空翔けるうた~04~

雪がちらつき始める、1月。
「おはようございまーす!」
「柳宿先生!おはようございます!」
ピアノ塾「むらさき」。
そこには、今日もたくさんの子供達が入ってきた。
その中には、柳宿が入塾当初から指導をしている康琳という少女もいた。
「おはよう、康琳!いよいよ、来週が市の発表会ね!むらさき代表として、しっかり頑張るのよ!」
「はい!よろしくお願いします!」
柳宿は、彼女の事を第二の子供のようにそれはそれは可愛がっていた。


パタン…
柳宿が出勤していった一時間後、ひなもまた自分の通うピアノ塾に行く為に自室の扉を開けた。
ふとリビングに顔を出すと、そこには珍しく父親の姿があった。
「お父さん…」
「はよ」
それだけ声をかけると、翼宿はテレビのニュースに目を向けた。
「今日は…仕事じゃなかったんだ」
「夕方まで、オフや。また、帰りは遅くなるけどな」
年に数回ではあるが、このように翼宿が昼間オフを貰える日がある。
しかしそんな時に限って、ひなは朝から用事があったり今日のようにすぐに出かけなければならなかったりするのである。
本当は、たまに会えるこの時間がお互い嬉しい筈なのだが…
「そういえば」
「ん?」
「来週やろ?市の発表会」
「あ…うん」
「母ちゃんの教え子も出るって、張り切ってたからな。お前も、負けずに頑張れよ」
「う、うん!あの…お父さんは…」
「すまんな、俺は行けへんけど」
珍しく父親から送られたエールにひなの心は少し弾んだが、次にはお決まりのこの言葉。
翼宿は、ひなの参加行事には皆無と言っていい程に参加した事がない。
「だよね…お父さんも、お仕事頑張ってね。じゃあ…行ってきます」
「気をつけろよ」
いい子でいなければという自尊心から我儘も言えずに、ひなはその場を立ち去った。

『…それでは、次のニュースです。昨夜、渋谷区で3件目の通り魔事件が発生しました。銀色のバイクに乗った20代前後の男性が、女性や子供を狙って轢き逃げするというものです。犯人は現在も逃走中で、警察は市民に厳重な警戒を呼び掛けています』
ひなが出ていったすぐ後にテレビから流れてきたニュースを、翼宿はその険しい三白眼で睨み付けた。



「ふう…今日も、いまいちだったなあ」
塾を終えて帰路につく途中、ひなは大きくため息をついた。
それは今日のピアノの出来ではなく、今朝の父親との会話の事。
翼宿が珍しく自分を気にかけてくれた事は嬉しい事だが、それでも結局最後には彼の仕事に彼を取られてしまう。
ブラウン管で輝いている翼宿の姿は好きだが、それでもその活躍が彼との距離を遠ざけているのは悲しい事だ。
相談するにも、母親であり彼の妻である柳宿にするのも変であろう。
誰かに、吐き出してしまいたい…そんな思いで胸がいっぱいになった時。
「あれ?ひなちゃん?」
どこか懐かしい声に名前を呼ばれて、振り向くと。
「鬼宿さん!?」
それは、父親の親友でありかつてのパートナーの姿だった…


「いやあ!すっかり、美人になっちゃって!3年ぶりくらいだよね?」
「はい…お父さんのライブの時以来ですよね?」
あれから、二人は近場の喫茶店に入った。
ひなは、小さい頃から鬼宿にもとても親しくさせて貰っていた。
空翔宿星のDVDで見た時よりも、翼宿と同じく渋味を増して今や少し生やした髭がトレードマークになっている彼だが、それでも鬼宿は柳宿同様自分の兄のような存在だった。
「ピアノの方は、順調?」
「あ…はい。来週の市の発表会に塾代表で選ばれたので…今は、その練習です!」
「さすが、柳宿の娘だな~翼宿も、喜んでるでしょ?」
「…そうだと、嬉しいんですが」
その意外な反応に、鬼宿は首を傾げる。
「ん?翼宿と、何かあった?」
「い、いえ!何もないです!何もなさすぎて、何だか…」
「…なるほどね」
「え?」
次に首を傾げたのは、ひなの方だった。
「翼宿と、あんまり会話出来てないんでしょ?」
「…………っ」
「そりゃ、そうだ。うちの会社は、翼宿には無駄に働かせてるから…取締役として、申し訳ないよ」
今やyukimusicの上役に昇格した身として、彼は申し訳なさそうに呟く。
「そんな!お父さんも、今の仕事が大好きだから、光栄だと思います!」
「そうなんだよね。何もない時でも、遅くまで会社に残って作曲したりしてるから余計に帰りが遅くなるんだよ。俺からも、早く帰るように言ってるんだけど…」
「そうなんですか…」
強がりを言いながらも肩を落とすひなの姿を、鬼宿は目を細めて見つめる。

