TSUBASA

その日は、朝から気分が暗くなるような雨が降り続いていた。
朱雀学園の体育館には、緊急集会と称した召集を受けた学生が集まっている。
彼らを満足そうに見渡すと、壇上の尾宿は不敵な笑みを浮かべてマイクにこう吹き込んだ。
『皆さん…突然の事で驚かせてしまって、申し訳ない。今日は残念ながら、一人の生徒を退学にせざるを得なくなってしまった事を皆さんにご報告しておこうと思い、このような集会を開きました』
その言葉に、事実を知っていた者も知らない者も声をあげ始める。
『皆さんは彼女のようになってはいけないという戒めも込めて、事実をお話するよ。理由は、ある教員との不順異性交遊。学園としても善処しようと尽くしましたが更正の余地は少ないと判断し、苦渋の決断で退学を命じる事になりました』
騒動の発端を起こした玉麗は、嬉しそうに爪を噛んでいる。
教員の列に混じってその光景を黙って見守る事しか出来ない星宿は、唇をきつく噛み締めている。
そして横にいる柳宿を見やって、尾宿はまたニヤリと微笑んだ。
「さあ…柳宿くん。皆さんに、最後のお別れを言いなさい」
呼び掛けられた柳宿は、一拍置いて顔をあげた。


ブロロロロ…
「お兄ちゃん!もっと、飛ばして!!」
「どうしたんだよ、美朱!?そんなにすぐに必要なのか?例のもの…」
全速力で走る車の中にいるのは、美朱と訳も分からず車を走らさせられている兄の奎介。
「柳宿を救うためなの…!あの尾宿のクズを追い込む為には、今すぐに必要なの!」
大切な親友を護るため、美朱にはどうしても『例のもの』が必要だった―――


ザワザワザワ…
柳宿が壇上に立つと、動揺のざわめきが起こる。
特に、彼女のファンだった男子生徒の動揺は半端ではない。
しかしそんな彼女の人気に嫉妬していた女子生徒の目は、氷のように冷たい。
様々な目を向けられる恐怖に足が震えるが、唇を噛んでぐっと堪える。
「柳宿くん?早くしたまえ」
横から尾宿が非情な言葉をかけた事で、柳宿はそっとマイクを手に取った。
しかし声を発する前に、聞こえた言葉は。

「柳宿さーん?土下座してください!あたし達女性に対する土下座ー!!」

一際派手なギャル集団の一人が発した、そんな言葉。
それを合図に、体育館には「土下座」コールが相次いだ。
「…………っ!」
本意ではない相手との交際による土下座…これほどまでに屈辱的な事はない。
それでも、今の柳宿に拒む理由はない。
涙を堪えて壇上の横に進み出ると、膝を地につけた。
「………柳宿………!」
堪えられずに、星宿が思わず彼女の名を呼んだ。その時。

バア………ン!

乱暴に開け放たれた、体育館の扉の向こう側。
そこには、後ろに団員を引き連れた攻児の姿があった。
教員や生徒はその姿を確認すると、声をあげながら左右に散らばる。
「あれあれ?今日は、またどうしたんですか?久々に顔を出したら、皆さんの姿が見えなかったもので探したんですよ~」
状況を知りながらも、攻児はカラカラと陽気に笑う。
「今は、学生の退学を報告する大事な集会中だ!邪魔をするんじゃない!」
「退学~?あれ?柳宿さんじゃないですかあ?そんなところに座り込んで、どうしたんですかあ?」
尾宿の言葉に対して大袈裟に声を荒らげる攻児に、周りからは疑問の声があがる。
未だ口を挟めないでいる星宿は、そんな彼らに期待の目を寄せた。
「団長?団長に付きまとっていた女が、退学させられるそうでっせ?話、聞いてあげたらどうっすか?」
その言葉に、団員は最後尾の人物が通る道を開けるように左右に退いた。
そこには、相変わらずの威圧感を放つ橙色の男が立っている。
彼の瞳は、まっすぐにステージの柳宿の元へ。
「翼宿…」
堪えていた柳宿の涙が、そこでやっと零れ落ちた。
言葉を発さずに、翼宿の足はゆっくりとステージに向かう。
頭を垂れる団員達の横を通りすぎ、この光景を息を呑んで見守っている生徒達の横を通りすぎ、そして、彼女の目の前で歩みを止めた。
「…ったく。また、派手な目に遭うとるんやな」
「………っ」
侮蔑とも取れるような言葉だが、その語調には優しさが感じられる。

「………あの日のキスは………嘘やったんか?」

そして次に飛び出した言葉に、その場にいた者は驚愕した。
柳宿も、尾宿も、ステージ上で、ただ唖然としている。
だが今すぐにでも会いたかった彼の言葉に、柳宿はすぐに首を横に振った。
その反応を確認すると、尾宿から横にいる教員達、背後にいる生徒達へと、ぐるりと視線を一周させて彼はこう告げた。

