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福音は風信に乗って
出会った頃から、あまり多くは語らない人だった。無口というわけではない。どこか謎めいていて、物静かな雰囲気が魅力的な人だと思った。
それまで恋人はおろか、友人さえ多くはなかった私は、特に人間関係に気を回したことがなかった。誰とでも無難に。相手に深入りすることはない。言わば上辺だけの付き合い。家と職場を行き来するだけの私の生活には、それで十分だった。
初めて彼と会ったとき、私の中で何か確信めいたものが生まれた。ああ、私はこの人と一緒に生きていくんだ。この人の隣にいるのが自然なんだ、って。根拠なんてない。ただ、そう思った。
それからは流れるように事が進んでいった。お互い何かに惹きつけられるように一緒にいる時間が増え、いつの間にか同棲を始めた。告白らしきものはなかった気がする。初めからそうなることが決まっていたかのように、全てが自然な成り行きだった。
何の不安も不満もない生活。少なくとも私はそうだった。けれど、一緒に暮らす相手がいるとなると、必然的に脳にちらつく「結婚」の文字。私自身、結婚はしてもしなくてもいいと思っていた。契約など交わさなくたって、一緒に居られればそれでいい。ふたりの間でそれが話題に上ったことなんてなかったし、彼もきっとそんな感覚なんだろうと。
ところがどうだろう。今しがた帰宅した彼が、部屋に荷物を置きに行くこともせず、夕食を作ろうとしていた私のすぐそばまでやって来た。なぜか、その腕に青と白の美しい花を抱えて。
「おかえり。どうしたの、それ」
ふわりと甘い香りが辺りに広がる。ちょうど目の高さにあるその花弁は、小さめながらもくるんと反り返っていてなんとも可愛らしい。
「告げるならばこの日が良いだろうと考えていた。お前さえ良ければだが、受け取って欲しい」
「私に?」
告げるって何を――そう続けようとして、息をのんだ。花を抱えている腕の先、その大きな手のひらに包まれる、上品な四角い小箱を見つけてしまったから。
……いや、まさか、そんな。
一点を見つめて動けないでいる私に、静かな低い声が続く。
「他により良い方法はあったかもしれないが、お前にとってはこのほうが好ましいと思ってな」
彼は花をテーブルに置き、小箱だけを手に持って私に向き直る。信じられない気持ちのまま見上げれば、出会った頃と変わらない、どこか謎めいた瞳が私を射抜いた。
「なんで……そんな話、一度も……」
「日頃から言葉足らずですまないと思っている。お前の飾らぬ温情に、ずいぶんと甘えてしまっていたようだ」
ふ、といつもの優しい笑い方をする。ふとした時に見せてくれるその微笑みが、普段どれだけ私の心を色づかせていたかを思い知った。
「今日まで俺と共に在ってくれたこと、本当に感謝している。どうかこの先の未来も、俺と共に歩んではくれないだろうか」
そっと小箱が開かれて、いつだか頭の片隅で想像していたものが現実となってその姿を現す。
決して派手ではない、控えめな輝き。それでも、私にとっては眩しすぎるほどの光。目の奥からじわりと熱いものが込み上げてきて、その光が無数に広がりながらきらきらと視界を揺らした。
「私で、よければ……」
「……ありがとう」
丁寧に左手を取られて、ゆっくりと私の薬指に光が宿る。
こんなにも心を揺さぶられることがあっただろうか。私の人生は、もっと平坦な道だったはずなのに。
何も無くまっさらだと思っていた一本道が、いつの間にか穏やかな川沿いに繋がっていた。大小さまざまな石ころや、目をやればそこに咲いている小さな野花を眺めるのが日課になっていた。やさしく吹く涼しいそよ風に身を任せ、これからもそんなふうに、この道を歩くものだと思っていた。
ところが、ゆるやかな流れの中に突然現れた大きな舟に、私は乗り込もうとしている。少しずつ色が足されていった風景に、さらなる福音が訪れたのだ。
たまらず彼に身を寄せれば、長い腕が私のすべてを包み込んでくれる。緩流のようで、激流のようでもある彼からの幸福。それに抗うことなどできはしない。抗う気なんて、最初からない。
頭上で彼が微笑む気配がする。私は涙を拭うことも忘れ、さらりと垂れる前髪の隙間から覗く、色の違う神秘的な双眸を見上げた。
「愛している。互いを縛り得る契約に縋ってでも、お前を繋ぎ止めたいと思うほどに」
彼は私の頬に親指を滑らせると、そのまま誓いの儀式のような口づけを落とした。彼らしい、優しすぎるその感触に、また一つ温かな雫が頬を伝った。
***
「じゃあ、ご飯作っちゃうね」
「ああ、頼む」
傍らで私たちを見守っていた美しい青と白が、彼の手によってテーブルの中心に飾られる。
そういえば、あの花は何という名前だっけ。あとで彼に聞いてみようか。それとも、自分で調べてみるか。
たったそれだけのことでも心が躍るのを感じながら、私は二人分の夕食を作るべくキッチンに向き直った。