「ひなちゃんは、お父さんが大好きなんだね」

予想もしなかった言葉に、ひなは驚く。
「鬼宿さん、何、言ってるんですか!?そんな…この歳にもなって、ファザコンみたいな事は…」
「うーん?そういうんじゃなくて…一人の人間として、尊敬してるんでしょ?」
核心をつかれる。確かに、そうだ。
あれだけ騒がれれば仕方がない事だが、あれだけ才能を持ち合わせている父親を尊敬している。
そして、家族にときたま見せる冷静さや優しさ、思いやりといった人徳を持ち合わせている点も。
「君のお母さんも、翼宿の仕事魂には随分と苦労してたもんだよ」
「お母さんも?」
「昔のあいつは、今よりも音楽に一本気だったからね。女の子になんてしこたま興味ない!って感じで…だから、柳宿が翼宿を振り向かせるのには相当四苦八苦してた」
「へえ…」
あまり語られる事のなかった、両親の馴れ初め。
娘の自分から見ても目を見張る程、今でも母親は父親に献身的だ。
自分を上回る彼への愛情を、いつも感じている。
「だからね、ひなちゃんができたって聞いた時は、俺もおったまげたもんだよ。うちの方が嫁と知り合ったのは早かったのに、子供ができたのは翼宿達の方がずっと先。まさか、二人がそんなに早く愛を育んでたなんて思わなくてさ…なんて、これって親父のセクハラだよね」
ひなは、首を左右にブンブンと振る。
それでも、少々気恥ずかしいが…
「だから、翼宿は今でもひなちゃんを大事に思ってると思う。それこそ、柳宿とは違う愛情を持って…ね」
「お父さんが…?」
まだいまいち真意を掴めないひなに、鬼宿は更に声をかけた。
「ねえ。ひなちゃん?今夜、少し翼宿を借りてもいいかな?」
「え?それは、構いませんけど…」
「ひなちゃんの気持ち、伝えとくね」
「え、ええ!?」
「だって、こんな事、柳宿には相談出来ないでしょ?」
「う…」
それは、そうだ。
ならば、ここは鬼宿の助け船に甘えるのも手かもしれない。
「よろしく…お願いします」
「うん!何かあったら、連絡入れるからね」
何だか、まるで告白の手伝いを頼んだかのような気分だ。
ひなは顔を真っ赤にしながら、コクンと頷いた。



「お疲れさまでーす!」
今日も、yukimusicの社員が帰っていく声がする。
翼宿はオフィスと隣接する個室スタジオで、今日も遅くまで音の確認をしていた。
だから…こっそり、入ってきた親友に気付く筈もなく。
「お父さん!!」
「どわっ!!何やねん、たまかいな!」
突然、後ろから抱きついてきた鬼宿を翼宿は勢いで突き飛ばす。
「ったく…仕事に集中しすぎだっつーの」
「しゃあないやろ。家じゃ、集中出来んし…それに」
「仕事してると父親の顔になれないから、ひなちゃんにも申し訳ないってか?」
「はあ?」
「おい。今日は、久々に酒付き合えよ!業務命令だ!」
鬼宿は、そう言うと軽くウインクをした。