「お前ら、何だか勘違いしてるようやけどなあ?こいつは、俺の女や。何で、そこの熱血優男とデキとる事になっとんねん」

「な…な…な…」
この言葉には尾宿は愚か、玉麗も拳をわなわなと震わせる。
そして、当の本人すらも、この現実を受け入れられない。

翼宿は、何を言っているんだろう?
もう、とっくに突き放されたと思っていたのに。
あの日のキスには答えてくれなかったのだと、そう思っていたのに…

「柳宿」
しかし、その思考は、また、自分の名を呼ぶ声で遮られた。
「嘘なんか、つく必要ない」
右手を差し出してくるその表情は、今までにないくらい優しいもので。


「ここまで、来い」


その一言で柳宿は立ち上がると、その手に導かれるように歩いていく。
震える指先が彼の指先に触れた時、その手が自分の手をグイと引っ張った。
傾いた体は大きな腕に包まれて、そのまま彼の胸の中へーーー

ドサ…

重力で傾きその場に座り込んだ翼宿は、取り戻した愛する女をしっかりとその腕に抱いていた。
「たすき…たすき…っ!!」

「く…はははっ!翼宿…久し振りだなあ!」
ステージに取り残された尾宿はその前に立ちはだかり、翼宿を見下ろした。
「おお。そうだ!お前ら、知らなかっただろう!?こいつは、お前らの先輩。朱雀学園のOBなんだよ!」
このタイミングで彼がその事実を明かした事で、この日一番のざわめきが起こる。
「だけど、喫煙がばれて途中退学。その恨みを晴らすために、お前はこの学園を襲撃していたんだろう?自分の過失で招いた事なのに人様に迷惑をかけて、どこまで手を煩わせるんだ、ああ!?」

「あのブタ…殺してやる」
「待て」
痺れを切らして進もうとした団員が、攻児の手によって止められる。
「今日は、何があっても手を出さない。団長命令があるやろ」
翼宿はもしかしたらこうなる事を予知して、敢えてこのような命令を出したのかもしれない。
だけど彼が自分の壁を自分で乗り越えるまで、他人が手を出してはいけないのだ。
誰よりも翼宿の悔しさを理解している攻児は千切れるほどに唇を噛み締めながら、その光景を見守った。

「そうか…柳宿は、お前と付き合っていたのか。誤解をしていて、申し訳なかったな…だが、それなら、尚更、彼女をこの学園には置いておけない」
震える柳宿の体をきつく抱きしめながら、翼宿はその三白眼で尾宿を睨みつける。
しかし、彼は一歩も引かない。あんなにTSUBASAとの接触を避けていた彼が。
そして、その理由はすぐに分かる。
「そして、翼宿…お前も、ここで終わりだ」

「TSUBASA!そこを動くな!警察だ!」
「………っ!」

体育館のドアから数えきれない程の警察官が、群れを成して入ってくる。
見回りに訪れていた警官が、すぐに応援を呼んだのだ。
TSUBASAの団員は愚か、生徒達もその場に立ち竦む。
翼宿の肩越しにそれを見た柳宿は、更に体が強張った。
「ははは…柳宿との交際に現を抜かして、学園に顔を出してなかったのが仇になったなあ!」
そう。警官が学園の見回りをするようになってから、彼らが学園を訪れるのは今日が初めてなのだ。
これは完全な調査不足であり、いつもなら綿密な計画を練る事に抜かりなかった団長である翼宿の責任だ。

「副団長…団長と一緒に、早く逃げてください」
「え…っ!?」
「早く!!」
「確保!!」
団長と副団長を取り囲むように構えていた団員が、警官によって次々に取り押さえられていく。
彼らの悲鳴と生徒の悲鳴が入り交じり、体育館はパニックになった。
あっという間に団員達は捕らえられて、乱暴に連行されていく。
ステージ前に取り残されたのは、翼宿の背中を片手をあげて懸命に護っている攻児と柳宿を抱く翼宿のみになる。
責任者らしき刑事が手錠を手に、後ろに数名の警官を控えて近寄ってくる。
「お前らの奇行も、今日で終わりだ。観念するんだな」
この後に自首するつもりでいたので、逮捕されるのは構わない。
だが、翼宿は迷っていた。今、ここでこの手を離せば、柳宿が…
「翼宿…行かせない…あたしが行かせないから…行かないでよ…」
離すまいときつくしがみついてくる彼女の姿に唇を噛み締めた…その時だった。

ブ…ン!

