空翔けるうた~04~

ひなは、フッと瞳を開ける。
時計を見上げると、午前1時。
父親と口論したのは、6時過ぎ。
泣き疲れて眠ってしまったようで、あれから6時間以上経っていた。
何も食べておらず、口の中はカラカラだった。
父も母も、もう寝ているだろう…と、ひなは階下に降りる事にした。


カタン…
リビングに向かうと、まだ明かりはついていた。
ひなは、サッと壁に身を隠す。
父と母は、まだ起きている。
そして、父はなぜか深く俯いていた。
「…翼宿。少し、食べないと」
翼宿は、出された夕飯にも手をつけずにずっと肩を落としていたようだ。
そんな彼を、柳宿とタマは心配そうに見守っている。
「…あいつを追い詰めたのは、俺や…」
ポツリと呟かれた言葉は、ひなの耳にもハッキリと届いた。
「な、何、言ってるの?あんたが、あの子に何を…」
「昨日、あいつ、俺の部屋に来たんや。何か、話したそうな顔して…」
ひなは、ハッとなる。
「そん時、ちょうど作曲に行き詰まっててな。俺、追い返してもうてん…ホンマは、俺に聞いてほしい事があったんやと思う」
「翼宿…」
髪をくしゃりとかきあげて、翼宿は続ける。
「…父親失格やな。思春期の娘を持ってる言うのに…あいつが力になってほしい時に、マトモに聞く余裕がないなんて…」
「………あんた、頑張ってるわよ。ひなは、頑張ってるそんなあんたが好きで…」
「せやけど…俺、最低や」

あんなに小さく情けなく見える父親の横顔を、ひなは初めて見た。
引っ込んでいた涙が、再び頬を伝う。

彼に、あんな顔をさせたのはあたしだ。

翼宿の笑顔が大好きだったのに…あんなに悲しい顔をさせてしまった。
ひなはそっとその場を離れて、玄関のドアを開けた。


コンコン
「ひな?お腹、空いたでしょ?軽いもの、持ってきたから」
その数刻後、柳宿は軽食を持ってひなの部屋を訪れていた。
「…さっきはショックだったけど、お父さんも頭冷やしたし。何があったか、お母さんに話してくれない?」
しかし、部屋の中からは物音ひとつ聞こえない。
「ひな…入るわよ」
首を傾げて、ノブを回す。


「翼宿!翼宿!」
「何や、どうした!?」
「ひなが…ひなが、いない!」
柳宿のその絶叫に、翼宿は立ち上がる。
「どうしよう…こんな真夜中に…一体、どこに…!!」
その瞬間、思い出されるのは未だ犯人が捕まっていないあのニュース。
「お前は、家にいろ!探してくる!!」
「翼宿!!」
翼宿は脇目もふらずにコートをひっつかむと、リビングを出た。



ザーーーーー
この雨は、いつになったらやむのであろう。
引き続き、傘もささずにひなはその雨の中を宛てどもなく歩いていた。
少し落ち着いたら、また引き返せばいいだけ。
その時は、両親に謝ろう。大人げない事して、ごめんなさいって。
その決心がつくまでは…このまま、暗闇を漂っていたい。
そんなひなの頭には、繰り返されていた父親のあの警告などある筈もなかった。

ドルンドルン…
標的を見つけた銀色のバイクは、そっとエンジンを吹かし始める。
ヘルメットの奥の口許が、ニヤリと歪んだ。

信号機の手前。ひなは、立ち止まる。
車道側の信号機が赤になり、そして歩道側の信号機が青になる。
何ともない、普通の流れ。
ひなは、歩き出した。その時―――

「ひな!!!!!」

自分の名前を、大声で呼ばれた。
振り返ると、そこには父親の姿。
「お父さん…」
しかし、翼宿は捉えていた。
我が娘に、物凄い勢いで近付いてくるバイクの姿を…
「逃げろ、ひなあああ…っ!!」
「え…」

ドン!!

鈍い音が、響いた。
しかし、自分の体に痛みはない。
そっと、目を開くと。足元には。

ザーーーーー

見た事がないような、夥しい血だまりが水溜まりと共に混じっていた。
これは、自分の血ではない。それは。
「―――――ぐっ」
自分を突き飛ばして…そして、バイクにはねられた父親のものだった。
ひなの頭は、そこで真っ白になる。

翼宿が、バイクにはねられた。

「………………嘘だ」
「ゲホッ…ひな…無事…か?」
「お父さん…お父さん!!」
血を吐きながらも、遠くに娘の無事を確認して翼宿は安堵の笑みを浮かべる。

「事故だ、事故!」
「き、救急車、呼べ!!」
周りを歩いていた僅かな人々が、口々に叫ぶ声が聞こえる。
「…………待て!!」
しかし、そこに怒号が響いた。
そう。翼宿のすぐ横には、犯人のバイクの運転手も倒れていたからだ。
今まではね飛ばした事のない男性にぶつかった事で、本人もバランスを崩してバイクから転倒したのだ。
翼宿は渾身の力で体を持ち上げると、今、まさに逃げようとしている犯人の胸ぐらを掴んだ。
「ひ…ごめんなさい…ごめんなさい…」
ヘルメットを外してその顔を露にすると、中の顔は意外にも臆病そうな表情をしていた。
しかし、構わずに翼宿は続ける。

「もう、逃がさへん…!!将来がある女や子供の命を奪った罪を…償え!!」

「お父さん…」
「大丈夫ですか!?」
「貴様!例の常習犯だな!?逮捕する!」
近くの交番の警官が駆け付けた事で、翼宿が捕らえていた男はすぐさま御用となった。
それを見届けると、彼はその場に倒れた。
「お父さん!お父さん!嫌だよ…しっかりして!」
ひながその体を受け止めた事で、彼の意識は繋がれる。
「ひ…な」
痛みに耐えながらも、翼宿は最愛の娘に微笑みかけた。
「どうしよう…どうしよう!血が止まらないよ…!」
「大丈夫…こんなん、大した事あらんから」
「でも…ごめんなさい!あたしが、約束破って外に出たりしたから…」
「ひな」
翼宿は、血まみれの右手をひなの頬に当てる。

「父親と…………して…お前を…………護れて…よかった。堪忍………………な…」

そこで、今度こそ、翼宿の意識は途絶えた。
雨が、彼の腹部の出血をどんどん洗い流していく。
遠くで、救急車の音が聞こえる。


「…………っっ…………嫌ーーーーーーーー!!!!!」


後に響いたのは、少女の慟哭だった。
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