百花繚乱・第三部

『離れろ…秋桜』
苦痛に顔を歪めた翼宿は、固まって動けなくなっている秋桜の肩を押す。
『幻狼…げん…ろ…』
ガブッ!
『ぐ…あっ…!』
左側の背を切り裂かれた翼宿の右腕を、容赦なく狼の牙が喰らう。
『こん…のお…!しつこい奴やな…』
『やだ!幻狼!血が…血が…』
『ええから!お前は、近寄るな!』
このまま右腕を喰われたら、例え鉄扇を見つけたとしても自分の手で扱う事は出来ない。

どうする?どうすれば?

翼宿は、静かに目を閉じた。
自分が本当に鉄扇に選ばれた人間なら、先代に頭に指名されるに値する人間なら、触れずとも鉄扇を扱える筈。
その間にも、狼が骨を砕く音がする。

鉄扇…!頼む…!力…貸してくれ!

すると、狼のすぐ背後が朱く光り出した。
少し、牙の力が緩んだ。

『烈火…神焔!!!』

雄叫びより早く、雪原から飛び出した焔が狼を包み込んだ。
一瞬で…骨まで、焼き尽くした。


ハアハアハア…
翼宿の呼吸が荒くなる度、秋桜は何度も彼の肩を摩る。
『幻狼…頑張って。もうすぐ…攻児が来てくれるから…』
『こんなに…近くに埋まってたなんてなあ…』
今や、鉄扇は持ち主の手元に戻ってきている。
だがその右腕は見るも無惨に裂けており、それを掴む事は出来ない。
『泣くな。秋桜…』
そして次には、自分を抱えている涙で濡れた秋桜の頬を左手で優しく撫でる。
『お前に…言わなきゃいけない事が…あるんや』
『な…に?』
『お前はな…朱雀七星士の…柳宿の生まれ変わりなんや。俺の…恋人やった』
『…………………』
『それで…ここは、そいつが死んだ場所なんや』
その言葉に、秋桜は周りを見渡す。
『こんな…冷たい場所で…?』
『ああ…せやから、俺…今度こそ、柳宿を一人で逝かせたくないって…その一心でここまでお前を助けに来た。その気持ちがあったのは…嘘やない』
『幻狼…』
北風が、徐々に翼宿の体力を奪っていく。
柳宿と同じ場所を切られ、柳宿と同じ状況に置かれ、彼はこんなに苦しかったのかとそんな事をボンヤリと考える。
それでも彼女をまっすぐに見据えて、掠れた声でこう呟いた。

『だけど…俺…お前が柳宿の代わりやなんて…思ってないから』

『え…?』
翼宿は大きく息を吸い込んで、続けた。
『お前と過ごしたこの十年…厲閣山で喧嘩したり飯食ったり一緒に寝たり…そんな生活、柳宿とは考えられん事ばかりやった…』
『……………うん』
『楽しかったし…ずっとずっと…こんな生活が続けばええなって…思うようになってた』
『……………うん』
瞼が重くなっていくが、構わず翼宿は続けた。


『なあ…秋桜。お前…ずっと、俺の傍に…おれや。ずっと…俺の傍に…』


秋桜は、何度も何度も頷いた。
『あたし…あたしも、幻狼が…大好きだよ。ずっとずっと…大好きだった。だから…』

そこで、彼は安心したように微笑んで…意識を落とした。
『幻狼…?』
大きな体を揺さぶるも、どんどんその体が冷たくなっていくのが分かる。
『幻狼!?幻狼!!嫌だよ…幻狼!!』


せっかく、気持ちが繋がったのに…
ねえ。柳宿!まだ、いるなら…翼宿を助けて!
あたし一人じゃ…何も出来ないよ!!


『柳宿…』
(ったく…しょうがないわねえ)
『…っ?』
頭の中で、声がした。
(これで、最後よ?日に日に、あんたの中のあたしの記憶は薄れていってるんだから…)
『うん…うん』
(あたしの気を翼宿に送るから…あんたが、届けなさい。その唇で)
『柳宿…でも、いいの?』
(いいに決まってるでしょ!?あんたが翼宿と幸せにならないで、誰が幸せになるって言うのよ!?)
『柳宿…』


(あんたに…任せたわよ。秋桜)


秋桜は意を決すると翼宿の頬を両手で包み、冷たくなった唇にその唇を重ねた。
暖かい気が、唇から唇へ移っていくのが分かる。


(翼宿…生きて)


『……………っ』
翼宿の左手の指が、僅かに動いた。
急いで顔をあげると、そこには。
『………秋桜。おのれは』
照れ臭そうに自分を見上げる、彼の顔。
『幻狼…』
『勝手に、人の唇…奪うなや』
しかしそこにあるのは、太陽のような大好きな笑顔。
『幻狼!幻狼ーーー!』
抱きついてくるその小さな体を、翼宿は片手で優しく摩った。

『―――幻狼!秋桜!』

遠くから、仲間の声が聞こえる。
『ありがとな…秋桜。どうやら、助かったようや』
『うん…帰ろう。幻狼…一緒に、厲閣山まで』


一緒に、帰ろう。
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