空翔けるうた~04~

ジュー
熱々の油の中に、パン粉がついた肉が入れられる。
ニャン♡
程なくして流れてきた香ばしい匂いに、タマは駆けてくる。
「あ!タマ!ダメだよ~油はねたら、火傷しちゃうよ?タマの分もあるから、向こうで待ってて?」
キッチンに立っていたのは、その家の一人娘・ひなだった。
彼女は、今、父親への差し入れを作っている。
「カツサンドの作り方、教えて貰っててよかった~お母さんには敵わないけど、お父さんに少しはいいところ見せられるかな」

翼宿が目を覚まして、3日。
ひなは学校からの気遣いで、家の事が落ち着くまでの休暇を貰っていた。
本当は両親が芸能人だからとかまたそんな理由で扱われるのは嫌だったが、それでもあれからのひなも学校にすぐ戻るのは忍びない。
少し甘えさせて貰う代わりに、ひなは両親のサポートを精一杯頑張ろうと決めたのだ。

時計を見上げると、午後10時。
母親は、まだ帰ってこない。
そう。まるで、かつての父親のように―――
彼女がベースボーカルの代役を務める事になったのを聞かされたのは、翼宿が目を覚ました日の夜。
既に練習にかかりっきりだった母親から、突然電話で告げられたのだ。
この通りの状況なので暫く帰りは遅くなるし病院にも寄れないから、よろしくとの事。

(今日も、夜食置いておこう。夜も遅いから、タマゴサンドがいいよね)

カツサンドを作り終えると、次にひなはタマゴを数個冷蔵庫から取り出した。
その時、突然、携帯が鳴った。


「…美味い」
「ホント!?」
次の日、早速、ひなは翼宿の元にカツサンドを届けにお見舞いにやってきた。
「参ったな…ホンマに、嫁に行く日も近いかも」
「何か、言った?」
「いや」
カツサンドの味は、料理が十八番の妻と瓜二つ。
翼宿の心の声が、思わず漏れた瞬間だった。
「ね、ねえ。お父さん…」
「何や?」
「あ、あのね…実は、昨日、ピアノ塾の先生から電話があって…」
「?」

「あたし…芸能プロダクションのオーディションに、声、かけられたんだ」

その言葉に、翼宿の顔が輝いた。
「ホンマか?」
「うん…こないだの発表会で、あたしの演奏を聞いた関係者の人から…来月頭のオーディションに来てほしいって塾に連絡があったんだって」
「よかったやないか、ひな!」
頭をポンと叩かれ、ひなも笑う。

そう。昔からのひなの夢だった。
翼宿と、同じフィールドに立つ事。
もちろん、夕城社長が気を遣ってyukimusicへのコネを提案してくれた時もあった。
しかしコネなど使わずに自分の実力で門を叩きたかったひなは、その日の為にも一生懸命練習を重ねていたのだ。
そして、遂にその日が来た。

「せやけど、無理はするんやないぞ?毎日見舞いとか差し入れとか…お前も、大変やろ」
「大丈夫だよ!お父さんとこんなに話せる機会、そうそうないから!」
「…そか」
翼宿にとっても、それは同じ事。
無理はしてほしくないが、娘が毎日ここに来て共に過ごすこの時間は心地がいい。
「そういえば…あれから、母ちゃんから何か聞いてるか?」
「え?」
「ライブの事とか…みんな、俺に気遣って連絡よこさんのや」
柳宿の代役の話などもうすっかり翼宿の耳に入ってると思っていたひなは、唖然とした。
「な、何も聞いてないの…?」
「??」
「あの…お母さん…」
数刻後、病室内に彼の叫びが響いた。


「よし…次は、12曲目…」
「柳宿。ホントに、大丈夫なのか?男の俺だって、難しい大役を…」
スコアと睨めっこしていた柳宿は、後ろから声をかけてくる鬼宿を振り返る。
「いいのよ…幸い、これでもあいつの指の動きはよく見てた方だしね。あんたも、やりづらい事あればいつでも言って?」
「あ、ああ…無理するなよ?お疲れ」
「お疲れさま」

