空翔けるうた~04~
~♪♪♪
「ひなー!近所迷惑になるから、そろそろ寝なさいよ?」
「はーい!」
階下からの母親の声が、ひながピアノで遊ぶのをやめる合図。
ひなはため息をつきながら鍵盤の蓋を閉めて、時計を見上げる。
時刻は、午後11時。
今日も、父親が玄関の扉を開ける音は聞こえない。
本当はピアノで時間を潰しながら父の帰りを待ち、「お帰り」と一言言ってあげたいのだ。
だけど、いつも時計が天辺を過ぎるまで彼は帰ってこない。
今日も、いつも通りの事なのに…ひなの心はざわついている。
「…お父さん」
一言呟き、ひなは冷たいピアノに頬を当てる。
思い出されるのは、3年前の事―――
カチャ…
重苦しく開かれた扉に、留守番役のタマは首を傾げる。
だが、入ってきた人物の異変に次には尻尾をピンと張り詰めた。
ニャン!ニャン!
そこには、いきなり玄関に倒れ込んだひなの姿があった。
「何とか…帰ってきたは…いいものの」
ひなは、この日、40度を超える高熱を出して学校を早退していた。
今まで大きな病気もせずに過ごしてきただけに、初めての感覚にひなは動揺と恐怖を感じていた。
体が重い―――頭も重い―――
きっと、今頃、学校から母親に連絡が行っているだろうが…それまで、寝床に辿り着けるだろうか?
ひなは、少しだけ…と、玄関に倒れ込んだままで目を閉じた。
Plllll…
移動中の車の中で、翼宿は妻からの着信を受けた。
「もしもし?」
『もしもし?翼宿!ひなが…ひなが、高熱出して早退したって…今、学校から連絡があって…』
「はあ!?お前は、どこにおんねん?」
『それが…生徒のピアノの発表会で埼玉に来てて…バタバタしててひなにその事伝えるの忘れてたから、あの子、あたしが帰るの待ってるかも…』
我が娘が初めて体調を崩した事で、電話の向こうの妻はかなり慌てている。
しかし、夫であるその男は昔と同じように冷静だ。そして、こんな時だけはすぐに機転が利く。
「…分かった。俺が、帰る。お前は、ちゃんと仕事しろ。ええな?」
『翼宿…』
「また、連絡する」
ピッ
「翼宿?どういう事や?この後、雑誌の取材が2件入ってんねんで?」
運転席に座っているマネージャーであり同じ関西人である攻児が、今の電話の趣旨を尋ねてくる。
「…すまん、攻児。全部、リスケしてくれ。俺…家、戻るわ」
「はあ!?そんな事言うたかて…リスケ一件にいくらかかるか…!」
そこで、信号待ちの攻児の肩を翼宿が引く。
「娘が…高熱、出しとるんや。頼む!キャンセル料は、給与天引きでも構わんから」
平静を装っているが、彼のその表情には明らかに娘を案ずる必死さが見える。
攻児は観念したように、「しゃあないなあ!」と車をUターンさせた。
バタン!
「ひな!!」
玄関には、ひなが制服のまま倒れ込んでいた。
急いで抱き起こして、額に手を当てる。
「チッ…何分、こうしてたんや…!!ドアホが!」
熱く火照ったその体を抱え上げて、彼女の部屋へと急いだ。
ひなは、夢の中でフワフワしていた。
あたし…倒れたんだっけ。
だけど…何だか、とても安心する。
さっきまで…スゴく苦しかったのに…
まるで、ずっと欲しかった何かを手に入れられたみたいに…
あたし…今、幸せだあ…
そこで、フッと瞼を持ち上げる。
「…ひな!?」
横から聞こえてくるのは、母の声ではない男の声だった。
その声を判別するのには、少し時間がかかった。
ぼやけた視界に見えてきたのは、オレンジ色の髪の毛。
「お父さん…?」
その声に、相手はフウとため息をついた。
「…少し、楽になったか?」
「あたし…あれ?お父さん…?何で…」
「母ちゃんのアホが、お前に、今日、仕事で埼玉行く事伝えるの忘れてて…俺に、血相変えて電話してきよったんや」
額に当てられてだいぶ熱を持った布を洗面器で一度洗いながら、翼宿は答えた。
そうか…あたし、お母さんが帰ってくるまでって思って…少しだけ、玄関で寝ちゃったんだった。
「あのまんま、玄関に放置だったら…危なかったかもしれん」
その言葉に、ひなは動揺した。
そして、同時に、今、ここにいる翼宿に迷惑をかけてしまった事を実感する。
「お父さん…ごめんなさい!もしかして、お仕事キャンセルして…!」
そこで、彼の掌がひなの頭を撫でた。
「よかった…」
目の前には、今まで見た事がない安心したように微笑む父親がいて。
その仕草に、その笑顔に、娘なのに不覚にも胸が高鳴る。
「お父さん…」
「怖かったやろ?今日は、俺がずっと傍におるから」
「おとう…」
涙で、視界がぼやける。
こうやって、甘えるのなんて初めてかもしれない。
その後、時間が許す限り、ひなは翼宿と色々な話をした。
芸能界の話や学校の話や…昔に約束したひなの歌手デビューの話や。
その話に辿り着いた時、翼宿は頬杖をつきながら変わらない微笑みで語りかけた。