体育館の照明が突然落とされ、辺りは真っ暗闇に包まれた。
すぐに尾宿の背後に、スクリーンのような画面が映し出される。
「な…んだ…!?これは…!?」
『翼宿。貴様、今のタイムは何だ?前回より、10秒も落ちてるじゃねえか?』
スピーカーから聞こえるその声は、尾宿のドスの利いた声。
スクリーンには何かの大会の映像が映し出されており、一人の教官と一人の学生に焦点が合わせられていた。
教官の顔は確かに尾宿のもので、彼に向かい合ってこちらに背中を向けている学生の髪の毛は橙色に染まっている。
『小さい大会だからって、油断してんじゃねえぞ!』
バシッ!
そして、教官の手は学生の頬を確かに打っていた。
『これ以上、タイム落ちたら、どうなるか分かってんだろうなあ!?その足、へし折ってやるからな!!』
「………あ………これは………」
それは、翼宿に暴行を加えている尾宿の映像。
彼の奇行を証明するには、十分な証拠資料であった。

「美朱…お前、よく、持ってたなあ。こんな映像…」
体育館の後方にある映写室にその映像をセットしていたのは、先程駆けつけた美朱と鬼宿だった。
「星宿先生があたしのお兄ちゃんと翼宿が同級生だったのを知って、陸上部の映像を持ってる人がいないか探してほしいって言われたの。あたしも、中身見た時はびっくりしたよ…だけど、これで分かった。どうして、あの人が暴走族になったのか…」
今日、柳宿の退学が命じられるかもしれないと星宿に聞かされた美朱は、ここでこの映像を流して尾宿の信用をなくし何とか彼女の退学を取り消して貰おうとしたのだ。
映像の終わりを確認して映写機の電源を切ると、美朱は更に言葉を続けた。
「それと、どうして、柳宿が、あの人を愛したのかもね…」

「い、今のは…何かの間違いだ…俺は、何もしていない…何もしていないぞ…」
狂ったように事実を否定する尾宿に、柳宿も翼宿も攻児も何も言えずにいた。
教員も、生徒も、彼らの前にいる刑事の目も、今や慌てふためく尾宿の姿をしっかりと捉えている。
そこで、一人の人物がステージにゆっくりと登っていく。
その人物がマイクの前に立った時、その場のざわめきが止んだ。
「今回は騒ぎにしてしまって、本当に申し訳ありません。ですが、わたしの口から真相を説明させてほしいんです」
黒髪を靡かせて、星宿はマイクをその手に持った。
「今の映像は、三年前のとある陸上大会の映像です。映っているのは、尾宿先生と翼宿。翼宿は日常的に暴力を受けており、そして最後の県大会で喫煙をして退学処分になってしまってからも尾宿先生の暴力は続きました」
柳宿は、翼宿を見上げた。
このような事態を想定していなかったためか、彼も目を泳がせている。
「その件が引き金となり、翼宿はTSUBASAに加入してこの学園を襲撃するようになった。だがこの事実を知った柳宿は翼宿に関わるようになり、どんなに危ない目に遭っても彼を信じて…愛していたんです」
一度、目を伏せて、そして、また星宿は言葉を続けた。
「そんな柳宿を心配して、わたしが彼女に肩入れしてしまった。処分されるべきは、わたしの方です。本当に申し訳ない事をしました…」
「星宿…先生」
柳宿の呼びかけに彼はこちらを向き、そして憂いを帯びた微笑みを浮かべた。
「これでいいんだよ、柳宿。お前は、最愛の人と幸せになるんだ…」

「…尾宿」
星宿に全てを語られ呆然としている尾宿に向かって、次に言葉を投げかけたのは翼宿だった。

「俺はな…今でも許されるなら、あんただけは殺したい。せやけど、そんなん意味あらんて…仲間が…柳宿が…教えてくれたんや…せやから、自分からさっさと消ええ…」

「尾宿先生」
翼宿の言葉に戦き後退る肩が、誰かに掴まれる。
振り向くと、そこには数名の警官の姿がある。
尾宿は、顔を強張らせた。
「お話、聞かせていただいてもよろしいでしょうか?」
権力に護られていた彼の仮面は、この瞬間に脆くも崩れ去った。


「ひとまずは…一件落着やな」
「ああ…『こっち』はな」
翼宿と攻児の会話で現実に戻る柳宿だが、二人を取り巻く状況は変わった訳ではない。
それを肯定するかのように、攻児の前に立つ刑事は改めて冷たい瞳を向ける。
「そうだな。引き金はあったにせよ、お前達がやった事は許される事ではない」
その言葉に、攻児は俯き小さく自嘲の笑みを浮かべた。
「攻…児?」
「なあ?翼宿。ここで、ひとつ…俺に、償いさせてくれへんか?」
彼の異様な言葉に、翼宿と柳宿は同時に首を傾げる。
すると、彼の切れ長の瞳がゆっくりと二人を捉えて。

「お前をこの世界に巻き込んだ償いや。………最後に、二人で過ごせ」

「………こ………!」
その言葉を最後に、攻児は目の前の刑事に飛び掛かった。
取り押さえようとする警官を殴り、小さな乱闘を起こす。
そうする事で、彼らの注意は全て攻児に向いた。
「攻児さん!!」
駆け寄ろうとした柳宿の腕は、しかし翼宿に乱暴に掴まれた。
「翼宿!いいの!?攻児さんが…!」
「………ええんや!」
誰よりも攻児を大切にしていた翼宿のその言葉に、柳宿は押し黙る。

「………あいつからの償い、貰てやるんが筋やろ」
「………翼宿」

前髪で隠れた三白眼は、悔しそうに歪んでいたが。
「逃げるで」
狼は姫の体をフワリと抱え上げると、その場から逃げ出した。
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