Plllllllllll
数刻後、柳宿の携帯が鳴る。
ウインドウをチラと見て、すぐさま受話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし…柳宿?』
「あ…」
それは、最愛の夫の声だった。
目を覚ましてから一度も見舞いに行けなかったゆえ、久々に聞く彼の声に涙が溢れる。
「翼宿…………もう。ビックリさせないでよね…」
『すまんかった…そっちに、偉い迷惑かけてるみたいやな』
「そんな事…」
その後、少し流れる暫しの沈黙。
『………で、お前、正気か?』
「何よ…その聞き方」
『歌詞だけやなくてベースラインまで覚えるなんて、負担が大きすぎるで』
「…ひなに、聞いたの?」
電話の向こうで、小さくため息が聞こえた。
『なら、お前、ろくに家にも帰ってないんやな?』
「うん…」
『ひな、頑張ってるで。自分も色々辛い事あった後やのに、毎日差し入れ届けてくれるしな』
「うん…あたしにも、欠かさず夜食用意してくれてる」
そして、また流れる暫しの沈黙。
『…お前の気持ちは嬉しいけど、ベースだけでも代役に任せた方が』

「嫌だ」

昔のように、駄々をこねる柳宿。
その声に、電話の向こうの翼宿はふっと笑う。
「何が、おかしいのよ?」
『すまんすまん…』
「………やれるだけ、やってみたいの。あんたの存在は、ベースとボーカルで一つだったんだから。そこまでコピーしないと、あんたの完璧な代役は成立しない」
『そ………か』
「………ごめん。偉そうな事」
『いや』
一拍置いて、翼宿は続ける。

『俺は…早くお前にも会いたいけど…しゃあないな』

「…………っ!」
昔のように、高鳴る鼓動。
『ありがとな…柳宿。俺、何とか最終日だけでも駆け付けられるように頑張るから、それまでは頼んだ。ひなの事は、出来る限り俺が見ておく』
「うん…分かった」

『ホンマに…ありがとな。愛しとるで…』

「ううん…」
滅多に言わない貴重な愛の言葉から、翼宿の愛情が伝わってくる。
だけど、そんな言葉はいらない。あなたが生きてくれてるだけで、他には何もいらない。


「明日の差し入れ…何にしようかな」
病院の帰り、ひなは近所のスーパーに立ち寄っていた。
気分は、まるで恋人のお見舞いに行くような感覚で。
またしても自分の中のおかしな感情に気付きながら、ひなは苦笑する。
翼宿と同様、ひなにとっても、今、彼と色々な事を話せるこんな幸せな日々がとても嬉しい。
お互い、日々の喧騒から離れているからこそ許されている事なのだが。
「ねえ?翼宿が、事故に遭ったって…」
すると、お菓子売り場から若い女子の声が聞こえる。
ひなには、その声に聞き覚えがあった。
あの時も、確か、階段の踊り場からしていた…
売り場の陰からそっと覗くと、同じ高校の女子生徒。その中心には、あいもいた。
「ひよっこも、ずっと学校来てないよね?」
「案外、ひよっこが、飛び出してったんじゃないの?あの子、あの日、学校からいなくなったじゃない?」
しかしその話題は、父親への心配より娘への罵倒に切り替えられた。
だが、あいの表情はどこか動揺しているように見えた。
(あい…)
「ねえ?あい。連絡してみたら?あんた、まだあの子に親友だと思われてるんでしょ?」
「え…」
その言葉に、ひなは息を呑む。
しかし、動揺しながらもあいは笑っていた。
「そう…だね」
バサバサッ
「ん?何の音?」
側の売り場からお菓子が落ち、皆は一斉にそちらを見る。
ひなはお菓子の山を崩したまま、その場を去っていった。


トン…トン…トン
ひなは、明日の差し入れの付け合わせのトマトを切っていた。
しかし、その包丁の音は重苦しいものだった。

そう。今の幸せは、日々の喧騒から離れているからこそあるもの。
あの喧騒へ…いつかは、戻らなければならない。
そして彼女達が言うように、翼宿が、今、仕事が出来ていない理由は、柳宿に、今、無理をさせている理由は、自分にある。
こんな状況を、一瞬でも幸せと表現した自分が憎い。

ニャー?
昨日とは打って変わって、気落ちしながら料理をするご主人様をタマは心配そうに見上げる。
「だけどさ…タマ。あたし、頑張らなきゃね。こんなあたしにも、チャンスが巡ってきたんだから」
そう。一縷の望みは、オーディション。
ひなには、もう音楽しか残っていない。
音楽だけは、自分を見捨てないでくれているから。だから。
すると。
♪♪♪
突然、机の上の携帯が光る。
奏でているのは、メッセージの着信音。
ひなは、その音に体をびくつかせて。
そして。
「あっ…」
右手に持っていた包丁が滑り、左指に触れた。
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