「歌手の卵に、なるんやろ?待ってるんやからな…俺」
自分が小さかった頃にジタバタしながら語った夢だったのに、父親はまだその夢を信じて待っていた。
「ピアノも、ずっと頑張ってるし…な。母ちゃん超えるピアニストに、なれよ」
自分の努力を認めてくれるその言葉にその笑顔に、ひなは強く励まされてそして勇気を貰えた。
そして、思った。
この先、またお父さんと話せる機会が減ったとしても
お父さんを信じて、お父さんを目指して、頑張っていこうと―――
パタン
「…ただいま」
「おかえりなさい!遅かったのね…飲まされた?」
「年に数回しか会わない共演者と、忘年会でな…」
時刻は、午前1時。
窮屈なスーツを脱ぎながら、翼宿はだるそうに首を回す。
「悪いな。毎晩毎晩…お前も、明日、仕事なんやろ?」
「いいのよ。昔からの約束でしょ?あんたの帰りを見届けるまで、あたしは眠れないって。コーヒー、飲むでしょ?」
今も変わらぬ愛情を注いでくれる妻の柳宿の存在は、翼宿にとって何よりの支えだった。
だけど、もう随分…2階で眠る娘とはマトモな会話をしていない。
それこそ、3年前に彼女が倒れた時以来。
「ひなは…変わりないか?」
「変わりないわよ。あんたも、たまにはあの子とデートでもしてあげたら?」
「夕城社長に言えや…俺の勤め先は、相変わらずの労基法違反の会社やぞ」
深くため息をつきながら、翼宿は出されたコーヒーを含む。
「あっという間に…あの子もお嫁に行っちゃうかもよ?」
「ぐっ!」
「…何よ?やっぱり、気になるんじゃない」
「アホ抜かせ。そこまで、親バカじゃないわ。ただ…変な男には引っ掛からないように、お前がきちんと見ててやるんやぞ」
「分かってるわよ」
ひなは、今や、すっかり柳宿の監視下。
自分は満足に接してあげられない父親だから、気にかけてあげたところで彼女もきっと嫌がるだろう。
それこそ、父親を煙たがる年頃になっているのだから―――
ひなの父親への愛情を
翼宿の愛娘への愛情を
お互い気付く事はなく、こうして毎日は過ぎていく…
「ひなー!近所迷惑になるから、そろそろ寝なさいよ?」
「はーい!」
階下からの母親の声が、ひながピアノで遊ぶのをやめる合図。
ひなはため息をつきながら鍵盤の蓋を閉めて、時計を見上げる。
時刻は、午後11時。
今日も、父親が玄関の扉を開ける音は聞こえない。
本当はピアノで時間を潰しながら父の帰りを待ち、「お帰り」と一言言ってあげたいのだ。
だけど、いつも時計が天辺を過ぎるまで彼は帰ってこない。
今日も、いつも通りの事なのに…ひなの心はざわついている。
「…お父さん」
一言呟き、ひなは冷たいピアノに頬を当てる。
思い出されるのは、3年前の事―――
カチャ…
重苦しく開かれた扉に、留守番役のタマは首を傾げる。
だが、入ってきた人物の異変に次には尻尾をピンと張り詰めた。
ニャン!ニャン!
そこには、いきなり玄関に倒れ込んだひなの姿があった。
「何とか…帰ってきたは…いいものの」
ひなは、この日、40度を超える高熱を出して学校を早退していた。
今まで大きな病気もせずに過ごしてきただけに、初めての感覚にひなは動揺と恐怖を感じていた。
体が重い―――頭も重い―――
きっと、今頃、学校から母親に連絡が行っているだろうが…それまで、寝床に辿り着けるだろうか?
ひなは、少しだけ…と、玄関に倒れ込んだままで目を閉じた。
Plllll…
移動中の車の中で、翼宿は妻からの着信を受けた。
「もしもし?」
『もしもし?翼宿!ひなが…ひなが、高熱出して早退したって…今、学校から連絡があって…』
「はあ!?お前は、どこにおんねん?」
『それが…生徒のピアノの発表会で埼玉に来てて…バタバタしててひなにその事伝えるの忘れてたから、あの子、あたしが帰るの待ってるかも…』
我が娘が初めて体調を崩した事で、電話の向こうの妻はかなり慌てている。
しかし、夫であるその男は昔と同じように冷静だ。そして、こんな時だけはすぐに機転が利く。
「…分かった。俺が、帰る。お前は、ちゃんと仕事しろ。ええな?」
『翼宿…』
「また、連絡する」
ピッ
「翼宿?どういう事や?この後、雑誌の取材が2件入ってんねんで?」
運転席に座っているマネージャーであり同じ関西人である攻児が、今の電話の趣旨を尋ねてくる。
「…すまん、攻児。全部、リスケしてくれ。俺…家、戻るわ」
「はあ!?そんな事言うたかて…リスケ一件にいくらかかるか…!」
そこで、信号待ちの攻児の肩を翼宿が引く。
「娘が…高熱、出しとるんや。頼む!キャンセル料は、給与天引きでも構わんから」
平静を装っているが、彼のその表情には明らかに娘を案ずる必死さが見える。
攻児は観念したように、「しゃあないなあ!」と車をUターンさせた。
バタン!
