空翔けるうた~04~

パタン…
ひなは今朝に翼宿に言われた通り、学校が終わったらまっすぐに帰宅した。
玄関の扉を閉めても、火照った体の熱は引かない。
数刻前の出来事を、思い出す。

『あたしを…好き?じ、冗談でしょ?小澤くん…』
自分の体を強く抱き寄せている彼の胸をそっと押して、ひなは問い返す。
『冗談じゃないよ。初めて会った時から可愛いなって思ってて…ずっと、告白する機会を伺っていた』
『…………っ。でも…』
『陽山さん…もしかして、他に好きな人がいるの?』
その言葉に、脳裏に浮かんだのはなぜかあの男性。
しかしそんな事を彼に言える筈もなく、首をブンブンと横に振る。
しかし、それが逆に必死の否定だと捉えられ。
『なら、俺とこのまま…』
小澤の手が、ひなの頬に触れる。
『あーーーあの!今は、ホラ!ピアノに集中したいんだ!だから…まだ、彼氏はいいっていうか…』
『……………………』
『ご、ごめんね!小澤くん!また、明日…』
それだけを言い残すと、ひなは足早にその場を離れた。
しかし、取り残された小澤の眼鏡の奥の瞳には少しも諦めの色は見えなかった――――

ニャ?
ソファに座ると、タマがいつものようにすり寄ってくる。
「どうしよう…タマ。お母さんに、相談した方がいいのかな?」
先程の返事でちゃんと断れていたのだろうか、そればかりが不安になる。
確かに、小澤の事は嫌いではない。元々物静か同士、一緒にいれば気が合う事もあるだろう。
それでも彼のあの威圧的な目を見た時に感じた感情は、恐怖に近いものだった。
その時に自分の中の本能が、彼とは友達のままがいいと思わせたのだ。
「それにさ…あたし、あの時、お父さんの顔が浮かんじゃったんだよ。変なの…」
『好きな人』のフレーズに迷わず思い浮かんだ男性は、紛れもなく父親の顔。
昨夜に父と母が抱き合っている姿を見たからか、余計に父に近付きたくなったのも嘘ではない。
だけどそれは恋ではなく、娘としてまだまだ甘えたい盛りの気持ちであるだけの筈だ。
一体、翼宿は自分にとってどんな存在なのだろうか?
バタン
そこに聞こえたのは、玄関の扉を閉める音。
「…ひな。帰ってたのね」
部屋に入ってきたのは、喪服に身を包んだ柳宿だった。
お通夜を済ませて、帰ってきたのだろう。
「お母さんも…お疲れさま」
「ごめん。この後、また職場で打ち合わせがあるから出なきゃいけないんだけど…
ビーフシチューあるから、温めて食べてね?」
「うん!あ。お母さん!」
疲れきった母親の背中に、ひなは声をかける。
「明日のご飯は、あたしが作るね。お母さんは、ゆっくり休んで…それと」
「…………?」

「あたし、週末の発表会、絶対に優勝するから。出場できなかった康林ちゃんの為にも…お母さんの為にも」

「…………っ」
それは、今朝からずっと考えていた秘め事。母親の為に、娘の自分が出来る事。
柳宿は瞳に涙を溜め、そっとひなを抱きしめた。
「ありがとう…ひな。お母さん…ひなが、大好きよ」
ひなも、また柳宿を抱きしめ返す。
「あたしもだよ…お母さん」

壊れそうな母親の背中を抱きしめて、思った。
柳宿に、今日の事は言えない。
今は、発表会に向けて全力で頑張ろう。
きっと、何もかも上手くいく筈だと―――


それからというもの、毎日、夜遅くまでひなは自宅のピアノで課題曲の練習に明け暮れた。
今まで納得がいかなかった部分やおざなりにしていた部分の全てを総ざらいして、より完璧に近い演奏を目指した。
当日、父親は来ないけれど、母親も鬼宿一家も見に来てくれる。
みんなによい結果を報告出来るようにと、ひなはこれまでにないくらい一生懸命練習を重ねた。


