百花繚乱・第三部

『秋桜。君とは、結婚できない』
瞳を開くと、冷たい目で自分を見つめてくる永安の姿が見える。
秋桜は息を呑んで、そんな彼に手を伸ばした。
『ねえ?永安。もう少し、待って…?必ず、兄さんを助け出すから。そしたら、きっとみんなで幸せに…』
『そういう問題じゃないんだよ。サヨナラ…秋桜』
『永安!待って…あなたがいなかったら、あたしどうすればいいの!?永安…永安!!』



『秋桜…?秋桜!』
頬に軽い衝撃を受けたところで、秋桜の意識は現実世界に引き戻された。
自分が寝かされていたのは、いつもの寝台ではなく埃臭くて薄暗い部屋。
しかしその体は、ある人物の大きな腕に護られるように抱えられていた。
『幻…狼…』
『…起きたか』
秋桜が目覚めたのを確認すると、翼宿はその体をそっと部屋の壁に預けた。
そして、用心深く彼女の体を確認する。
『どこも、怪我してへんようやな…?』
『あたし…どうして…?ここは…』
『お前、宮殿への獣道に迷い込んでたやろ?』
その言葉に、やっと忘れかけていた記憶が蘇ってきた。
そうだ。確か、永安に婚約破棄されて…誤解を解こうと思った瞬間、出入り禁止と言われていた獣道に無我夢中で飛び込んでいってしまったのだ。
それで狼の罠に嵌まってしまって…しかし、そこから先は覚えていない。
そこで秋桜はようやく、なぜ、今、自分の目の前にそれまでいなかった人物がいるのか。なぜ、今、自分達がこの牢屋のような部屋にいるのかを悟った。
よくよく見ると、彼の右腕と右足には血が滲んだ衣が巻かれている。
『幻狼…!まさか、あの時…あたしを庇って…!?』
『気付くのが、遅いわ。アホ。まあ、掠り傷や…大した事はあらん』
『そんな…!あたしが、約束破ったりしたから…!』

『約束なんて…覚えてられへんかったやろ。あの時のお前は…』

ピチャ…ン
秋桜が言葉を止めた事で、どこかの天井から伝う雨漏りの音が聞こえた。
翼宿は、全て知っていた。あの直前、秋桜に何があったのか。誰を追いかけていたのか。全て…
両の手で着物の裾をぎゅっと掴む。唇を噛む。頬を…一筋の涙が伝う。
『永安にね…フラれちゃったんだ』
『……………』
『兄さんが冷龍山の頭だってバレて…それで、そんな人と家族にはなりたくないんだって…』
『………秋桜』
『あたしは、これから紅南の敵だと思われちゃうのかな?昔から、ずっとあそこで暮らしてきて…紅南も厲閣山も…大好きなのに…』
そこで、秋桜は翼宿を見上げる。
『………幻狼も、あたしの事…?』

しかし、その言葉は続けられなかった。
翼宿の腕が、震える秋桜の肩を強く抱き寄せていたから。

『………げん…ろ…?痛い…よ』
その腕の力は、女の秋桜には痛い程だった。
押し退けようとするも、彼の大きな体は自分にピタリと密着している。
『お前は…お前や』
『…………っ』
『誰と血が繋がってようが…繋がってまいが。あの日から、お前は俺の妹。大事な女なんや!』

その時、秋桜はまた何とも言えないような懐かしさに襲われた。
わたしは、わたし。前にも、この人に言われたような気がする。
抱きしめられた腕の温もりも強さも、何も変わらない。

そうだ。自分には、いつだって幻狼がいてくれたんだ。
どうして、もっと早く気付かなかったのだろう?
幻狼は、あたしにとって大切な…

『幻狼…あたしね…』


『人の妹に、勝手に触らないでくれるか?幻狼さん』


その時、檻の向こう側から聞こえてきた冷たい声が、二人の体を離した。
そこには厲閣山の天敵であり、秋桜の兄貴の太一が立っていた。
『太一…!やっぱり、ここは冷龍山やった訳か…』
『そうだよ。運命だよねえ…まさか狼用に仕掛けていた罠に、君達が嵌まってくれるなんて』
それでも、今回手に入ったのは格好の獲物。
欲しかったものを同時に手に入れられた太一は、ニヤリと微笑む。
『まずは、幻狼。お前には格好の接待部屋を用意したよ。少し飯給ってから殺すのも悪くないと思ってね…移動して貰おうか?』
太一が顎で示した向こう側には、鞭と鎖を持った山賊が待ち構えている部屋がある。
恐らく、豚や狼の調教用の部屋だろう。
『やだ!やめて、兄さん!幻狼を連れていかないで!』
『秋桜。そんなに、兄さんを悲しませないでくれよ…僕達、血を分け合った兄妹だろう?』
『違う!あたしを育ててくれた幻狼を殺そうとするのは…兄さんでも何でもない!それに…あたしは厲閣山が大好きなんだ!乗っ取ろうなんて、絶対許さない!』
『秋桜!あんまり、抵抗すんな!』
怒りを露にする秋桜を必死に押さえ付ける翼宿の姿に、太一の沸点は上昇した。
足をドンと踏み鳴らし、声を荒げる。
『ええい!!おい、お前!早く、幻狼を引きずり出せ!秋桜は仕置きとして、暫く放置だ!』
『はい!』
後ろに控えていた山賊の一人が、その命令に従って前へ進み出る。
鍵束を取り出し、翼宿達を捕らえている檻へとゆっくりと近付いていく。
傷の痛みで、翼宿は思うように体が動かない。
それでも唇を噛み締めて、後ろに必死に秋桜を庇う。
もはや、絶体絶命。すると。
山賊の口許が、ニヤリと歪んだ。