出会った頃から、あまり多くは語らない人だった。無口というわけではない。どこか謎めいていて、物静かな雰囲気が魅力的な人だと思った。
それまで恋人はおろか、友人さえ多くはなかった私は、特に人間関係に気を回したことがなかった。誰とでも無難に。相手に深入りすることはない。言わば上辺だけの付き合い。家と職場を行き来するだけの私の生活には、それで十分だった。
初めて彼と会ったとき、私の中で何か確信めいたものが生まれた。ああ、私はこの人と一緒に生きていくんだ。この人の隣にいるのが自然なんだ、って。根拠なんてない。ただ、そう思った。
それからは流れるように事が進んでいった。お互い何かに惹きつけられるように一緒にいる時間が増え、いつの間にか同棲を始めた。告白らしきものはなかった気がする。初めからそうなることが決まっていたかのように、全てが自然な成り行きだった。
何の不安も不満もない生活。少なくとも私はそうだった。けれど、一緒に暮らす相手がいるとなると、必然的に脳にちらつく「結婚」の文字。私自身、結婚はしてもしなくてもいいと思っていた。契約など交わさなくたって、一緒に居られればそれでいい。ふたりの間でそれが話題に上ったことなんてなかったし、彼もきっとそんな感覚なんだろうと。
ところがどうだろう。今しがた帰宅した彼が、部屋に荷物を置きに行くこともせず、夕食を作ろうとしていた私のすぐそばまでやって来た。なぜか、その腕に青と白の美しい花を抱えて。
「おかえり。どうしたの、それ」
ふわりと甘い香りが辺りに広がる。ちょうど目の高さにあるその花弁は、小さめながらもくるんと反り返っていてなんとも可愛らしい。
「告げるならばこの日が良いだろうと考えていた。お前さえ良ければだが、受け取って欲しい」
「私に?」
告げるって何を――そう続けようとして、息をのんだ。花を抱えている腕の先、その大きな手のひらに包まれる、上品な四角い小箱を見つけてしまったから。
……いや、まさか、そんな。
一点を見つめて動けないでいる私に、静かな低い声が続く。
「他により良い方法はあったかもしれないが、お前にとってはこのほうが好ましいと思ってな」
彼は花をテーブルに置き、小箱だけを手に持って私に向き直る。信じられない気持ちのまま見上げれば、出会った頃と変わらない、どこか謎めいた瞳が私を射抜いた。
「なんで……そんな話、一度も……」
「日頃から言葉足らずですまないと思っている。お前の飾らぬ温情に、ずいぶんと甘えてしまっていたようだ」
ふ、といつもの優しい笑い方をする。ふとした時に見せてくれるその微笑みが、普段どれだけ私の心を色づかせていたかを思い知った。
「今日まで俺と共に在ってくれたこと、本当に感謝している。どうかこの先の未来も、俺と共に歩んではくれないだろうか」
そっと小箱が開かれて、いつだか頭の片隅で想像していたものが現実となってその姿を現す。
決して派手ではない、控えめな輝き。それでも、私にとっては眩しすぎるほどの光。目の奥からじわりと熱いものが込み上げてきて、その光が無数に広がりながらきらきらと視界を揺らした。
「私で、よければ……」
「……ありがとう」
丁寧に左手を取られて、ゆっくりと私の薬指に光が宿る。
こんなにも心を揺さぶられることがあっただろうか。私の人生は、もっと平坦な道だったはずなのに。
何も無くまっさらだと思っていた一本道が、いつの間にか穏やかな川沿いに繋がっていた。大小さまざまな石ころや、目をやればそこに咲いている小さな野花を眺めるのが日課になっていた。やさしく吹く涼しいそよ風に身を任せ、これからもそんなふうに、この道を歩くものだと思っていた。
ところが、ゆるやかな流れの中に突然現れた大きな舟に、私は乗り込もうとしている。少しずつ色が足されていった風景に、さらなる福音が訪れたのだ。
たまらず彼に身を寄せれば、長い腕が私のすべてを包み込んでくれる。緩流のようで、激流のようでもある彼からの幸福。それに抗うことなどできはしない。抗う気なんて、最初からない。
頭上で彼が微笑む気配がする。私は涙を拭うことも忘れ、さらりと垂れる前髪の隙間から覗く、色の違う神秘的な双眸を見上げた。
「愛している。互いを縛り得る契約に縋ってでも、お前を繋ぎ止めたいと思うほどに」
彼は私の頬に親指を滑らせると、そのまま誓いの儀式のような口づけを落とした。彼らしい、優しすぎるその感触に、また一つ温かな雫が頬を伝った。
***
「じゃあ、ご飯作っちゃうね」
「ああ、頼む」
傍らで私たちを見守っていた美しい青と白が、彼の手によってテーブルの中心に飾られる。
そういえば、あの花は何という名前だっけ。あとで彼に聞いてみようか。それとも、自分で調べてみるか。
たったそれだけのことでも心が躍るのを感じながら、私は二人分の夕食を作るべくキッチンに向き直った。
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