〈改稿版〉traverse
32/171ページ
「聴いて下さって、ありがとうございました」
歌い終えて、樹深くんが片手で黒いチューリップハットを持ち上げて、ペコリとお辞儀をした。
え? 私に? と思ったけど、樹深くんの視線が私を通り過ぎていたので、くるっと振り返る。
私の後ろで、優しい雰囲気の男女のカップルが、微笑みながら拍手をしていた。
やだっ、私が歌うのも聴かれてた!? いやでも、きっと樹深くんの歌声に掻き消されたはず…だよね?
「素敵なハーモニーでした。もっと聴かせて下さいな」
あああ。しっかり聴かれてた。しかも、ハモってるつもりなかったのに…音痴確定。
樹深くんが例の、肩震えの笑い方をするので、バシッと二の腕をはたいて、ソロソロと端へ捌けた。
「あ、私、全然関係ないので…リクエストはこの人に」
肩を竦めながら、両手で樹深くんを差す。
「フフッ…すみません、僕ひとりでやってるんです。
何か、リクエストはありますか?」
ギターをつま弾きながら、樹深くんはおふたりに聞いた。
クスクス笑いながら、彼氏さんが彼女さんに振る。
「なんかある?」
「そうだねぇ…うーん…」
彼氏さんの、彼女さんを見つめる眼差しが優しくて、こっちまで心が温まる。
「あの、違ったらごめんなさい。
おふたり、もしかして遠距離ですか?」
樹深くんがそう聞いた。え? そうなの? なんで分かるの?
「あはは…こんな夜遅くにこんな大きいカバン持ってうろついたら、誰だって分かるよね」
彼氏さんは苦笑いをして、彼女さんの手を取ってギュッと握った。
「久しぶりに…半年ぶりにゆっくり逢うんです。彼、仕事終わってすぐに飛んでくれて…ね?」
彼女さんがはにかみながら、同じ様に優しい眼差しで彼氏さんを見つめた。
はあ~。素敵だなぁ。幸せのお裾分けをしてもらった気分。
「あ、そうだおにいさん。おにいさんの曲、何か聞かせて下さい。いいですか?」
「お、いいねそれ。ぜひお願いします」
ふたりは頷き合って、樹深くんを見つめた。
「俺の…ですか?」
驚いた様子で、でも、樹深くんもまたふたりを見つめた。
ギターをつま弾きながら…何か考えているようだった。
しばらくして、ジャラーン、と弦をひと撫でして、樹深くんは言った。
「即興でも、いいですか?」
…