〈改稿版〉traverse
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夏が過ぎて、日中はまだ汗ばむけれど、陽が落ちると急に肌寒くなる季節になった。
路上の樹深くんは、薄手のジャケットを着込むようになり、片手に缶コーヒーを持ちながら休憩する姿をよく見かける。
私は相変わらず、自転車に跨がったまま一曲聴いて、そのまま帰っていくのを続けていたんだけれど、ある日珍しく、樹深くんの前に誰もいなかったので、
「今日くらい、自転車降りたらどう?」
と樹深くんに言われた。
「え…と、そー…だね」
一応、キョロキョロと辺りを見回して、樹深くんの歌を聴きに来る人がいないかどうか確かめてから、自転車から降りる。
「不審者みたいだよ」
そんな私を、樹深くんはケラケラと笑った。
「失礼な。気を遣ってんですよ、これでも」
「気にしなくていいのに。堂々といりゃいいんですよ。俺にとって…一番最初のリスナーですから」
「ふふ…ウソばっか。私と逢う前にも、聴いてた人いたでしょ?」
「そりゃ少しくらい、足を止めてくれる人はいたけど…ここまでガッツリ話し込んだ事はなかったよ」
「あー、ほらぁ、やっぱり私、ジャマになってるじゃん」
「もう、だからさぁ、そんな風にお願いだから思わないで。
今日くらい…今日みたいに…誰もいなければ問題ないでしょ?」
少し怒った顔の樹深くん。気圧されてこくりと頷くと、樹深くんはほっとした顔になった。
…