〈改稿版〉traverse
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キスというものがこんなにも、余韻を残すものだなんて知らなかった。
そりゃまぁ、初めて…だし、あんなシチュエーションだし。
この先の人生で、ラーメンの匂いをかいだり、カウンターの向こう側を見る度、今日の事を思い出すんだろうな。
袖を引っ張られた感触。
私の頭を包む大きな手。
近づく優しい瞳。
押し当てられた…柔らかい唇。
ぎゃーー。もーー。私、ヘンタイ?
その日のきたいわ屋の勤務は、ちょっと仕事にならなかったかもしれない。
大将が常連さん達に私と元ちゃんの事を話しちゃったから、終始冷やかされた。
「ばか勇実、いつまでリンゴみたいに赤くなってんだよ」
そう言う元ちゃんだって、真っ赤じゃん。
そんなわけで帰り道も、フワフワした気持ちのままペダルを漕いでいた。
「あ、イッサ。お仕事お疲れさん」
街灯に寄り掛かりながらギターを弾いていた樹深くんが、私に気付いて声を掛けた。
「うん。こんばんは、樹深くん」
今日はちゃんと自転車から降りて、樹深くんの傍に行った。
「どうしたの? ボンヤリして。自転車がフラフラしてて、見てて危なっかしかったよ」
「あ、うん。あのね、今日ね、元ちゃんとキスしてね」
「へっ?」
「開店準備してる時にね、ほら、樹深くんがちゃんと言ってあげてって言ったでしょ。私、言ったのよ。そしたら、元ちゃんがね」
「ちょっと、イッサ? 待って」
「カウンターの陰に引っ張ってね、急にね」
「待った! 待った! イッサ! いいから! 言わなくていいから!」
「んぐっ」
樹深くんに手で口を塞がれて、暴走してた事にやっと気付いた。
「あのね、そういうのはヒミツにしときなさいよ…聞く身にもなってよ。あー、ムズムズするー」
「はい…そーですね…
あっ、樹深くん、赤くなってる」
「こら! からかうんじゃない! 誰のせいよ」
「ふふふ、ごめんなさーい」
なんでかな、樹深くんには何でも話せてしまう。
色々話を聞いて貰っているから、報告義務を強く感じちゃってるのかも。
「もーいい。イッサ、もう帰って」
「えー? なんでよー」
追い出されるように自転車に乗せられて、私は渋々ペダルを漕いだ。
そしたら、樹深くんが歌い始めた。
ファーストキスの事を歌った有名な曲。
高めのキーで、まるで私の代わりに歌ってくれているようだった。
樹深くんの歌声とギターの音がどんどん遠ざかって、聞こえなくなった頃に、はあー、と溜め息をついた。
幸せの、溜め息を。
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