「ひなに、会っただあ?」
「ああ!昼間に、偶然ね~。久しぶりでますます綺麗になってたもんで、喫茶店に連れ込んじゃった」
「いい歳した親父が…また、報道されても知らんぞ」
渋谷駅前の居酒屋で、翼宿と鬼宿は久々に酒を酌み交わしていた。
柳宿がバイトしていたバーも「白い虎」も今は全て店を畳んでしまっているので、サラリーマンがよく立ち寄る風情がある居酒屋で。
こんなところに立ち寄るようになったのも、二人が歳をとった証拠であろうか。
すると、いきなり鬼宿はほろ酔い混じりに翼宿をビシッと指差した。
「翼宿!お前とひなちゃんの心は、今や、離れかけているぞ!」
「…何やねん、いきなり」
「お前、最近、ひなちゃんとどこか出かけたりしたか?飯、一緒に食ってるか?」
「…………………」
暫しの沈黙の後、ため息をつきながら翼宿は煙草に火をつける。
そんな相変わらずの彼を見て、鬼宿も深くため息をつく。
「…お前さ。仮にも父親なんだから、もう少し構ってあげるとかしねえと…」
「子育ては…全部柳宿に任せてるって言うとったやないか」
「それは、そうだけど」
「ガキの頃はな…ひよこみたいにピヨピヨしとったから、上手く手懐けられたんや。せやけど、年頃の娘になってくると…会話に困るねん」
確かに、今の翼宿の悩みは年頃の娘を持つ父親なら当然の悩みかもしれない。
ましてや、女嫌いを豪語していた彼の子供が女の子とくれば…恋人とはまた違う扱いにくさは、並大抵の事ではない。
「確かに…うちみたいに、中坊ばかりの家なら…お前も、少しは父親らしくなってるのかもな」
一方の鬼宿にも二人の男の子がいて、こちらはすっかり子煩悩になっている。まあ、彼ならば例え女の子ができたとしても、扱いには困らないだろうが…
「だけどさ…お前は、男の子がよかったなんて一度だって思った事はねえだろ?」
「…そら、そうや」
翼宿はその質問に、口から離した煙草の灰を灰皿に落としながら答える。
「俺の子供は…ひなだけやからな」
「だったら…さ」
鬼宿は、翼宿の手元の携帯を渡す。
「は?」
「電話してやれよ」
「な、何で、そんな事…!気色悪いやろ!こんな時間に、父親から電話なんて…」
「何、言ってんだよ!俺が、想像だけでお前を飲みに誘ってひなちゃんとの関係について熱弁すると思うか?」
「…え?」
「お前と上手く話せないって悩んでたのは、ひなちゃんも同じだったんだよ。お前の事、年頃になっても一度だって邪険にした事はない。お前を父親として、今も心から慕ってるんだぞ」
「……………っ」
その言葉に、翼宿は頬を染めながらカリカリと頭を掻いた。



「先生!さようならー」
「さようなら!気をつけて、帰るのよ?」
21時過ぎ。「むらさき」は最後の講義を終えた。
自習室では、柳宿の教え子の康琳がまだピアノの前に座っている。
「康琳?もう、帰る時間よ!最近、物騒な事件が多いから、早く帰りなさい?」
「うん…でも、ここのパートがどうしても弾けないの。ここをクリアしないと、柳宿先生の為に優勝出来ないよ」
そんな可愛らしい悩みを訴えてくる少女の頭を、柳宿は優しく撫でる。
「その気持ちは、嬉しいわ。でもね?がむしゃらに練習する事だけが、優勝への近道じゃないの。きちんと自分を労って、ご褒美をあげる事も大切なのよ?」
その言葉に、康琳は鍵盤の蓋を閉めた。
「分かった!今日は、帰るね」
「また、来週ね!」

ドルルルル…
「むらさき」の通りの路地裏に、銀色のバイクが止まっている。
その運転手は、特に意味もなくエンジンを吹かし始める。

「先生!さようなら!」
「さようなら!気をつけるのよ!」
康琳は手を振りながら、青信号の横断歩道を向こうへ渡っていく。
柳宿も見送り、室内に戻ろうとしたところ。

ブゥーー…ン………
遥か遠くから、バイクのエンジン音が聞こえる。
当然、良識のある人間なら、赤信号で止まるだろう。
しかし、そのバイクは何の迷いもなく康琳が渡るその横断歩道へ…

「…………っ!!康琳!!危ない!!」

柳宿の声に振り向いた康琳の体は、既に宙へ…
そのバイクによって、高く高く舞い上げられていた。

雨が、降り出す。
アスファルトに叩き付けられた小さな体から流れ出した鮮血を洗い流すかのように
徐々に激しく、激しく…



Plllllllllll…
ひながいつも通りピアノで遊んでいると、タマがサイドテーブルに置いてある携帯を指し示した。
誰かからの着信のようだ。もしかして、鬼宿だろうか?
息を呑んで携帯を手に取ると、その相手は何と我らが父親からだった。
慌てて、電話に出る。
「も、もしもし!?」
『あー…ひな?もう…寝たか?』
「ま、まだだよ!お母さんも、まだ帰ってこないし…」
『そ…っか』
突然、翼宿が電話をかけてきた趣旨が分からず、ひなは困惑する。
「あの…?」

『今度…どっか、ドライブ行くか?』

「……………っ」
そのお誘いに、胸が高鳴った。
『や…情けない話、たまに怒られたんや。お前と、ちゃんと話せてない事…』
「お父さん…」
『いつになるかはまだ約束出来んけど、何とかお前の休みに合わせて俺も休み取れるようにするから。そしたら…な』
電話の向こうの父親の声は、懐かしい程に優しくて。
「うん!約束ね!あたし、楽しみに発表会頑張る!」
ひなは、嬉し涙をぐっと堪えて笑顔で答えた。


この時、妻が、母親が
大変な目に遭っている事など、二人は全く気付けずにいた――――
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