「ひな!!」
玄関には、ひなが制服のまま倒れ込んでいた。
急いで抱き起こして、額に手を当てる。
「チッ…何分、こうしてたんや…!!ドアホが!」
熱く火照ったその体を抱え上げて、彼女の部屋へと急いだ。
ひなは、夢の中でフワフワしていた。
あたし…倒れたんだっけ。
だけど…何だか、とても安心する。
さっきまで…スゴく苦しかったのに…
まるで、ずっと欲しかった何かを手に入れられたみたいに…
あたし…今、幸せだあ…
そこで、フッと瞼を持ち上げる。
「…ひな!?」
横から聞こえてくるのは、母の声ではない男の声だった。
その声を判別するのには、少し時間がかかった。
ぼやけた視界に見えてきたのは、オレンジ色の髪の毛。
「お父さん…?」
その声に、相手はフウとため息をついた。
「…少し、楽になったか?」
「あたし…あれ?お父さん…?何で…」
「母ちゃんのアホが、お前に、今日、仕事で埼玉行く事伝えるの忘れてて…俺に、血相変えて電話してきよったんや」
額に当てられてだいぶ熱を持った布を洗面器で一度洗いながら、翼宿は答えた。
そうか…あたし、お母さんが帰ってくるまでって思って…少しだけ、玄関で寝ちゃったんだった。
「あのまんま、玄関に放置だったら…危なかったかもしれん」
その言葉に、ひなは動揺した。
そして、同時に、今、ここにいる翼宿に迷惑をかけてしまった事を実感する。
「お父さん…ごめんなさい!もしかして、お仕事キャンセルして…!」
そこで、彼の掌がひなの頭を撫でた。
「よかった…」
目の前には、今まで見た事がない安心したように微笑む父親がいて。
その仕草に、その笑顔に、娘なのに不覚にも胸が高鳴る。
「お父さん…」
「怖かったやろ?今日は、俺がずっと傍におるから」
「おとう…」
涙で、視界がぼやける。
こうやって、甘えるのなんて初めてかもしれない。
その後、時間が許す限り、ひなは翼宿と色々な話をした。
芸能界の話や学校の話や…昔に約束したひなの歌手デビューの話や。
その話に辿り着いた時、翼宿は頬杖をつきながら変わらない微笑みで語りかけた。
「歌手の卵に、なるんやろ?待ってるんやからな…俺」
自分が小さかった頃にジタバタしながら語った夢だったのに、父親はまだその夢を信じて待っていた。
「ピアノも、ずっと頑張ってるし…な。母ちゃん超えるピアニストに、なれよ」
自分の努力を認めてくれるその言葉にその笑顔に、ひなは強く励まされてそして勇気を貰えた。
そして、思った。
この先、またお父さんと話せる機会が減ったとしても
お父さんを信じて、お父さんを目指して、頑張っていこうと―――
パタン
「…ただいま」
「おかえりなさい!遅かったのね…飲まされた?」
「年に数回しか会わない共演者と、忘年会でな…」
時刻は、午前1時。
窮屈なスーツを脱ぎながら、翼宿はだるそうに首を回す。
「悪いな。毎晩毎晩…お前も、明日、仕事なんやろ?」
「いいのよ。昔からの約束でしょ?あんたの帰りを見届けるまで、あたしは眠れないって。コーヒー、飲むでしょ?」
今も変わらぬ愛情を注いでくれる妻の柳宿の存在は、翼宿にとって何よりの支えだった。
だけど、もう随分…2階で眠る娘とはマトモな会話をしていない。
それこそ、3年前に彼女が倒れた時以来。
「ひなは…変わりないか?」
「変わりないわよ。あんたも、たまにはあの子とデートでもしてあげたら?」
「夕城社長に言えや…俺の勤め先は、相変わらずの労基法違反の会社やぞ」
深くため息をつきながら、翼宿は出されたコーヒーを含む。
「あっという間に…あの子もお嫁に行っちゃうかもよ?」
「ぐっ!」
「…何よ?やっぱり、気になるんじゃない」
「アホ抜かせ。そこまで、親バカじゃないわ。ただ…変な男には引っ掛からないように、お前がきちんと見ててやるんやぞ」
「分かってるわよ」
ひなは、今や、すっかり柳宿の監視下。
自分は満足に接してあげられない父親だから、気にかけてあげたところで彼女もきっと嫌がるだろう。
それこそ、父親を煙たがる年頃になっているのだから―――
ひなの父親への愛情を
翼宿の愛娘への愛情を
お互い気付く事はなく、こうして毎日は過ぎていく…