『…翼宿。もう、仲間の気を感じられなくなってきたのだ?』

『…え?』
その口許から発せられたのは、陽気な声。
それは、どこか懐かしくも感じられる声。
『おい、お前!どうした?』
『太一頭。あなたの言う通りには、出来ませんのだ』
『何を…』
『おいらも、朱雀七星士。せっかくの生き残りを、むざむざ死なせる訳にはいきませんのだ!』
檻の前に立つその山賊は、次の瞬間変装を解いた。紺色の袈裟が、揺れる。
『井宿!?』
そう。それは、冷龍山の山賊になりすました井宿だったのだ。
仲間の参上に顔を輝かせた翼宿の後ろで、秋桜はくいと首を傾げる。
『厲閣山頭とこの娘、返して貰うのだ!』
『何だ、この化け物は!やっちまえ!!』
更に後ろに控えていた山賊達が、太一の指示で一斉にその法師めがけて剣を振り上げた。
『喝!!』
井宿がすぐさま念を込めると、眩い程の光が辺りを照らした。
太一達は、思わず目を押さえる。
そして次の瞬間、そこにいた法師も檻に囚えられていた二人も忽然と姿を消していた。


『ふう…危機一髪だったのだ』
無事に厲閣山に戻った翼宿と井宿は、頭の部屋でようやく腰を落ち着けていた。
『しかし…お前も、タイミングがよかったな。ちょうど、厲閣山を訪れてくれてたなんて』
『そうなのだ。久々なのでどうしているかと思ったら、頭が行方不明と聞いて。慌てて気を探り、冷龍山山賊の一人に変装して忍び込んだのだ』
『ホンマに…お前が生きてて、よかったで』
コンコン
するとそこに、ひとつのノック音が聞こえた。
翼宿が返答すると、二人分の茶を持った秋桜がおずおずと入ってきた。
『あの…粗茶ですが、もしよろしければ』
『ああ。ありがとうなのだ!お体は、何ともないのだ?』
『ええ…本当に…ありがとうございました!…朱雀七星士様のお姿をこうして拝見できて…感激しています!』
まるで長年恋い焦がれていた待ち人にでも出会えたかのように、秋桜は井宿の姿にソワソワする。
『そうなのだ?では、今度来た時は、旅の話でもゆっくりと聞かせるのだ!』
『は、はい!是非!それでは…』
嬉しそうに会釈をし、そしてそれ以上邪魔はせんと彼女はその部屋から姿を消した。

『…何を、面白くない顔をしているのだ?』
『けっ!俺かて、お前と同じやっちゅうに!』
『…仕方ないのだ。お前には、首領というもうひとつの任務がある。彼女には、首領としてのお前の方が板についているのだろう?』
確かに、厲閣山でも鉄扇を振り回している自分と術を使って人助けが出来る井宿とでは出で立ちは違うのかもしれない。
そこでひとつため息をつき、翼宿は自分の前の茶を口に含んだ。
『大変そうだな。冷龍山との対峙は』
『ああ…これで終わりやないやろ…それどころか、秋桜の奴。更に兄貴の事刺激するような事、言うとったし』
井宿はその言葉に、眉を潜めた。

『彼女が…柳宿の生まれ変わりなのだろう?』

『せや。やっぱり、一目見て分かったんか?』
『ああ。彼女を見た時、膝が疼いたのだ』
『まあ…生まれ変わり言うても、体は女や。闘い向きやあらん。まあ…昔のあいつも、闘い向きやなかったけどな』
しかしそんな昔話を語る翼宿の目は、どこか優しいもののようにも見えた。それはまるで、やっと出会えた恋人を慈しむかのような…
しかし、井宿の表情は変わらなかった。

『翼宿。お前、彼女の事が好きなのか?』

次に飛び出した意外な質問に、驚いて顔をあげる。
そこには、真剣な顔をした井宿の姿があった。
『な…に、言うてんねん…?別に、俺は…』
『彼女は、恐らくお前を慕っている。だけど、もしもお前が柳宿の生まれ変わりとして彼女を見ているなら…その気持ちには答えない方がいいのだ』
『…………っ』
翼宿は、その言葉の意味をやっと理解した。

そう。柳宿と秋桜は違う。
しかし秋桜の姿に、いつしか柳宿を重ねていたのも嘘ではない。
また失いたくないと思う気持ちが、自分を突き動かしていたのも。
しかし、その気持ちは…決して秋桜に対してではないのだ。
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