そして、当日。
「翼宿?翼宿!」
「あー!すまん、何や?」
助手席で時計ばかりを気にしていた翼宿は、やっと隣に座るマネージャーの声掛けに応答する。
「ったく…デートの約束でもあるんか?さっきから、時計ばかり気にしよって」
「いや。すまん…仕事の話やろ?」
「………………ああ。この後、番組の収録1件と雑誌の取材2件なんやけど…」
「ああ」

「ぜーんぶ、リスケや」

「っ!!はあ!?」
翼宿は、攻児のお気楽な言葉にすっとんきょうな声をあげる。
「何を寝ぼけた事…ほんなら、この車は、今、どこに向かって…」
「朱翼国民記念ホールって…次の角を右でええんよな?」
「…攻児」
そう。その目的地は、我が娘がこれから本番を迎えようとしている発表会の会場だった。
「お前、何で…」
「俺の権限で、リスケ出来る思うか?取締役直々の命令や!」
「…たまか。せやけど、キャンセル料は…」
「もちろん、取締役の自腹。たまには、家族サービスさせてやれってさ。悪い。事前にお前に伝えたら絶対に断られるからって、今日まで黙ってた!」
しかし、彼のその謝罪に怒りで返す理由はない。
本当は娘の晴れ舞台を見たかった自分にとっては、とても感謝すべき事だった。
「番組の収録は夕方までしかずらせなかったからそれまでには戻らなきゃいけないけど、それくらい時間があれば十分やろ?」
「ああ。おおきに…」
「俺も、大きくなって美人になったひなちゃんに会いたいし♡ほな、飛ばすでー!」
「お前。手出したら、殺すからな?」


『ひな!精一杯、楽しんでくるのよ?』
『そうだよ、ひなちゃん!結果は、後後!行ってらっしゃい!』
先程、ロビーで柳宿と鬼宿にかけられたエールを胸に、ひなは舞台袖で次の出番を待っていた。
どんなに心強いエールをかけられても、大舞台を前にすると不安と焦りでいっぱいになる。
自分以外のピアニストが、とても上手に見えてくる。

大丈夫だよ…ひな。
今までだって、小さな大会にたくさん出てきたじゃない。
ちょっと、舞台が大きくなっただけ…大丈夫。

鬼宿さん…お母さん…
……………お父さん。見ててね。


「翼宿!すまん!まさか、駐車場あんなに混んでるなんて、思わんかった~ひなちゃん、もう始まっとるかなあ!?」
「お前が、謝る事じゃないやろ。それより、もう少し声のトーン落とせ」
サングラスをかけて変装を施した翼宿は、騒ぐ攻児を引き連れてやっとホール前に駆け付けた。
他の客の迷惑にならないように、そっと扉を開けると…

『続きまして、「コスモス・ピアノ」代表・陽山ひなさんです』

「…間に合った」
安堵する攻児の横で、翼宿も小さく息を吐いた。
青いドレスに身を包みお辞儀をして顔をあげたひなの顔には、不安が見え隠れする表情が見える。
元々緊張しいな子なのですぐにでも声をかけてやりたい程だったがそんな事は出来ず、翼宿は祈るように彼女を見つめる。

ひな…頑張れ。

パチパチパチパチ…
一方、客席からの拍手を受けた舞台上のひなの緊張はまさにMAXになっていた。
客席の一際目立つところには、柳宿達が座っている。
彼らを安心させるように笑いかけるが、ほんの少しだけ両手が震えている。
心の中は、未だに不安でいっぱい。

大丈夫…だよね?
あたし…ちゃんと、最後まで弾けるよね?


