漆黒の王女〈後編〉

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「ん…あ…? …寝ちゃった…」

 僕はひとあくびして目を擦った。

 外の雨はシトシト降りになっていて、虫の声が遠慮がちに響き渡っていた。

 シーナは…整った呼吸で眠っていた。よかった…そっと首に手を宛てると、まだ少し熱いけど大分下がったみたいだ。

 飲ませる為にそばに置いてあった瓶の中の水が空っぽだった。

 汲みにいこうと立ち上がった所で、うう、とシーナが呻いた。

 まだ、苦しそう?

 ベッドの縁に手を置いてやや覗き込むと、シーナはだるそうに後頭部を枕に擦り付けながら首を振る。

 そして…多分寝言、こう言ったのだ…





「うぅ…
 マ…ママ…ママ…
 おねがい…
 キスして…
 そしたら…眠る、から…」





 一瞬息をするのを忘れた。

 シーナのねだるような声を聞いて、身体が痺れさえもした。

 その間にもシーナは「ママ、ママ」と唸され続ける。

 今記憶のないシーナだけれど、夢の中でお母さんに逢えているのかな。やっと逢えて、それでキスをお願いしているんだろうか。

 かつて僕も、かあさんやねえさんにおやすみのキスをしてもらって、安心して眠りについた事があった。

 シーナもそうなら。

 僕は、布団から出ているシーナの片手を下から持ち上げて、甲にキスをした。これはねえさんが僕にやっていたやり方だった。

 そして芋づる式に思い出した。

 気圧に弱くてしょっちゅう痛めていた僕のこめかみに、かあさんがキスをしてくれた事を。





 一瞬、意識が飛んだように思う。



 気付いたら、



 前髪の生え際をそっと掻き上げて、



 シーナの額に唇を宛てていた。





(──何をしてんだ、僕は!?)

 身体がカッと熱くなって、飛ぶようにシーナから離れた。

 そしてそろそろと後ずさりをして、シーナがまた安らかに寝息を立てるのを遠目で確認すると、ものすごい勢いで自分の部屋に駆け込んだ。

 ベッドにダイブして、さっきの自分の行動を思い巡らせて、

「は、あ、あ」

 全身の熱を追い出すように、深く呼吸をした。

 とんでもない事をしでかしてしまったと思えば思うほど、生々しく刻み込まれたのを痛感した。



 ──唇に伝わったシーナの肌の感触と、



 ──鼻をくすぐったシーナの匂いと、



 ──僕の指の間をシーナの美しい黒髪がさらさらと流れた様を。





 シーナ、僕のした事…気付かないよね?





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