風結子の時計

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 ──あの日から何もかも変わってしまった。

 風結子は一日を生きるのに精一杯で、食べ物を手にいれる為に何でもやった。

 自分にはもう何も無いのに、どうして汚ならしい事をやってまで生きようとするのだろう、それは、榮太郎の腕時計がカシャ、カシャ、動いているからだ。

 正しい時間なんてとうに合わせてないが、風結子は毎日のネジ巻きを怠っていなかった。

 十分に食べられていないから指に力が入らない、それでも巻いていた。

 フラフラと覚束おぼつかない足で、空襲の焼け跡に出来た露天市場を歩いていた時、時計の針が遅くなっている感触を拾って、風結子は内ポケットから腕時計を出してネジを摘まんだ。

 その拍子に誰かが風結子の背中にぶつかってきて、「おっとごめんよ」そいつは一言謝っただけですぐに行ってしまったが、風結子の手から腕時計が飛んでいってしまって、地面を滑っていった。

 拾いにいこうとする間もなく、どこから沸いてきたのか浮浪児達が何人も腕時計にすっ飛んできて、「こいつを売れば金になる」取っ掴み合い殴り合いになった。

 風結子がその様子を呆然と見つめていると、突然この騒ぎがぴたりとやんで、蜘蛛の子が散っていくように浮浪児達はいなくなった。

 「あれは売れない」去り際に言っていたのを聞いて、風結子は震えながら腕時計の元へ近寄った。

 空腹と怒りで目が霞む、あと一歩の所で風結子はうずくまった。

(榮兄ちゃん)

 今まで、何があっても誰の目にも触れさせなかった、榮太郎の形見。踏まれてガラスが割れ、針も飛び散って無惨な姿になったそれに、手を伸ばす事が出来なかった。

 いよいよ、風結子の生きようとする気力がプツッと切れてしまった、風結子自身もそう思ったのに、



「──あんたのだろ、これ」



 風結子の前に影が差して降ってきた声に驚いて、風結子は顔を上げた。

 もうお互いに、ひどい身なりをしているし、顔も煤だらけ、髪の毛も整ってやしない、それなのに、疎開先で別れたあの人だと…ひと目で分かった。

 どうしてこんな所にいるの、疑問を口にする前に、風結子はひと筋の涙を流して、彼が拾い上げた物に手を伸ばした。





 ひしゃげただけでまだ残っていた、榮太郎の腕時計の秒針は、風結子と彼の再会を見届けてから、動きを全て止めたのである。










風結子の時計〈完〉





[執筆期間]
2021年5月29日~6月27日






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【風結子の時計】あとがき





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