〈改稿版〉traverse

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 元ちゃんの唇が離れて、でも、まだ至近距離。

 元ちゃんの瞳の奥が色っぽく見えて、心臓がバクバク暴れる。

「…ヤバイ…カワイイ…勇実…」

 元ちゃんの大きな手が、私のこめかみから後ろへ差し込まれた。

 その手にぐっと力が入ったと同時に、また元ちゃんの顔がゆっくり近づいてくる。

 そのスピードに合わせて、自然と私のまぶたがゆっくり降りて、完全に閉じられた時に再び唇が重なった。

 何度も、上と下と順番に、優しく唇を吸われる。

 元ちゃんに、食べられてるみたい…

 頭の芯がぼぉーっとしだした時に、ガラッと入口の引戸の開く音がして、私達はバッと体を離した。

「帰ったぞー。そろそろのれん出すぞ。あれ? どこ行った? 元ー?」

 大将の声がだんだん近くなる。

 元ちゃんは私に、奥へ行けと目配せをして、

「あー、おかえり。
 なあオヤジ、前に使ってたちっちゃい鍋、どこやったっけ? 見つかんないんだよなー」

 何事もなかったように、ひょっこりと頭を上へ突き上げた。

「そりゃオメー、焦がしたからって大分前に捨てたろ。忘れたのかよ。
 勇実ちゃんは? どこ行った?」

「あー、そうだったっけか。
 あ、勇実は奥のトイレだよ」

 うまく大将の気を反らしてくれて、その隙にしゃがみながらそーっと、奥のお手洗いへ潜り込んだ。

 ふと鏡を見ると、ありえないくらい顔が真っ赤だった。

 両手でパタパタと扇いで、早く元の肌色に戻れと強く念じた。

 視線は無意識に、鏡の自分の唇へ。

 …元ちゃんの唇、柔らかかったな…

 そんな事を考えてたら、また顔が真っ赤に戻って元の木阿弥。



 どうしよう樹深くん。私達の恋愛は、ゆっくりじゃないかもしれない。





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