TSUBASA

TSUBASAが隠れ家として利用していた雑居ビルは、屋上へ登れば少しの夜景も見渡せる。
備え付けられている古びたベンチに腰掛け、翼宿は煙草を吹かしていた。
そして、隣には奪還してきた女子高生が座っている。
「ねえ………何で?」
先程からずっと守り続けてきた沈黙を破ったのは、やはり女の方だった。
男は煙を長く吐き、暫しの沈黙を作る。
「何で…やろなあ。俺も、ホンマによう分からんねや」
「……………………」
「せやけど、俺はお前にあの日の俺と同じ思いをさせたくなかったのかもしれない。お前には夢を追って、きちんとあの学園を卒業してほしかったから」
「翼宿…」
あのまま全てを認めていたら、自分に嘘をついて夢を諦めなければいけなかっただろう。
だけど自分は、一ヶ月前に突き放されてもう会えないと思っていた相手に助けられたのだ。
この事実に、また、柳宿の涙が溢れた。
「ありがとう…翼宿。ありがと…ね?」
「あれだけ荒らせば、お前を責める奴はもう誰もおらんやろ。星宿は少々痛い目に遭うかもしれんが…仕方ないな」
「でも、仲間の人も攻児さんもみんな捕まっちゃって…あたし、何て詫びたらいいか…」
「ふ…せやな。最後くらい、カッコつく捕まり方したかったのになあ」
「………え?」
その言葉の意味が解せず、柳宿はくいと首を傾げた。
翼宿を探しているのか、時たま、パトカーのサイレン音が遠くで鳴り響いている。
そこで翼宿は立ち上がり、屋上を囲う古びた鉄格子に両手を預ける。

「俺…足、洗うわ。柳宿」

「………っ!」
「まあ…この歳でいつまでもグチグチしとるのもカッコ悪いし、人に迷惑かけ続けるのも体力使うし、まだまだ理由はたくさんあるんやけど…」
そこで、翼宿は振り返る。あの日以上の優しい微笑みを浮かべながら。

「一番は…また、お前に会いたいから…」

きちんと顔洗って出直して、胸を張れる男になってまた君に会いたいから。
最後まで、自分を信じてくれた健気な君に…

今度こそ、二人の間に本当に長い沈黙が訪れる。
だが、いつしか、翼宿の方からふっと吹き出す。
「お前、泣きすぎ…」
「嘘…だって…あたし…あたしは、あんたに…」
まだ頭の中が混乱していて、全てを受け止めきれない。
涙で頬を濡らしながら突っ立ったままの柳宿に、翼宿は優しい笑顔のままでゆっくり近寄った。
一度は手離した彼女の気持ちを逃がさないように、その腕でそっと彼女の体を包み込む。
「ホラ…嘘やないやろ?」
「た…すき。たすき………」
確かめるように背中を抱き、その胸に顔を埋める。
彼のために流した涙は、そこでやっと暖かい涙に変わる。
ああ。やっと、あたしの声があなたに届いたんだね。
何度も名前を叫びながら、柳宿は泣き続けた。


「星宿先生…今回は、色々とすまなかったね。尾宿先生の代わりに、詫びさせてくれたまえ」
「いいえ…元はといえば、わたしが起こした過失ですので」
その頃、やっと落ち着きを取り戻した学園の校長室では、連絡を受けて出張先から戻ってきた校長と星宿が向かい合って座っていた。
「柳宿くんにも、本当に気の毒な事をしたよ。一ヶ月も自宅謹慎させられて、どんな気持ちだったか…」
「校長。彼女の処遇については…」
全てを知った校長は、その星宿の問いには穏やかな笑みを向ける。
「もちろん、明日からまた在学可能ですよ。謹慎させた分、またしっかり学んで貰いましょう。TSUBASAの件については手を患わせられましたが、きっと彼らも彼女の為に更生してくれる筈ですから」
優しい言葉に胸が熱くなり、星宿は深く頭を垂れた。
「わたしについては、いかほどの処分も受けます。どうぞ、命じてくださいませ」
「………星宿先生」
一拍置いて、校長は続けた。
「校長として、公正な罰を下します。柳宿くんの学年が変わるまで、あなたを自宅謹慎とする。学年が変わったら、また戻ってきなさい」
「え…っ?」
てっきり懲戒免職かと思っていた星宿は、驚きの瞳を校長に向ける。
「あなたは、ここの生徒だ。一人前になるまでは、うちで面倒見ますよ。失敗もいつか糧になるようにね」
「校長…」
有難すぎる罰に感謝し、溢れる涙を隠すようにまた頭を垂れた。


既に片付けられた部屋の中、革張りのソファが軋む音だけが聞こえる。
「翼宿…」
名前を呼んだ唇は塞がれ、それ以上を言わせない。
「柳宿…綺麗や」
愛の言葉を囁きながら丁寧に慈しむかのように翼宿の指が白い素肌を撫でていき、その後を遅れて彼の唇が辿る。
快楽に顔を歪めるその度に、追い立てるように男の手が女の体を更に愛でる。
腰が浮いた瞬間にあの日の夜の事を思い出した柳宿が思わず翼宿の手を握り込むと、それを察した翼宿は優しく微笑んだ。
「………大丈夫」
「…………」
あの日と同じ別離の前の抱擁だけれど、もう離れる事を恐れる必要はない。
ひとつになったその時、またひとつ暖かい涙が零れていく。
「翼…宿」
「何や…」
「あたし…待ってるから。ずっと…待ってるからね」
柳宿の細い腕が翼宿の背中をしっかりとかき抱き、それに答えるかのように翼宿の腕もしっかりとその肩を抱え上げる。
擦れる音が響き、彼女はほんの少し鳴いた。


「お前は、俺のもんや。俺の傍…離れるんやないで」






ピチチ…チュンチュン…
窓から差し込む日差しと雀の囀ずりで、柳宿は目を覚ました。
そこはあの雑居ビルの部屋で、ソファの上で毛布をかけられて眠っていたようだ。
「翼宿…?」
先程まで愛し合っていた男の名前を呼ぶが、返事はない。
恐らく自分が眠っている間に、もう警察に行ってしまったんだろう。
柳宿はかけられていた毛布を胸元でギュッと握り、胸の痛みを堪える。
寂しくないと言えば、嘘になる。刑務所から何年かけて出てくるのか、その時、自分との約束を覚えてくれているのか、不安でいっぱいだ。
その時。

シャラン…

胸元に、小さな揺らめきを感じた。
「………っ?」
鞄の中の鏡を取り出して、首元を映して。
「………翼宿」
それを確認した柳宿は、そこで優しく微笑む事が出来た。

胸元で揺れていたのは、桜を象ったネックレス。知らぬ間に贈られていた、翼宿からのプレゼント。
4月1日。二人が初めて出会った日に、舞っていた桜。
その桜を忘れないように、そして、何年目かの桜が咲く頃にはまた会えるように。
その贈り物には、翼宿のそんな誓いが込められているように感じた。
柳宿は涙をぐいと拭うと、立ち上がった。


もう、泣かないよ。あんたの為に、たくさんの涙を流したから。
今日からあんたの笑顔に負けないくらいの笑顔で、あたしは夢へ向かって生きるよ。
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