて、誰も信じられなくなって…それで…」
「…だからといって、これは許される事ではないだろう?生徒が個人情報を閲覧する事は、固く禁止されている筈だ」
「………すみませんでした」

だが、星宿は理解していた。
柳宿は、本来、こんな無茶をする生徒ではない。
彼女をここまで動かしたのは、単なる好奇心だけではない。
それは恐らく柳宿もまだ気付いていない、ある感情のため…
しかし、それに気付かせる訳にはいかない。
これ以上、彼女をあの男に近付かせる訳にはいかない。

「柳宿」
怒っていないという事を分からせるため、語調を和らげて声をかける。
「これまで知ってしまった事を全て忘れろとは言わないが、もう、翼宿について考えるのはやめなさい。これ以上は、担任のわたしが許可する訳にいかない」
「星宿先生…」
「事情はどうあれ、彼はもう大人だ。過去の事が引き金だとしても、事の良し悪しが分かる立場で彼が起こしている事は全て許される事にはならない」
「それは、分かってます!でも…」

「柳宿。君に、何が出来る?」

中々引き下がってくれない柳宿に、次には辛辣な言葉をかけた。
その瞬間、彼女は黙り、俯いてしまった。
「…約束だぞ?柳宿。二度と、君は彼に関わらない」
そこで、二人の話は終わった。

しかし、吹き抜けになっている中庭を挟んだ向かい側の教室。
そこからその光景を眺めていた生徒がいた事に、二人が気付くことはなかった。


帰路に就く頃には、辺りはすっかり暗くなってしまった。
ため息をつきながら、柳宿は誰もいない路地を歩く。

『柳宿。君に、何が出来る?』

ここまで調べてしまってすっかり彼の事を知った気でいたが、自分に出来る事は確かに何もない。
玲麗に、星宿に、そう思わされた。
そして星宿に今回の調査を知られた以上、自分が動けるのも最早ここまでだ。

だけど。

「あの笑顔が…また、見たかったなあ」

彼の事が知りたい理由なんて、本当は最初から自覚していた。
一瞬で心を奪われたあの笑顔に、また会いたかっただけなんだ。

通りの角を曲がり。

ドン…ッ

誰かにぶつかり、思わず顔をあげた。
「あ…ごめんなさい!あたし、余所見してて…」
相手と目が合った瞬間、言葉の続きは言えなかった。

「よお…柳宿」

会いたかった笑顔の主は、今、氷のような冷たい瞳を自分に向けていたーーー
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