〈改稿版〉traverse

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「じゃ、お先に失礼しまぁす。お疲れ様でしたぁ」

「おー、気を付けて帰れよー」

 きたいわ屋ののれんをくぐって、脇に停めた自転車に跨がった。



 カッシャン、カッシャン、カッシャン。ゆっくり、ペダルを漕ぐ。

 商店街を分かつ車道で赤信号。車は走ってないのに、今日もまた律儀に信号待ち。

 その先の、例の洒落た街灯とベンチを見やる。

 …あっ。いた。

 ミの人、もといギターの人。

 今日はベンチに座って弾いてる? いや、今は準備中っぽい。

 信号が青に変わり、あの時と同じように、ゆっくりペダルを漕ぐ。

 横断歩道を渡りきる前に、ギターをつま弾きながら、彼がこちらを向いた。

 けど、すぐにギターに視線を戻したから、昨日の喫茶KOUJIでの事は覚えてないに違いなかった。

 今日は歌、聴けないのかなぁ。

 彼の前で停まって聴いていけばいいんだけど、それはなんか、勇気がいると思った。

 ゆっくり、ゆっくり、ペダルを漕ぐ。

 歌は…始まらない。

 ベンチの端にスケッチブックが立て掛けられていて、「試聴無料!」と黒いクレヨンで殴り書きされていた。

 その右下に小さく、「~樹深~」と緑のクレヨンで控えめに書かれていた。

 そうだ。タツミ。タツミだった。

 もう、ミの人って呼ばないで済む。同じ誕生日の、樹深くん。

 次に見かけた時は、ちゃんと立ち止まってみようかな。

 そう思った時に、彼の前を通り過ぎて、私の自転車はゆっくり先を行った。

 すると、私の後ろから、彼の歌が始まった。



 ♪うまそうなラーメンの匂い
 ♪どこのお店かな
 ♪うまそうなラーメンの匂い
 ♪自転車と一緒に
 ♪うまそうなラーメンの匂い
 ♪ついてきちゃったみたい
 ♪あああ~
 ♪いいなずるいな
 ♪おれも食べたい



 キキキキィーー!! と派手なブレーキ音を立てて、私はバッと振り返った。

 なに?

 ナニ?

 今、

 私のコト歌った…!?

 彼、樹深くんはもう大分遠くだったけど、声はよく通って、先ほどのラーメンの歌を繰り返し歌っていた。ところどころ、笑いを含みながら。

 そんなに…匂う!?

 思わず腕を寄せて、クンクン嗅いでしまった。ダメだ、自分じゃ分からん。

 お風呂入ろう。洗濯しよう。今度会ったら…文句言ってやる! 覚えてろよ、樹深!

 心の中でプンスカ怒りながら、私は家へ自転車を走らせた。





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