〈改稿版〉traverse

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 そしてまた、金曜日がやってきた。きたいわ屋の勤務日。

「うひゃあ、雨に降られちゃったよ」

「えっ」

 お客さんが入ってくるなりそう言うので、私は面食らった。天気予報ではそんな事言ってなかったから、自転車で来たし、傘も持ってきてない。しかも、もうすぐあがりの時間。

「結構降ってます?」

「かなりね~。止むまで飲んじゃおうかな」

 お客さんを席に通した後、そっと入口の引戸から外を覗いた。

 ザーッ…

 ありゃりゃ。自転車置いて帰るしかないかぁ。傘は、借りられるかな?

 そう考えていると、ふっと引戸の向こうが暗くなった。と同時に、引戸が勢いよく開かれて、手を置いていたから、急に支えが無くなって前のめりになった。

「わっ」

「えっ?」

 聞いたことのある声と共に、手に柔らかい感触。思わずもにっと掴んでしまうと、

「ちょ、っと、くすぐったい…アレ、イッサだ?」

 顔を上げると、ずぶ濡れの樹深くんが苦笑いをして私を見ていた。私が掴んだのは、樹深くんのおなかだった。

「え、樹深くん? あ、わ、ゴメンゴメン! 急に開くからビックリした。っていうか、イッサって言うな!」

「なんでイッサがいるの? そのカッコ、もしかして、このお店の人?」

 やっぱり、人の話聞かない! 口を尖らせていると、調理場から元ちゃんが声を飛ばした。

「勇実ぃ、何やってんだ。早くそのにいちゃん席に通してやんな。あと、タオルも2枚奥から取ってこい。それでオマエ、あがりでいい」

「はぁい。じゃあ…ここにどうぞ」

 元ちゃんに言われた通り、渋々と樹深くんを席に案内して、樹深くんと先ほどのお客さんにタオルを手渡した。

「あ~、あの匂いだ。やっぱり、うまそう」

 鼻で息を大きく吸い込んで、ふにゃっと笑って樹深くんが言った。

 あ、また違う笑い方だ。今度はまったり笑顔かな。色々変わって、やっぱりそっちが犬みたい。

「はい、これ、使わせて貰うから」

 樹深くんが、昨日私が渡した割引券を、私の手に乗せた。

「ここのオススメは何ですか?」





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