ひな…頑張れ。


そこに、父親の声が聞こえてきたような気がした。
ふと入口近くの席に視線を移して、目を疑った。
そこに座っているのは、オレンジ色の髪の毛の男性。
間違いなく、父親だった。
彼は、まっすぐに微笑み頷きながらこちらを見てくれている。

おとう…さん。

父が、来ている。
その現実は、ひなに原動力を与えた。
そして普段の落ち着きを取り戻したひなは、ようやくピアノの椅子に座る事が出来た。

大丈夫…あたしは、出来る。

鍵盤に、しなやかな指先が置かれた。



数刻後、ひなの両手に抱えられていたのは『準優勝』のトロフィーだった。
大ホール前の広間で皆に報告をしている間も、ひなの涙は止まらない。
「ひな?もう、泣かないでよ…あんたは、よく頑張ったよ」
柳宿がひなの肩を懸命に擦るが、彼女は必死に首を横に振っている。
「ごめん…ごめんね?お母さん…あたし、優勝したかった…優勝したかったの…」
「ひな…」
柳宿も、鬼宿一家も、それ以上言葉をかける事が出来ない。
「お父さんも…見てくれてたのに」
「え…?お父さんも…?」

「ああ。見てたで」

後ろからかけられた声に、その場にいた者が一斉に振り向く。
そこには、翼宿と攻児の姿があった。
「たっ、翼宿!?あんた、何で…」
「そこのお節介な上役に聞けや」
その言葉に、鬼宿はペロリと舌を出す。
そのまま、翼宿はひなの前まで進み出た。
「お父さん…ごめんね。せっかく…来てくれたのに、あたし…」
「ひな…優勝したかったか?」
父親のその質問に、ひなは首を縦に振った。
すると、翼宿はひながトロフィーを持つ手にそっと自分の手を重ねた。
「お父さん…?」
「せやけど、お前。このトロフィー、軽く感じるか?」
突然の質問に、ひなと周りの人間は驚く。
物理的な事を、言っているのか?それとも。
「…ううん。軽くない」
そう答えてみると、翼宿は優しく微笑んで続けた。
「せやろ?準優勝かて、立派な勲章や。誰でも、取れるもんやない。この大人数の中での準優勝や…胸張ってええんやで」
「お父さん…」
「それに、2番になった人間はもっともっと上を目指せるっちゅー事や。お前は、これからももっともっと頑張れる。そうしたら、いつか本当に1番になれる時が来るから」
ひなは、何度も何度も頷いた。
柳宿もまた溢れる涙を拭いながら、ひなの頭を撫でる。
「康琳にも、胸張って報告してくるからね?」
暖かい両親に育てられてここまで来られている事を、この時、ひなは心から感謝した。

「家族って…ええなあ」
「俺も、今回はいい仕事したな!」
「何、言ってるの!鬼宿も自分も子供になって子供達と遊ぶだけじゃなくて、もう少し翼宿さんみたいに子供の鑑になるような事言える父親目指してみなさいよ!」
「…美朱。それ、きつい」
そんな光景を眺めながら、攻児、鬼宿、美朱はこんなやりとりを交わしていた。


「いや~ドレスアップしてたからか、ひなちゃんますます美人になったなあ!独り者のおじさんの相手でも、してくれへんかな~」
「…やから、お前、さっきから父親捕まえて言いたい放題やで。口を慎めや」
ひな達と別れ、翼宿と攻児は仕事に戻る為にエスカレーターを下っていた。
「せやけど、翼宿。ひなちゃん、学校じゃホンマにモテモテなんやないか?変な男に襲われないように、見張っておくんやで?」
「大丈夫や。そこは、柳宿に任せてる…」
ドン!
すると、翼宿の背中に誰かがぶつかった。
「…と!すまん!」
しかし、その少年は特に反応を示さずにスタスタと歩いていった。
「例えば、あんな無愛想な奴なんて問題外やで…」
攻児は、そんな少年の背中を指差して呟いた。

その少年は先程演奏していた綺麗な少女の姿を思い返しながら、眼鏡の奥の瞳を不気味に光らせていた―――
6/17ページ
スキ